番外篇
西ストランドの王宮には、美しい白薔薇の庭園がある。
王太子、タイタス・アルカディウスが婚約者を迎えるにあたり、王家が彼女にちなんで造らせた庭園である。
タイタスが今日もふらりとそこへ立ち寄った時、黒猫の尾のように優美なロートアイアンのベンチには既に先客がいた。
「どうしたの……? 今日は随分と甘えん坊ね……?」
どこか弾んだグウェンドリンの声。
タイタスの瞳孔がギャンと拡がり、グウェンドリンに釘付けになる。彼女の腕の中には一匹の猫がいた。
陽光を浴びてきらめく茶縞模様。愛くるしいオリーブグリーンの瞳。
グウェンドリンは愛おしげに猫を抱き、耳の後ろを優しく撫でてやっていた。
タイタスが近づいていくと、グウェンドリンは顔を輝かせて立ち上がり、猫はするりと彼女の腕から降りて走り去っていく。
「殿下――」
「今のは?」
真顔でそう尋ねるタイタスの声は驚くほど低く、グウェンドリンは若干後ずさりながら尋ね返した。
「今の、とは……?」
「あなたが今、抱いていた猫」
グウェンドリンは不思議そうに首を傾げた。
「イザベラのことですか? あ、聞いてくださいませ。イザベラったら、いつもはお高いのに今日は随分――」
「イザベラじゃない」
「はい?」
困惑しているグウェンドリンに、タイタスは暗い表情のまま告げた。
「あれはポールです」
「ポ……ポール……?」
「イザベラのすぐ下の弟の」
「まあ! そうだったんですか。私ったら、猫ちゃんの見分けがつかなくて恥ずかしい」
グウェンドリンは申し訳なさそうに眉尻を下げた。猫違いをしていたせいで、タイタスはこんなに不機嫌なのだろう。
「随分親密な様子でしたね」
「え、ええ……。ポール……? は人懐っこくて、好きなだけ撫でさせてくれて……」
「ああいうやつがいいんですか」
「え?」
話についていけず、グウェンドリンは再び尋ね返した。タイタスは一瞬、傷ついたような顔をして、ぐっと眉根を寄せた。
「ああいうやつが、いいんですか」
「あっ、殿下!」
タイタスはグウェンドリンの返事も待たず走り去っていった。
タイタスが走っていった先は、王宮からほど近い場所にある、お気に入りの野原だった。
――あ~。そりゃ~しゃーないよ。人間は個体どころか、オスメスの区別すらつかないっていうぜ。
黄色い菜の花が一面に揺れる野原で、マーカスがしたり顔で自分の言葉にウンウンと頷いた。
シャーッと駆けていくホイップを見かけ、「おっ、何だ何だ」と追いかけてきた面倒見のいい蝶である。
ホイップはふて寝を決め込んでいた。
マーカスは呆れ顔でホイップを諭した。
――そもそもグウェン姐さんはオス猫を男として見てないだろ。常識で考えろ常識で。
――フン……。
ホイップはふいと顔を背けた。マーカスの言う通りなのは分かっているが、ああいうのを公然と見せつけられていい気はしない。
――ポールは……狙ってた。
――狙ってねえよ! あいつは綺麗なお姉さんに抱っこされるのが好きなだけで、イチャつく相手は普通にメス猫なんだよ!
マーカスは、はぁ~とため息をついた。
――重症だねぇ……。
人付き合いを好まず、いつも淡々としているホイップ――人間の時の名はタイタス・アルカディウス――が、まさかこんな風になってしまうとは。
仕方がないので、マーカスはとっておきの話を教えてやることにした。
――いいか、俺から聞いたって絶対言うなよ?
退廃的なサファイアブルーの瞳が、面倒くさそうにマーカスに向けられる。
――そんな顔していられるのも今のうちだぜ。
――……早く言え。
ホイップはますます意固地になり、顔を背けて耳だけ貸した。
――グウェン姐さんは猫好きだけど、本格的に猫派になったのは旦那と出会ってからなんだってさ。
――え?
ホイップは顔全体をマーカスの方に向けた。
――何故お前がそんなことを。
――あー、それはね……。
ペハヴィーンにいた頃、グウェンドリンは度々、問わず語りにマーカスに独り言を聞かせることがあったらしい。ホイップが蝶々とお喋りしているのを見かけて影響されたのだろう。
マーカスがグウェンドリンの独白を再現した。
――ホイップが可愛くて可愛くて、いつの間にかすべての猫が愛おしく思えるようになっていたの……。
グウェンドリンはそう言って、夕焼けに染まった雲を見上げ「綺麗ね」と微笑んだという。
――グウェン姐さんが猫大好きなのは、要するに旦那が好きだからだよ。何も心配することないと思うけどな。
ホイップはニャッ……と言ったきり声を失った。
そのまましばらく固まっていたが、突然ピンと耳を立てる。
「殿下……!」
風に乗って聞こえてきたのは、紛れもなく、愛するグウェンドリンの声だった。
――見ろよ。あんなに必死になって旦那を捜してんじゃん。
揺れる菜の花の向こうで、グウェンドリンが懸命に周囲を見回している。マーカスはひゅうと口笛を吹き、感心したように言った。
――分かってるねぇ~! 旦那に着せるマント持参だ。旦那が今猫になってることもお見通しだし、ちゃんと話し合いたいから人の姿に戻ってもらいたいんだろ。
マーカスはちょんとホイップの頭に乗り、細い肢で踏み踏みする。
――お姫様を泣かすなよ、色男。
彼はそう言って、勢いよく飛び立った。
「――ホイップ!」
粋なマーカスがわざと高く飛び、ホイップの位置をグウェンドリンに知らせる。
グウェンドリンがほっとしたように駆け寄ってくる。ホイップは広げられた彼女の腕の中に、ごく自然に潜り込んだ。
さっきの今で気まずいものはあったが、本能には抗えなかった。優しく背を撫でられ、心のわだかまりが溶けていく。
「殿下、元の姿に戻ってください……」
次の瞬間、グウェンドリンはタイタスに抱きすくめられていて、低い声が「さっきのは、悪かった……」と耳朶をくすぐった。
グウェンドリンは首を振る。
タイタスは「どうぞ」と手渡されたマントを受け取り、大人しく羽織った。
二人で野原に腰を落ち着ける。
「殿下、聞いてください」
タイタスは一体何と言って責められるのだろうとビクビクしていたが、グウェンドリンの口から出てきたのは予想だにしない言葉だった。
「私、西ストランドの宮廷で、つらく当たられたことがないのです」
「……当然でしょう? あなたにつらく当たる者がいる方がおかしい」
グウェンドリンがくすりと笑った。
「この国の人にとって、私は見慣れぬ外国人で、しかも婚約破棄された――あ、間違えました、婚約破棄した過去があるにもかかわらず、です」
グウェンドリンはタイタスの顔を覗き込み、穏やかに言った。
「殿下が私を守ってくださっているからでしょう?」
マリポルト王太子の婚約者だった頃のような、否、それよりも意地の悪い扱いを受けてもやむなしとグウェンドリンは覚悟していたのに。
タイタスは、ああ……と頭を抱えた。
グウェンドリンの言う通りだった。彼女を貶める者、害をなす者は許さないと最初からくどいくらいに釘を刺し、グウェンドリンの周囲の人間が陰で彼女におかしなことをしていないか、猫の姿で今も定期的に探っている。
「猫になる」が出来るタイタスは、人には裏表があることをよく知っていて、彼らの言動には目を光らせていたのだ。
「気づかれないよう、やっていたつもりだったのに」
タイタスが悔しそうにぼそりと言う。
「ばれてるなんて、かっこ悪い」
「全然知りませんでした。でも、そうとしか考えられなかった」
タイタスの肩にグウェンドリンが頭を預ける。
「これほどまでに、よくしていただいて」
「当然のことだ。そんな風に言われる覚えは」
「だから私は、殿下のお気に障ることは、あまりしたくないのです。殿下が、望まれるなら……私……もう、猫ちゃんを、だ、だ、抱きませ……」
「――抱いてやって」
グウェンドリンは思わずといった様子で体を離し、タイタスも彼女の方に体を向けた。
恋人たちは互いの顔をしっかりと見つめ合う。
タイタスの指がグウェンドリンの頬をなぞった。
「彼らもあなたに抱かれるのは好きだから」
「お嫌じゃないんですか?」
それには答えず、タイタスは微笑んだ。嫌に決まっているが、受け入れるしかあるまい。
グウェンドリンの夫となるのは他の誰でもないこのタイタスで、どれほど猫が寄ってこようと、タイタスに取って代わることなど出来はしない。
美しいサファイアブルーの瞳がグウェンドリンを甘く絡め取った。
「あなたがどれだけ猫を抱こうと――あなたを抱くのは俺だけです」
タイタスが両腕を広げ、誘うように微笑む。
「にゃあ!」
次の瞬間、グウェンドリンはタイタスの胸に飛び込んだ。