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【14】夜間飛行と月の子守唄


「ピヨッププ、ピヨッププ……」


 小さな声で歌いながら、ティアは階段をペタペタ上る。


(適当に歩いたら、迷子になりそう)


 ティアは野外だと、迷子になることは滅多にない。日の高さや風向きなど、肌に感じる感覚で、なんとなく自分の現在地や方向を把握できる

 だが、人間の建築物の中を歩くのには、あまり慣れていなかった。

 まして、この〈楔の塔〉は増築を重ねたせいで、非常に複雑な構造となっているのだ。人間でも迷うことがあるらしい。

 やがて階段を上り切った先で、バルコニーのような場所を見つけたティアは、外に出た。

 夜目のきくティアは、ランタンが無くても支障がない程度には、辺りがよく見える。


「高いところ、気持ちいい〜」


 初めて訪れた時は霧の中の城塞という印象だったが、実際に中に入ってみてもその印象は変わらない。どこか物々しい厳かな雰囲気のある建物だ。絵本で見たピカピカのお城とも、一般家庭とも違う。

〈楔の塔〉とは、元々は中央にある尖塔のことを指すらしい。

 そこから左右に東棟、西棟が広がっており、入門試験の合格者達は男性が東棟、女性が西棟に泊まるよう指示されていた。〈楔の塔〉の魔術師達も、普段はそこで寝泊まりしている。

 ティアはその寝床を抜け出して、夜の散歩をしにきたのだ。

 バルコニーの手すりにもたれ、ティアは物思いにふける。


(レンとセビルの怪我、大丈夫かな)


 試験官ヘーゲリヒから、魔物の存在と〈楔の塔〉の役割を聞かされてもなお、合格を辞退する者はいなかった。レンとセビルも、そしてティアもだ。

〈楔の塔〉の役割──魔物の見張りのことを聞かされた時は驚いたが、そもそも人間に正体を明かす気などなかったし、ティアが飛行魔術を学べるのは、この〈楔の塔〉しかないのだ。

 それは学費や身元の保証がどうこう、という話ではない。

〈楔の塔〉の西側辺りには、魔物だけを封じる見えない壁がある。だから人に化けていても、ティアは壁の内側でしか活動できない。

 壁の内側──即ち、帝国東部自治領イルセンの半分ぐらいだ。

 壁の内側には人里が幾つかあるが、魔法学校の類はない。だから、魔術を学ぶなら〈楔の塔〉しかないのだ。


「ピロロロロ……」


 ティアはバルコニーの手すりから身を乗り出し、目を凝らした。

 時刻は日付が変わろうとしている深夜だが、〈楔の塔〉では至る所にランタンが灯されており、見張りの姿もチラホラと見える。

〈楔の塔〉が魔物を監視する意図で作られたものなら、当然と言えば当然だ。

 帝国の東の端にある自治領イルセンは、東の果てには山脈があり、その向こう側に海がある。そんな東の果ての手前にあるのが、魔物達の暮らす〈水晶領域〉だ。

〈楔の塔〉は、魔物達が西に侵略してこないようにするための防衛線なのだろう。

 魔物は力の強い者ほど、魔力濃度の濃い土地でないと生きられず、〈水晶領域〉を離れれば、あとは緩やかに衰弱して死んでいく。他に魔力濃度の濃い土地を探そうにも、見えない壁に阻まれ、遠くには行けない。

 ハルピュイアは魔物の中では力が弱い方だし、ティアは人間の姿にしてもらう際に、制限をかけてもらっている。飴の力がないと本来の力を発揮できないのが、それだ。

 なので、すぐに衰弱死することはないだろう。


(絶対、飛行魔術を覚えて、空を飛んで……首折り渓谷に帰るんだ)


 ヒューイ、ヒューイと乾いた風の吹く渓谷。

 そこを飛び交う色とりどりのハルピュイア達。

 特にティアの姉はオレンジと赤の羽が綺麗で、大きく広げるとパッと炎の花が咲いたみたいだった。

 誰かが歌いだすと、他のハルピュイアも歌いだす。歌声に歌声が重なり、膨らみ、広がる。それはとても幸せな時間だ。

 気紛れに首折り渓谷のそばにある森まで飛ぶと、あまり力の強くない魔物を時々見かけた。

 世界から魔力が失われ、行き場を失くした魔物達は、水晶領域に辿り着き、そこに棲みつくのだ。水晶領域で暮らす魔物の中には、遠い外国からやってきた種もいるという。

 中には長い年月を経て、種族名を忘れてしまった魔物もいた。

 あの羽の生えた大蛇も、ティアは種族名を知らないから、もしかしたら忘れられた種族なのかもしれない。


(お姉ちゃん達、元気かな……)


 姉達の歌声を思い出したら、胸がキュッとなった。

 ティアは空を仰ぎ見る。雲の晴れた夜空では、欠けた月が白く柔らかな光を放っていた。

 空を飛ぶこと、歌うこと。それがハルピュイアにとって至上の喜び。

 だから、飛べなくなったハルピュイアは、せめてもの喜びを求めて歌を歌う。

 他の者に気づかれぬよう、声を押さえて、密やかに。


 ──月が綺麗な夜だから

 ──心安らかにお眠りなさい

 ──その月明かりは、未来への祝福だから


 ──月が見えない夜だから

 ──心静かにお眠りなさい

 ──抱えた罪も今は、見ない振りしていてくれる


 ──月が泣いてる夜だから

 ──今は静かにお眠りなさい

 ──おまえの代わりに流れた涙が、やがて大地を潤して、


 ──そうしてまた、朝が来る

 ──そうしてまた、明日が来る


 見上げた月を、黒い影がよぎった。細く長い物を持った人影だ。羽はないから、ハルピュイアじゃない。あれは、飛んでいる人間だ。


(あれ、飛行魔術だ! わたしが覚えたいやつだ!)


 その人間は驚くほど綺麗に飛んでいた。羽もないのに、どうすればあんな風にバランスが取れるのだろう。

 ティアがジッと見ていると、その人物は空中で静止し、フワリとティアの前に降り立った。

 背の高い細身の青年だ。年齢は二十代前半ぐらいだろうか。穏やかに微笑んで見える顔立ちをしている。

 癖のない短い髪は、夜なので色がよく分からないけれど、淡い色だった。


「こんばんは。素敵な歌だね。子守唄?」


「多分そう。おやすみなさいの歌」


 言葉を返しながら、ティアは青年を観察する。

 身につけているのはローブではなくジャケットだが、ジャケットの腕に〈楔の塔〉の魔術師の帯を結んでいた。

 手には何やら色々な荷物を抱えている。その中に、見覚えのある物を見つけて、ティアは「あっ」と声をあげた。


「セビルの剣!」


「持ち主を知ってるの?」


 青年の腕の中にあるのは、黒い人狼に弾き飛ばされ、崖の下に落としてしまったセビルの曲刀だった。曲刀だけでなく、レンとセビルの荷物袋もある。

 いずれも、やむをえずティアが置いてきた物だ。

 青年は、両手いっぱいの荷物を見下ろして言った。


「見回りついでに拾ったんだ。総務室に届けておくから、明日取りに行くといいよ」


「ありがとう! ニコニコノッポさん!」


 ティアが礼を言うと、青年はプッとふきだし、口元に手を添えて肩を震わせる。


「フレデリクだよ。君はもしかして、今年の入門試験の合格者?」


「そう! ティア。ティアです! ニコニコノッポのフレデリクさんは、飛行魔術を使う人?」


「うん。一番得意なんだ」


「すごい、すごい、すごい、どうやるの、知りたい、教えてっ」


 ティアは思わず興奮して前のめりになった。

 だって、それぐらい彼の飛行魔術は理想的だったのだ。

 青年──フレデリクは困ったように、少しだけ眉尻を下げた。


「うーん……僕は指導室の人間じゃないし、教えるの得意じゃないんだけど……ちょっとだけ夜空を飛んでみる? おんぶして、この辺りを飛んであげようか」


「いいの? 飛びたいっ、飛びたいっ!」


 ティアが鼻息荒く頷くと、フレデリクは抱えていた荷物を床に置き、ティアの前でしゃがんだ。


「じゃあ、どうぞ」


 ティアがフレデリクの背中にペタリと張りつくと、彼はティアを背負って詠唱を始めた。

 魔術の詠唱は歌みたいだ。ティアは歌を覚えるのは得意なので、その詠唱をしっかり心に刻む。

 二人の体を風が包んだ。トン、とフレデリクが軽く地面を蹴ると、その体は空に飛び上がる。とても自然に、ハルピュイアが飛び立つ時のように。


「わあああああ、すごい、すごい、すごいっ、わぁ、空だ。夜空だ。夜の風だぁ……」


 羽の生えた大蛇にしがみついた時も楽しかったけれど、今の方がずっと興奮している。

 暴れる生き物にしがみつくのと、上手な飛行魔術ではまるで別物だ。

 風切り羽根を切られて、飛べなくなった日から、もうどれぐらい経っただろう。

 飛べなくなったティアは、このまま自分が空を飛ぶ時の感覚を忘れてしまうのではないかと、恐ろしくて仕方がなかった。

 だけどこの青年の飛行魔術は、ティアに空を思い出させてくれたのだ。

 ティアはもう、嬉しくて、嬉しくて、クフクフと喉を鳴らした。


「ありがとう、ニコニコノッポのフレデリクさん! あのね、すごく嬉しい。お礼、お礼、何がいいかな。歌ならできるよ。いっぱい歌える!」


「じゃあ、さっきの歌を、もう一回聞かせてくれる? そしたら、今夜はよく眠れそう」


「うん!」


 ティアは、ちょっとだけ近くなった月を仰いで歌った。

 優しい月の子守唄を。


 ──月が綺麗な夜だから

 ──心安らかにお眠りなさい

 ──その月明かりは、未来への祝福だから


 ──月が見えない夜だから

 ──心静かにお眠りなさい

 ──抱えた罪も今は、見ない振りしていてくれる


 ──月が泣いてる夜だから

 ──今は静かにお眠りなさい

 ──おまえの代わりに流れた涙が、やがて大地を潤して、


 ──そうしてまた、朝が来る

 ──そうしてまた、明日が来る


 空を飛びながら歌うのは、格別だ。しばらく忘れていたハルピュイアの喜びだ。

 頬を紅潮させて、心のままに歌うティアに、フレデリクが静かに呟く。


「すごく、良い歌。特に、最後がいいな」


「『そうしてまた、明日が来る』のとこ?」


「うん。明日が来るって、とても幸せなことだから」


 フレデリクは最後に〈楔の塔〉の周囲をグルリと一周すると、ゆっくりと降下した。

 トン、と軽やかに着地した彼は、背中に背負ったティアを下すと、床に置いていた荷物を拾い上げた。


「そろそろ日付が変わる頃かな……『明日が来る』だ」


「じゃあ、おやすみなさいして、また明日だね」


 ティアが言うと、フレデリクは穏やかに笑った。


「うん、そうだね。おやすみなさい」


「おやすみなさい!」


 フレデリクは荷物を抱えた手をヒラヒラ振り、飛行魔術の詠唱をした。

 フワリとその体が浮かび上がって、またどこかに飛んでいく。

 その姿が完全に見えなくなるまで見送って、ティアはピヨッ、ピヨッ、とご機嫌な声を漏らした。

 入塔初日に、目標に掲げていた飛行魔術を経験できたのだ。


「嬉しいな、嬉しいな、飛行魔術、嬉しいな」


 既存のメロディを替え歌にして口ずさみ、ティアはバルコニーを後にする。

 バルコニーの扉を閉める直前、吹き込んだ夜の風が頬を撫で、頑張れと言われた気がした。

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