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【11】人の皮の中身

(良かった、割れてない)


 鞄の中に入れておいた小瓶も、中身の飴もヒビ一つ入っていなかった。

 ティアは飴を一粒口の中に放り込むと、即座に噛み砕く。飴の中にはシロップが入っていて、口の中いっぱいに甘い花の香りが広がった。

 飴を噛み砕きながら、ティアは素早くシャツとブーツ、ついでに靴下を脱いで、鞄に突っ込んだ。

 シャツの下に着ているのは、胸まわりを隠す簡素な肌着で、それに膝上丈のズボンをはいただけの身軽な格好だ。

 別に暑かったわけじゃない。そうしないと破れてしまうのだ。

 ティアは口を開き、喉の奥から声を発する。発声練習だ。


「ピロロロロロロ……アー……アーァァァァ──」


 久しぶりだったけれど、この喉はちゃんと歌い方を覚えている。

 ティアはうっとり微笑み、両手を緩く持ち上げた。

 腕の表面がザワザワと震える。ブーツを脱ぎ捨てた素足がミシミシと軋み、形を変える。


「アーアァァァ──」


 少女の白い足はブツブツとした鱗に覆われ、指も爪も長く伸びる。

 持ち上げた腕が粟立ち、まるでサナギが殻を破るかのように腕から白い翼が飛び出す。大きく美しい、純白の翼だ──ただ、風切り羽根がない。


「アーァァァー」

『アーアーアァァ』

『ァーーァアー』


 少女の声に、同じ声が異なる旋律で重なる。

 この喉は三つの音を同時に発することができるのだ。

 暗闇の中、ティアの目がトロリと蕩けるような蜂蜜酒の色に輝く。

 あどけない少女の顔に浮かぶのは、窮屈な体からの解放を喜ぶ微笑。口にするのは、古い言葉の歌だ。


 ──解放の時は来た、解放の時は来た

 ──喜びは我が糧、天上の歌は杯に溶け

 ──あなたを喜ばせる美酒となる


 三つの声が重なり、絶妙なハーモニーを奏でる。

 たとえ言葉の意味を知らずとも、誰もがそれを喜びの歌だと感じるだろう。

 それほどまでに喜びに満ちた歌声は、甘やかでありながら美しく、聴く者の頭に恍惚を流し込む、忘我の悦びを与えた。

 聴く者の耳を、心をとろけさせる魔性の歌を歌うのは、少女の顔と肢体に、鳥の羽と足を持つ魔物。


 首折り渓谷のハルピュイア、フォルルティア。


 それがティアの正体だ。

 ティアは元々、もっと北の山の奥にある首折り渓谷というところに棲んでいた。

 ところがある日、人間に捕まり、風切り羽根を切られてしまったのだ。

 そうして檻に閉じ込められて、歌で主人を慰める歌い鳥としての役割を強要された。

 空を飛ぶことと、歌を歌うこと。それがハルピュイアにとって至上の喜び。

 風切り羽根を奪われ、飛べなくなったティアは、自分を閉じ込めた人間への憎悪を募らせた。そして、遂には人間達のもとから逃げ出し、ある男に助けられた。

 その男が言ったのだ。

〈楔の塔〉の魔術師になって飛行魔術を覚えれば、君は再び空を飛べるようになる、と。

 男はティアが人間に成り済ますための(すべ)を与え、人間として最低限の知識を与えて、〈楔の塔〉の入門試験に送り出してくれた。


 ──溶けよ、溶けよ、我が腕で

 ──身を委ねれば、くちづけを

 ──甘くねだれば、ささやきを


 黒い人狼はティアの歌に正気を失い、ボンヤリとしていた。


(あぁ、楽しいなぁ、楽しいなぁ……思いっきり歌うのは、やっぱり楽しい)


 このままいつまでも歌っていたいけれど、時間がない。

 ティアがこの姿でいられるのは、たった五分しかないのだ。

 まだ時計を読むのは上手じゃないけれど、五分だけは体で覚えた。あっという間の短い時間だ。

 ティアは翼の先端にある人の形をした手で鞄を引っ掴み、自分の体に斜めにかけ直した。飴と着替えは、なくすとまずい。

 そうして勢いよく坂を駆け上がる。ペタペタと膝をあまり曲げない走り方だが、ティアにはこの方が、人の足よりずっと走りやすかった。

 鋭い爪が地面を引っ掻き、人間の足音とは違う音を立てる。

 ぼうっとしている人狼の横を駆け抜け、ティアは倒れているレンとセビルの元に辿り着いた。

 翼の先にある手で二人の体を掴み、ずるずると引きずる。

 ティアの翼には風切り羽がない。だからティアは、この場を飛んで逃げることができない。


(飛べない、けれど……滑空なら……)


 ティアは足の鉤爪で、レンとセビルの体をしっかりと掴む。ハルピュイアにとって足の爪は武器で、人間の手の握力よりもずっと強いのだ。

 そうして翼をはためかせ、ティアは歌った。

 喜びの歌とは違うそれは、風の精霊に捧げる精霊讃歌だ。

 精霊と魔物は敵対することが多いけれど、ハルピュイアと風の精霊は別だ。

 風の精霊は、美しい歌を供物として好む。故に、ハルピュイアが歌を捧げると、時々力を貸してくれるのだ。


(良かった。精霊が、近くにいる)


 姿の見えない下位精霊が、チカチカと微かに瞬きながらティアの周囲を漂った。

 そんなか弱き精霊達に、ティアは歌を捧げる。


(ちょっとだけ、力を貸してね)


 背後で人狼の唸り声がした。

 我を失わせる喜びの歌が終わったことで、正気を取り戻したのだ。


「グルァァァァ!!」


 唸りながら人狼が突進し、爪を振り上げる。

 ティアは大きく翼を広げ、足でレンとセビルを掴んだまま、崖を飛び下りた。

 ゴゥゴゥと風の音がする。懸命に翼をはためかせるが、ティアの体は浮かばない。

 本来、ハルピュイアは牛を掴んで飛ぶことだってできるのだ。レンとセビルを掴んで飛ぶぐらいわけない。それができないのは、風切り羽根がないせいだ。

 それでもティアは限界まで翼を広げて風を受け、少しでも墜落の勢いを殺した。

 そのまま地面にぶつかる直前、強い風が吹いて、ティア達の体を見えないクッションが受け止める。風の精霊が力を貸してくれたのだ。


(助かっ、た……無事、下りれた……)


 その時、ティアの羽がざわついた。翼が勝手に縮まり、腕の中に戻っていく。

 生じる痛みは、腕を切り裂いて無理やり異物を詰める痛みに似ていた。

 足も同様に、鱗に覆われた鳥の足が変形し、人の足になる。


「あぎゅぅぅぅぅ、ぅぁぁぁ、うぐぅ、うぅぅ……」


 僅か一分とかからず、ティアの姿はハルピュイアのものから、人間の少女に変化する。

 変形の瞬間に激痛が走るが、それを堪えればすぐに痛みは引いていった。

 ティアはフゥフゥと荒い息を吐きながら、鞄からシャツやブーツを取り出し、身につける。人間は、裸足や肌着で出歩かないのだ。


(あの人狼、崖を下りてくるかな?)


 あの身体能力だ。不可能ではないだろう。

 ならば、モタモタしている暇はない。

 ティアは適当に長い蔦を引きちぎると、レンとセビルを背負い、蔦で自分の体に縛り付けて固定した。

 紐を結ぶのは、とても難しくて苦手だ。それでも手と口を駆使して、なんとか固結びをする。


(ん、上手にできた)


 ティアの腕は、ハルピュイアの時は翼にあたる。一晩中飛んでいられるハルピュイアの翼は強靭で、人に化けた今も腕の力は人間よりずっと強いのだ。

 だから、セビルとレンを背負うぐらい余裕だ……と思ったら、小柄なレンの体がズルリと傾いた。


(おんぶって、難しい!)


 そういえば、ハルピュイアは何かを背負うなんてことはしないのだ。だって羽だし。運びたいものがある時は、口で咥えるか足で掴む。


「ふん!」


 傾いたレンの体を持ち上げ、ティアはヨタヨタ、ペタペタ歩きだす。

 二人の荷物やセビルの剣を置いていくことになるが、それは後で謝ろう。

〈楔の証〉は各々、服の中にしまっているから、あとは明日の正午までに集合場所に戻るだけだ。

 ハルピュイアは鳥の魔物だが、鳥目ではない。魔物は大抵夜目がきくのだ。

 ティアもその例に漏れず、暗いところでも人間よりずっとよく見えた。方向感覚も割と良いので、地図を見ずとも集合場所に戻るぐらいはできる。


(いっぱい歩けば、間に合うはず。だけど……)


 ティアは首を捻って、背負ったレンとセビルを見る。

 二人とも、グッタリして動かない。辛うじて息はしているが、ティアに分かるのはそれだけだ。


(人間って、怪我をしたら、何をしたらいいんだろう?)


 ハルピュイアは頑丈だし、怪我をしても、人間よりずっと治りが早いのだ。

 だから、ティアは止血や添え木をするという発想がない。そもそも、手当という概念がない。怪我をしたら、魔力が濃い土地でひたすら休む。


(人間も寝た方が治る……気がする、から、起こさないでおこう。うん)


 人の皮を被ったハルピュイアは、ペタペタと夜の森を歩いた。

 ふと、ティアは思い出す。そういえばレンとは、〈楔の証〉を手に入れるまでは、協力するという約束をしていたのだった。

 今はもう、それぞれ自分の分の〈楔の証〉を手に入れたのだから、ティアがレンとセビルに協力する理由はない。

 二人はティアの姉妹でも、群れの仲間でもない。

 ここで置いていっても、良いはずなのだ。


「ピロロロロ…………ま、いっか!」


 明確な答えが思いつかないけれど、そうしたいと思ったなら、それが理由でいい。

 そう納得して、ティアは二人を背負う腕に力を込めた。


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