【1】ピヨップ!(挨拶及び、肯定的な返事、相槌など)
夏の終わりの早朝、薄く霧が出ている道を、一人の少女が鼻歌混じりに歩いていた。
年の頃は十五、六。簡素なシャツに膝上丈のゆったりしたズボンという、少年めいた格好をしている。
襟足の髪を少しだけ長く残し、顎の辺りまで短くした髪は艶のない白髪。
パッチリとした目は蜂蜜酒に似た琥珀色。
目尻がキュッと上を向いた、ともすればキツく見えそうな顔立ちをしているが、あどけない表情がキツさを緩和し、不思議な愛嬌を与えていた。
「ふんふふーん、ふふーん、ふふふんー」
鼻歌は、この帝国でよく歌われている讃美歌「荒野を行く者」だ。
荒野を行く聖人の道は険しく、地を踏みしめる足はイラクサで血が滲み、それでも彼の者は荒野を行く──という高尚な歌詞を、今の自分に喩えているわけではない。単にメロディが気に入っているだけだ。
少女の鼻歌は音程が正確で、讃美歌特有の厳かさと慈しむような柔らかさを感じさせた。
高音が無理なく伸び、短い音は一つ一つがぼやけることなく明確に響く。
無駄に完成度の高い鼻歌を歌っていた少女は、前方に目当ての建物を見つけて足を止めた。
薄い霧の中に浮かび上がるのは、中心に尖塔を抱き、そこから左右に別棟が広がる大きな建物。周囲は石造りの城壁でグルリと囲まれており、どこか要塞めいた雰囲気すらある。
帝国東部自治領イルセンの丘に作られた、歴史の重みを感じさせる重厚な建物。
──楔の塔。
この帝国のあらゆる魔術を集め、その知識を守り、技術を研鑽している魔術師達が集う塔である。
(塔っていうより、絵本で見たお城みたいだなぁ)
〈楔の塔〉は、当初は中央の塔だけだったが、後に増設を繰り返し、現在のような佇まいになったらしい。少女をここに送り出してくれた人が、そう言っていた。
『そのお城には悪い魔法使いが住んでいて、お姫様を攫って閉じ込めてしまったの』
ふと少女の耳の奥に、絵本を読んで聞かせるあどけない声が蘇る。
少女はブンブンと首を横に振って、耳にこびりつくその声を振り払い、城壁の門に近づいた。
門の前には、門番らしき茶髪の中年男性が一人佇んでいる。
武器である槍を門に立てかけたその男は、見るからにやる気なさげな佇まいで、少女に気づくと「おや」と眠た気な目を持ち上げた。
少女は小走りに、門番に近づく。
(挨拶は、元気良く!)
少女は丁寧な言葉遣いがあまり得意ではないので、教わった言葉をそのまま口にした。
「こんにちは、ティアっていいます。魔術師になりに来ました。よろしくお願いします」
「あぁ、やっぱりねぇ」
門番の言葉に、ティアは琥珀色の目をパチパチさせて、首を傾ける。
霧で湿った白髪が、ペチョリと頬に張りついた。
「やっぱり?」
「お嬢ちゃん、あんた、入門試験を受けに来たんだろ?」
「うん、そう。そうです。入門試験に合格すれば、〈楔の塔〉の魔術師になれるって教えてもらったの」
「入門試験な、会場はここじゃなくて、あっちの方にある森なんだよ。セビアの森って言うんだけど」
「ピェッ!?」
驚愕の声を上げるティアに、門番は南東の方角を眺めながら言う。
「毎回、一人か二人は間違えてこっちに来ちまうんだよねぇ。だから、念のための案内役で俺がここに立ってんの。さっきも一人間違えてこっちに来て、慌てて森の方に走って行ったよ」
「慌てて?」
「そう。試験開始まであと一時間だからねぇ」
「ピョェッ!?」
最上級の驚きの声に、門番の男は無精髭の生えた顎を撫でて、半眼になった。
「それ、驚いてるのかい? 斬新だねぇ……いやぁ、最近の若い子の流行りはよく分からなくて……」
「オジサン、教えてくれてありがとう! わたし、走る! すごく走る!」
「おぅ、頑張れー」
「ピヨップ!」
ティアが元気良く片手を上げて言葉を返すと、門番の男は「ピ、ピヨップ?」とよく分かっていない顔で真似をし、片手を振る。
それをなんとなく嬉しく思いながら、ティアは森に向かって走り出した。
襟足だけ長い白髪を尻尾のようになびかせて、少女は懸命に走る。
その後ろ姿を眺めながら、門番の男は思った。
(……あの娘、足が悪いのか?)
少女は足を引きずっているわけではないのだが、あまり膝を曲げない走り方をしているのだ。端的に言って、ペタペタと頼りなく、危なっかしい。
これから彼女が向かうのは険しい試験だ。魔術師としての才能だけでなく、身体能力や精神力も問われる。
男には死んだ妻と娘がいた。娘が生きていたら、あれぐらいの歳だろうか。
試験で死んでほしくないなぁ、と男は密かに思った。
* * *
魔法──それは、魔力を用いて何らかの現象を起こすこと全般を指す。
かつて奇跡の力と呼ばれたそれは、時代の流れと共に、魔力を扱う術が体系化され、魔術と呼ばれるようになった。
世界には、魔法生物と呼ばれる存在がある。
現代なら竜や精霊。旧時代ならそれに加えて、今はほぼ絶滅したと言われる魔物達。
魔力の扱いに長けた魔法生物達は魔術を必要とせず、手足や尻尾を動かすのと同じ感覚で魔力を操った。
そんな魔法生物に対抗するべく、人間の魔術師達は魔術の研究を続け、その技術を研鑽してきたのだ。
だが、時代の流れで、権力者の魔術師に対する扱いは変化する。
魔術師は時に権力者に重宝されて囲われ、時に異端として糾弾され、時代の変化で失われていく魔術もあった。
殊に、このシュヴァルガルト帝国は複数の小国が集まって成立したという経緯があり、地方によって文化が違う。
それは魔術の扱いに関しても同様だ。北部では禁忌だった魔術が、南部では伝統行事に組み込まれている、なんてこともある。
現代魔術が浸透した今、旧時代の魔術は排斥すべきという地域も珍しくはない。
そうして行き場を失った魔術師達の最後の砦が、旧時代後期、帝国東部自治領イルセンに作られた〈楔の塔〉だ。
──〈楔の塔〉は、あらゆる魔術を受け入れる。
そう宣言した〈楔の塔〉は、旧時代から現代に至るまで、魔術の保護、研究活動を続けており、三年に一度、見習い魔術師を募集していた。
入門試験は年齢、性別、前歴を問わず、もし入門が許可されたら、城壁内の居住区に暮らして、一年間見習い魔術師として勉強することが許されるのだ。
現代では、魔術を学ぶには高額な学費の魔術師養成機関や魔法大学に通うことが一般的だ。
だが、〈楔の塔〉は寄付金も学費も必要としない。入門試験に合格すれば、衣食住もある程度保証される。
故に、三年に一回の入門試験には多くの入門希望者が集まるのだ。
試験会場を間違えたうっかり者の少女、ティアもその一人である。
懸命に体を揺らしてペタペタと走る少女ティアは、前方に森が見えてきたところで、耳を澄ませた。
入門試験が森のどこに集合なのか、すっかり訊き忘れたのだが、森の方で人の声が複数聞こえる。人が集まっているのなら、そこが集合場所なのだろう。
(多分、森の入り口あたり……見えたっ!)
残り時間はあと僅かだが、ギリギリで間に合ったらしい──と思ったところで、ティアは気がついた。自分が走っているのは丘の上だが、切り立った崖のようになっているのだ。
目的地までに高低差があり、ティアは高いところにいる。
安全に進める道を選んでいたら、間に合わない。
「だったらぁ〜〜〜」
目の前は、崖にも似た段差。建物で言うなら、二階から一階に降りるぐらいの高さがあった。
だがティアは迂回せず、敢えて勢い良く走る。ペタペタと。
「飛っべないならば、跳っべばいいっ! ふんっ!」
それなりの距離を走ってきたが息を切らすことなく、節をつけて歌うように叫び、ティアは跳躍した。
跳躍と同時にギュッと膝を抱え、斜めがけの鞄を腹に抱き込むようにして体を丸める。
ティアの体は建物一階分の高さから落ち、そのまま勢いを殺すことなく地面を転がった。ペタペタ走りよりも遥かに速い移動方法だ。
白髪の少女は泥と草まみれの団子のように、ゴロゴロと坂を転がり落ちていった。
* * *
〈楔の塔〉南東にあるセビアの森の入り口には、百人近い入門志願者が集まっていた。
〈楔の塔〉の入門試験には年齢制限がないので、志願者は老若男女様々だ。
いかにも魔術師らしいローブ姿で杖を手にしている者もいれば、旅装姿の者や、帯剣して鎧を着ている者もいる。
そんな入門志願者から少し離れたところに佇む、二人の人物がいた。
一人は四〇歳程の痩せた男。ごくごく淡い金髪を顎の辺りで切り揃えており、神経質そうな顔に丸眼鏡をかけている。
もう一人は、二〇代半ばの中肉中背の女だ。癖の強い茶髪を背中まで伸ばしている。前髪を随分と短くしているので、それが彼女を少し幼く見せていた。
二人とも、いかにも魔術師らしいローブ姿だ。ローブを着た人間は志願者にもいるが、この二人だけが〈楔の塔〉の魔術師であることを示す帯を身につけている。
神経質そうな男が、ローブのポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめながら呟いた。
「──あと五分か。よろしい。それでは試験を始めよう」
「ヘーゲリヒ室長。あと五分あるのなら、待つべきでは?」
短い前髪の女が控えめに言うと、ヘーゲリヒは細い指で眼鏡を持ち上げた。
「〈楔の塔〉の門を潜ったら、待っているのは集団生活。ともなれば、五分前行動は当然のことだと思わないかね、レーム君?」
「はぁ……でも、三年に一度の試験ですし……」
「三年に一度の入門試験。だからこそ、万全の体制で挑まぬ者に、チャンスを掴む資格はないのだよ。五分前行動もできぬ者など論外……ギャァッ!?」
全てを言い終えるより早く、ヘーゲリヒは空から降ってきた、白くて丸い何かに押し潰された。
白くて丸い何か──体を丸めて転がり落ちてきた白髪の少女ティアは、うつ伏せに倒れる男の背中の上で四肢を伸ばすと、頭を左右に振った。目が回ったのだ。
「ピヨヨヨヨヨ……はっ!」
ティアは琥珀色の目でパチパチと瞬きをする。
周りには沢山の人がいて、誰もがティアに注目していた。
なるほど志願者。これが全部。こんなに沢山! ──ティアは少しビックリしつつ、座ったまま元気に片手を上げた。
挨拶は元気良く、だ。
「こんにちは、ティアっていいます! 魔術師になりに来ました! よろしくお願いします!」
誰もが遠巻きにティアを見ている中、一人の女がティアに近づいてきた。
フワフワした茶髪の女だ。後ろ髪は長いのに、前髪はとても短い。
「ねぇ、貴方。ヘーゲリヒ室長の背中から、降りてあげて?」
「へーげりひ、しつちょー?」
前髪の短い女はティアの尻の下を見ている。つられてティアも視線を下に向ける。
ローブを着た背中と、切り揃えた淡い金髪が見えた。なので、ティアは元気に挨拶をした。
「こんにちは!」
「挨拶の前に降りたまえよ!」
はぁい、と素直に返事をしてティアが降りると、ヘーゲリヒ室長と呼ばれた男はローブの汚れを払いながら立ち上がる。
立ち上がったヘーゲリヒは背が高かった。
ティアが首を傾けヘーゲリヒを見上げると、ヘーゲリヒはずれた眼鏡を直しながら、ジロリとティアを睨む。
身長差があるのでヘーゲリヒの姿は逆光になり、その顔に暗い陰を落とした。
「君は〈楔の塔〉の入門志願者かね?」
「はい」
「十五歳未満の場合、保護者の同意書が必要なのだがね?」
「わたし、十五歳」
「……よろしい。レーム君、書類を」
レームと呼ばれた前髪の短いフワフワ髪の女が、ティアに書類を差し出す。
そこにはこれから行われる試験に関する注意事項が、ツラツラと書き連ねられていた。
ついつい寄り目になるティアに、ヘーゲリヒが問う。
「字は読めるのかね?」
「一応読める……けど……書いてあることが、なんか……難しい……とても難しい……」
この手の説明書きは、堅苦しくて難しい言い回しが多いのだ。
ティアとしては、「○○はしていいよ! ××は駄目だよ!」ぐらい、噛み砕いて言ってほしい。
ティアが眉間に皺を寄せ、唇を曲げた不細工な顔で書類を睨んでいると、ヘーゲリヒは咳払いをして早口で言った。
「試験中に怪我をしたり死んだりしても自己責任。武器をはじめとした私物の持ち込みは全て許可する。試験に落ちても試験内容は口外しない──理解できたかね?」
「それってつまり……」
武器をはじめとした、私物の持ち込みは全て許可。
その言葉が意味することを理解し、ティアは成る程と頷く。
「いっぱい持ってきた飴、捨てなくていいんだ。良かった!」
「……非常食を持参したのは賢明だがね」
ヘーゲリヒはどこか鼻白んだような顔で呟き、少し声を大きくして言った。
「この試験は非常に危険で、命を落とす者も少なくない。故に、子どもの受験は推奨しないのだよ。君が〈楔の塔〉を目指す理由が、他でも足りる理由なら、すぐに帰ることを勧めるがね?」
きっとその言葉は、この場にいる全員に向けられたものなのだろう。
入門志願者の中には、ティア以上に幼く見える者も少なからずいる。
ティアはヘーゲリヒの言葉を頭の中で反芻した。
(〈楔の塔〉を、目指した理由……)
ティアはヘーゲリヒを見上げる。
返す言葉は決まっていた。迷いなど、ある筈がない。
だってティアには、これしかないのだから。
「わたし、魔術師になって、飛行魔術を覚えて、空を飛びたいの」
術式を用いて魔力を行使する魔術。その中には、飛行魔術と呼ばれるものがあるという。
上級者向けの非常に難しい魔術だが、それを覚えれば、自由自在に空を飛べるのだ。
ヘーゲリヒが、どこか試すような目でティアを見た。
「飛行魔術を覚えたいのなら、他の魔法学校でもできるがね?」
「わたしが魔術師になるなら、ここ以外は無理って言われたよ」
一般的な魔法学校や魔術師養成機関は、高額の授業料や寄付金がいる。
この帝国で唯一、金をかけずに魔術を学べるのが、この〈楔の塔〉なのだ。
ヘーゲリヒは、ティアもまた、貧しい家の出身だと考えたのだろう。それ以上は何も言わず、書類にサインをするよう促した。
ティアが辿々しい字でサインをすると、ヘーゲリヒは「なんという悪筆……」と唸りながら、書類をレームに手渡す。
レームは書類の枚数を確認し、一つ頷いた。
「はい、受領しました。ティア・フォーゲルさん。受験を認めます」
「では、これより、試験の説明を始めるかね。あぁ、全く……どこかの誰かさんのせいで、予定時刻を七分も超過してしまったがね」
「ちょーか」
よく分かっていない顔で復唱するティアに、レームが小声で「しー」と囁き、口元に指を当てた。