成金男爵令嬢の二度目の恋。
最初は『興味』だった。
彼女のことを耳にしたのは、ほんの噂話程度。
毅然として輝きを纏う女性──そう評される彼女に、特段の感情を抱くこともなかった。
それなのに、ほんの一瞬。あの涙を見て、不意に心が揺れた。
拭ってあげたい、と思ったのだ。自分でさえ驚くほど自然に。
……一目惚れなんて、自分には一生縁のない言葉だと思っていたのに──
レイチェル・ディ・フォーテスキュー゠ブリックデイルは、煌びやかなパーティー会場の隅で不安を抱えていた。
歴史ある貴族たちの視線が、冷霧のように自分を包み込む。その中には、鋭利な棘が隠されているように感じることもあるけれど、今はそれが問題ではない。
婚約者であるドウェイン・バロン・ハーディの姿が、どこにも見当たらないのだ。
少なくとも一時間は確認していない。
(どこに行ったのかしら……?)
ドウェインが席を外すのは珍しいことではない。
たまにこうしてふらりと姿を消すのも、彼らしいと言えば彼らしい。
(それなのに、どうしてこんなに胸がざわめくの?)
その違和感がどこから来るのか、自分でも分からない。ただ、一度浮かび上がった不安が心を満たしていく感覚が、どうしようもなく嫌だった。
彼を探すべきかどうか迷いながらも、足は自然と廊下へと向かっていた。
会場を離れるにつれて、喧騒と華やかな笑い声が遠ざかっていく。代わりに、不安がますます重たく胸にのしかかる。
(もしかして……)
考えたくないことを、考えそうになるのが怖くて頭を軽く振る。
廊下を抜け、庭園へと続く扉の前で一瞬ためらう。
でも、このままじゃ余計に気になるだけだと、息を整え、扉の取っ手に手をかけた。
開け放たれた扉の先には、宵の銀光に照らされた静かな庭が広がっている。
咲き乱れる花々の甘い香りが漂う中、視線の先に動く影を見つけた。
小道の先で、二つの影が寄り添っている。……いや、抱き合っている。
その瞬間、レイチェルの心臓が凍りついた。
最初は影だけを見た。その輪郭が脳裏にある『まさか』という不安を呼び起こす。
しかし、次第にそれが現実だと認めざるを得ない瞬間が訪れる。
蒼白い輝きが二人の姿を映し出した時、自分の中の『信じたくない』という気持ちが崩れた。
血の気が一気に引き、全身にじわじわと痛みが染み渡る。叫びたいのに、声が出ない。立ち尽くすしかできない。
目の前には、重なる二つの影。
その抱擁の親密さは、疑いようもない。
本当に、本当に、疑いようがない。
月明かりに照らされたのは、間違いなくドウェインと彼の幼馴染であるエミー・オブ・パウリヌス子爵令嬢だった。彼女の頬が彼の胸に触れ、彼の腕がそっと彼女の肩を抱いている。
その仕草一つひとつが親密で、そこに割り込む余地など微塵も感じられない。まるで、見えない壁が二人を包み込み、外界を拒絶しているかのよう。
静寂を裂く冷たい風が頬を撫で、レイチェルの耳に二人の声を運んできた。
「エミー……お前には、いつも救われてる」
「わたしは何もしてないよ? あなたのそばにいるだけ」
「それがいいんだ」
「レイチェルさんみたいに強くて目立つ存在じゃないわたしを必要としてくれるなんて、お世辞でも嬉しいな」
「世辞じゃない。……僕の為にとか、何とか言って、『宿題はできたか』、『設備改善案はどうなってるの』、『もっと真剣に考えないと』だの、指図してくるあの女とお前は大違いだよ。あいつ、一体何様のつもりなんだろうな? はあ……あんなのと結婚したくないよ……」
彼が優しく微笑んで「君はしっかり者だな」と言った場面が、頭の中に唐突に蘇った。
しかし今、その彼が、別の女性を抱きしめている──
(『あの女』? 『あいつ』? 『あんなの』?)
その言葉が、容赦のない刃となって胸に突き刺さる。
誰を指しているのかは……明白。
(私のことなのね)
「……ドウェイン、辛かったね。思いやりがない人との会話は、どれだけ頑張っても報われないものね」
「ああ、まったく。疲れるばかりだよ」
「でもね、レイチェルさんだって悪気があるわけじゃないと思うよ」
「エミーは……本当に優しいな」
エミーは微笑んだ。
が、表情は控えめでも、目は淡々としていて、相手の心を読み取るようだ。
「……その、レイチェルさんはちょっと物言いがきつくて、『自分の信じる正義』ばかり言いすぎちゃうだけなんじゃないのかな? ああいう人って、自分では優しくしてるつもりなんだよ、きっと。でも、疲れたらいつでもわたしのところに来てね。……わたし、日陰の女だけど、あなたの話を聞くくらいならできるから」
その言葉に、ドウェインは首を左右に振ってエミーをさらに強く抱き締めた。
「日陰なんて言うな、エミー。僕には、お前だけがいれば十分だ」
フォーテスキュー゠ブリックデイル男爵家──レイチェルの家は、言葉を選ばずに言うなら、成金だ。
金鉱を掘り当て、一夜にして大富豪となったレイチェルの父は、金で爵位を買い、貴族社会に足を踏み入れた。それが二十八年前のこと。今では、国で五本の指に入る財力を誇る家になっている。
しかし、財力で買えるものには限界がある。歴史や名誉だ。
一方のドウェインは、名門伯爵家の嫡男。誇り高い血筋である。
しかし、その輝かしい家柄も、五年前の水害で深い傷を負った。
広大な領地の大半は洪水に飲まれ、復興費用は家計を圧迫し、彼の家は今や財政破綻の寸前だったのだ。
金はあるが歴史がないフォーテスキュー゠ブリックデイル男爵家。
歴史はあるが金がないハーディ伯爵家。
両家の思惑が一致し、政略結婚として二人の婚約は成った。
取引。それだけのはずだった。
けれど、レイチェルはドウェインに恋をしていた。
好きだった。
聞き上手な性格と、端正で理知的な容貌。
約束の時間に遅れても、「計算は苦手だから」と父から出された宿題を困った顔で寄越してきても、そんな姿さえ愛おしかった。
すべてが、彼を好きになる理由になった。
盲目だった。
(でも、もう……)
踵を返して会場に戻ろうとしたその時。ふと、エミーと目が合った。
一瞬驚きに揺れたエミーの瞳は、まるで湖面に落ちた小石のように波紋を広げたが、それもすぐに静まり返った。
彼女は柔らかな微笑みを浮かべながら、視線を滑らせるように逸らす。その仕草には、仮面を被り直すような不自然な滑らかさがあった。
一見柔らかい表情の裏に潜む得体の知れない確信が、レイチェルの背筋をぞくりとさせる。
そういえば、彼女は以前から、自虐風にレイチェルを貶めるようなことを言っていた。
──わたしみたいに小さいと『可愛いね』ってよく言われるけど、それって本当は子ども扱いされてるってことだよね。でも、レイチェルさんは違う。『カッコいい』とか『迫力ある』って、威圧的で素敵だな。
──レイチェルさんって、本当に強いね。どんな時でも動じないし、相手を黙らせるのが得意だし。わたしは怖くてそんな真似できないの。羨ましいな。
──金髪をね、また『儚げだな』って言われちゃったの。弱々しいってことだよね? ああ、レイチェルさんの黒髪なら、そんなふうに舐められたりしないんだろうね。
あの時は、そんなものなのかな、と頷いてしまった。
隣にいたドウェインもエミーの話に「うんうん」と頷きながら、彼女の肩を軽く叩いていたから……。
だから、エミーへ感じたモヤモヤも、ドウェインへ感じた寂しさも無視してしまった。
(……パウリヌスさんは私のことが嫌いだったのね)
エミーがそっとドウェインの肩に触れると、彼は自然にレイチェルに背を向けた。その動きに、レイチェルは小さな違和感を覚える。この違和感はきっと正しい。
(そして、私がここにいることを知っている……)
自分は何の為にここにいるのか。
何の為に彼に尽くしたのか。
喉が詰まるような怒りと悲しみが混ざり合い、手が震える。
視線の先にいる二人は、そんな自分を嘲笑うかのように幸せそうだ。
(婚約なんて、もう終わりよ)
夜風に背中を押され、レイチェルは踵を返した。
◇◇◇
婚約を解消して数週間後の避暑地にて。
表向きには『傷心旅行』という名目だが、実際には『婚約者候補とのお見合い会』であることをレイチェルは理解していた。
この会は、今日で三日目になる。
一日目は候補者たちとぎこちない挨拶を交わし、二日目は自己紹介という名の自慢話を延々と聞かされ、三日目の今日もまた、期待など持てるはずもない。
候補者として推挙されたのは十人。家の財力目当てと分かりやすい者たちばかり。
なればこそ、冷静でいられた。
もう、ドウェインへの未練はない。
だけど、腹が立つ。
あの婚約の日々を思い出せば、深いところから沸き上がる怒りはどうしても消えない。
貢ぎ、尽くし、捧げ尽くしたのだ。
レイチェルは愚かだった。
だから今、こうして候補者たちに紅茶を勧めながら、自らの黒歴史反省会を開いているのも、ある種の開き直りである。
「私が愚かだったのよ。本当にね」
レイチェルは笑いながら言ったが、その声には乾いた響きがあった。
(……こんなこと言って、絶対に後悔するわね……。でも愚痴らなきゃやっていられない)
実際、愚痴をこぼしたくなる理由なら山ほどあった。
特に、昨日届いたあの手紙。あれが胸の中にしつこく燻る怒りに火をつけたのだ。
(『親愛なるレイチェル様』、ね……)
頭の中に浮かぶのは、エミーからの手紙だ。
流麗な文字で丁寧に書かれていた内容を、嫌でも覚えてしまった。
《──ドウェイン様はとてもお辛そうです。もちろん、それはすべてわたしの責任。
ですが、彼を愛しているわたしとしては、どうしても放っておけません。
どうか、あの方をお救いください。
愛人としてでも、側にいることがわたしにとっては最上の幸せです。
フォーテスキュー゠ブリックデイル家からの援助がなくなったのも、仕方のないことだと存じますが、やはり彼を救うには貴家の力が必要なのです──》
(……私に「またお金を出してくれ」って、いうことね。ふざけた話だわ)
冷静に考えれば、この手紙はエミーがどれほど都合の良い女を演じていようと、本心では自分を『頼らなければならない』立場にある証拠だ。
レイチェルはそう理解している。頭では分かっている。
けれど……感情はそれを許さない。
(『本物の怒り』は冷静に分析すれば収まるものじゃないということなのかしら……イライラが収まらない……)
頭を振り、苛立ちを振り払おうとした。だが、振り払ったつもりの感情はすぐに戻ってくる。
(あの二人は私に『何かしてもらう』ことしか考えてない。しかも、それをまた繰り返す気なのね……誰も彼も私を馬鹿にして……!)
「はあ……っ」
つい大きな溜め息が漏れる。いや、溢れ、零れ落ちた。
テーブルを囲む候補者たちは、一様に微妙な顔をしている。
それも当然。ここにいる十人はそれぞれ独自の理由でこの場にいるが、『花嫁(※予定)の傷心』に巻き込まれる覚悟は持っていない。
たとえば、左端に座るジョナサン・マクドナルド・ブラウン。借金まみれの家を救う為に、切実な目でフォーテスキュー゠ブリックデイル家の財産を見つめる男。
その隣にはロバート・バリー・シーモア。学者然とした雰囲気で経済学を語るが、自分の話しかしない男。
向かいにいるのは、シドニー・チャップリン・ハン。家柄は良いが放蕩癖があり、自身の父親に尻を叩かれてここにいる。
そんな男たちが、レイチェルの自虐を前に固まるのも仕方がない。
だが、彼らの中でただ一人、オリバー・ユーバンク・アデアだけは、口元に笑みを浮かべたままだった。
彼は古い名門として知られるアデア子爵家の三男だ。
家業としては、主に高級嗜好品やアンティークを扱う商業を営んでいる。歴史ある老舗で、その品格と伝統により貴族や富裕層の信頼を得ていた。
兄二人はそれぞれ家業の中核を担っており、オリバー自身も若くして店舗運営や交渉術に優れ、兄たちを補佐する形で家を支えている。これは有名な話だ。
彼の身分や容姿から考えれば、わざわざフォーテスキュー゠ブリックデイル男爵家の娘との縁談を望む必要はなかっただろう。
端正な顔立ちと飄々とした態度はどこか洗練されていて、他の候補者たちよりも明らかに余裕がある。
「そんなに愚かか?」
軽い調子のオリバーの問いに、レイチェルは少しムキになったように返す。
「愚かですとも……! あの人の為に、どれだけのことをしたか。いえ、させられたと言ったほうが正しいかもしれないけれど」
「どんなことをさせられたんだ?」
「『家に飾る絵画が必要だ』って言われて、それを買ったの。気に入るだろうと思って、高いものを選んでね。彼の趣味に合わせて。でも、それがどこに飾られたかって話よ」
そこで言葉を切り、紅茶を一口飲む。
「……パウリヌスさんの部屋に掛けられてたの。それも堂々と。……あの人の言葉を信じた私が馬鹿だったわ。あの人も私のことを馬鹿だと思っていたのでしょうしね。まあ、絵は回収してやったけど!」
候補者たちは、気まずそうに目をそらす。特にジョナサンは耳まで真っ赤だ。
けれど、オリバーだけは軽く眉を上げ、興味深そうにレイチェルを見ていた。
「それだけじゃないわ。『ティーセットを買ってほしい』とも言われたの。我が家に相応しいものが必要だって。でもね、私が頑張って選んだセットは、どうやら彼とパウリヌスさんが『特別な時間』を過ごす為に使われてたみたいなのよ」
言葉を吐き出すように言い切ったレイチェルは、溜め息をついた。
カップを置く音が静かな空間に響く。
「私はお財布代わりだったのよ。でも、それが分かるまでに、ずいぶん時間がかかった……」
再び訪れる沈黙。
だが、オリバーだけは口角をわずかに上げたままだ。
「それでも君は、全力だったんだな」
彼の言葉に、レイチェルは顔をしかめる。
「……馬鹿にしてるの?」
「いや、そんなつもりはない。君が本当に相手のことを考えて動いていたことが伝わってきた。それが間違った形で利用されたのは不運だったけど……でも、それができる人は強いと思うよ」
「強い、ですって?」
レイチェルの問いかけに、オリバーは静かに頷く。
「うん。その経験があるなら、今度はもっと良い選択ができる。もっとも、俺がその選択したものならいいんだけど」
その軽口に、レイチェルは一瞬ポカンとした表情を見せ、それから苦笑する。
「どっちにしろ私はもう『お財布』なんてまっぴらごめんよ。だから、恋はしないの」
レイチェルはそう言い放ち、候補者全員を見渡しながら続けた。
「ここにいる候補者の皆さんの中に『婿入りすればお金は使い放題』と思っていらっしゃる方はいて? もしそのようにお考えの方がいらしたら、この考えは改めてください。ご実家への援助も、我が家にメリットがなければしません。そもそも、そういう話は父となさってください」
レイチェルの言葉にオリバーを除く面々の顔色がザーッと変わる。
(なんて分かりやすいの)
でも、分かりやすいほうがいい。
きっと、今の発言で、明日にはここにいる候補者の人数は半分に減るだろう。
この避暑地にいる期間はせいぜい二週間。
二週間で婚約者候補の人数を現在の十人から一人までに絞らねばならない。
普段は『成金』と陰口を叩いているくせにこういう時だけ群がるなんて……もういっそのこと結婚なんてやめてしまいたい。
しかし、レイチェルは一人っ子である。
父も母も一度は許してくれたが次はない。だからこんな会が設定されてしまったのだ。
(嫌になっちゃう)
心の中で毒づきながら、レイチェルはふと視線を上げた。
オリバーはまだ、どこか余裕のある笑みを浮かべている。彼だけがこの場の空気に動じていない。
「どうして笑ってるの?」
レイチェルが問いかけると、オリバーは肩をすくめてみせた。
「いや、もっと不真面目になればいいのにな、って思ってね」
「……不真面目?」
レイチェルは首を傾げる。
「不真面目と言うか……気楽に、かな。もっと気楽にいけばいいんじゃないか?」
「気楽……?」
呆れたように繰り返すレイチェルに、オリバーはおかしそうに笑った。
「そう、気楽に。誰も彼も君を見下そうとしているわけじゃない。少なくとも、俺はそういうつもりはないよ」
彼の言葉に、レイチェルは思わず目を見張った。
(……誰も私を見下そうとしているわけじゃない、ですって? ……本当に?)
疑念と驚きが入り混じる中、彼の瞳がこちらを見つめ返している。真っ直ぐなその目を前に、レイチェルは何も言えなかった。
◇
案の定、翌日のお茶会の席の候補者の数は半分になっていた。
見渡してみれば、昨日のレイチェルの言葉を聞いて顔色を変えた面々は、きれいに姿を消している。
だけど、それでも五人残っている。
五人もいれば、まだまだうんざりするには十分すぎる数だ。
「今日は随分とゆったりした空気ですね?」
紅茶を注いでいると、オリバーがわざとらしく肩をすくめながらそう言った。
レイチェルは彼に軽く目を向ける。
「そう? 私はまだ多すぎると思うけど」
「五人もいては落ち着かない?」
「ええ、そう」
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
「どうすればいいのかしら」
「全員いなくなるようにすれば、落ち着くんじゃないか?」
彼の冗談に、レイチェルは笑ってしまった。
「父も母もそれじゃ困るでしょうね」
「確かに。あ、俺も困るなあ。まだ候補の座から落ちたくない」
オリバーの屈託のない笑顔に、レイチェルは再び笑みをこぼした。
「あなた、面白い人ねえ」
「それは褒め言葉として受け取っていいのかな?」
「どうかしら? でも、悪意はないわよ」
レイチェルは紅茶のカップを持ち上げ、彼に向かって軽く掲げた。
残った五人のうち、どれだけが今日を越えるのだろう。
そんなことを考えながらも、少しだけ心が軽くなった気がしたのは、目の前の彼のおかげなのかもしれない、とほんのり感じた。
◇
お茶会を終えた午後、庭園を散歩をしていると、レイチェルはまたオリバーと顔を合わせた。
「君も散歩か?」
軽やかな声が聞こえ、振り向くと、彼は先ほどのお茶会の時と同じ、気負いのない笑顔を浮かべている。
「ええ。部屋に閉じこもっていると、どうも息が詰まるのよ」
そう答えると、彼は片方の肩を少しだけ上げた。
「君は、どんな場所にいても気を張っている人に見える」
「あなたのその見立ては正解よ。正直、気を張ってばかりだから息が詰まるの」
苦笑交じりに返すと、彼はそれ以上何も言わず、レイチェルと歩調を合わせた。
しばらく無言のまま並んで歩いていたが、彼がふと視線を横に向ける。
「レイチェル、ちょっと訊いてもいいかな?」
「なあに?」
「君の家の事業って、鉱山関係だけじゃないんだよな? 話を聞いていると、ただの……その……」
オリバーは眉間にしわを寄せ、しばらく言葉を探した。
「ただの成金じゃない、って?」
レイチェルが肩をすくめると、彼は目をそらして気まずそうに頷いた。
「ああ、うん。そう。それ。色々と手広くやっているって聞いたけど、具体的にはどんなことを?」
その問いにレイチェルは少し驚いた。
大抵の人間は、『鉱山で一山当てた成金』という表面的な話しか知らない。それ以上突っ込んで尋ねてくる者は少ないのだ。
「手広く、よ。父は鉱山で財を成したけれど、それだけじゃなくて、商業船や銀行業も手掛けているの。特に商業船は茶葉やスパイスの輸出で重要な役割を果たしていて、輸出入のルートにかなり影響力があるの。あとは、鉄鋼や繊維工場に投資していて、製造業も一部関わっているわね。でも、あまり認知はされてないわね。フォーテスキュー゠ブリックデイルの名前を使ってないから当たり前だけど」
「もしかして……『レッドグレイヴ・カンパニー』って君の家の関連企業?」
「あら、よく気づいたわね。商業船の話で分かった?」
「ああ、それもあるけど……ルートを見て、『もしかして』って思っていたんだ。かなりの規模だよな? というか、どうして素性を明かさないんだ?」
「父は家名を掲げることを好まないの」
普段なら、こんな話を誰かにすることは絶対にあり得ない。父からは、「家名を掲げずとも自分たちの力で信頼を築け」という厳しい教えを受けて育ったのだ。
だが、彼の素朴な問いに誘われるようにして、つい話してしまう。気づいた時には、もう遅かった。
「へえ。名を伏せて、表には出ずに貴族社会で余計な波風を立てないようにしてるのか。あっ、もしかして、銀行業って、マイヤーズコフ銀行か?」
「……ええ、そうよ」
レイチェルは気まずさを覚えながらも、彼から目を逸らさずに答えた。
「なるほどね。要するに『金を稼ぐ』より、『金を回す』のが得意ってことか」
「そうね、父はそれが得意なの。私も勉強中なんだけど、てんで駄目。……きっと、私は父のようにはできないわ」
彼が、そこで一瞬黙り込む。何か考えている様子だ。
「それなら……君が今後、家を拡大するには、新しい分野の投資が必要になるな」
「新しい分野?」
レイチェルは首をかしげた。
その言葉に、少しだけ感心する。彼がこういった話をするとは予想していなかったからだ。
「俺の実家は、古くから小規模な商業をやっていて、けっこう苦労してる。でも、そのおかげで、時代の流れを読む必要があるってことを学んだんだ。……と言っても、俺が知ってるのは家業の話くらいで、他の分野は手探りだけど。蒸気機関がもっと広がれば、貴族の生活様式も大きく変わる。輸送や産業に注目するのもいいけど、例えば、領地経営で効率を上げる仕組みとか、従業員の作業を楽にする工夫なんかも考えられるだろう?」
レイチェルは目を細める。
その言葉には明確なプランがあるわけではないが、彼が話していることには筋が通っていた。
何より、「こうすべきだ」と偉そうに断じるのではなく、彼の限られた経験や知識から、謙虚に意見を述べている点が好感を抱かせた。
「あなたは自分の分かる範囲だけを話すのね」
「? そりゃあそうだ。全部を知ってるわけじゃないからな。でも、知らないことなら学べばいいし、そういうのは面白い」
彼の率直な言葉に、レイチェルはくすりと笑った。
「いいわね、その考え」
「ああ、今のは褒めてるって分かるぞ? そうだろ?」
「ふふ。……さあね」
曖昧に言葉を濁しながらも、心の中で思った。彼の言葉は無理をしていない。それが、とても心地よかった。
ここにいる他の候補者たちは、家柄をひけらかし、見栄を張ることばかり。
それに比べてオリバーは、自分の知識を素直に認め、背伸びをしない。
その自然体が、レイチェルには新鮮だった。
「それにしても、君は俺に対して話しやすそうに見えるけど、気のせいかな?」
オリバーが冗談めかして言うと、レイチェルはまた笑った。
「どうかしらね。でも、あなたは話していて疲れない」
「それって、かなり重要なことじゃないか?」
「そうね」
「ちなみにだけど、俺はレイチェルと話すのが好きだ」
「はいはい」
レイチェルの中で、オリバーへの印象が少しずつ変わっていくのを感じた。
(……この人なら、一緒にいても無理をしなくていいかもしれない)
そして、翌日さっそく決めた。
「滞在期間を短縮することにしたわ。これ以上は時間の無駄だもの」
王都へ戻る準備を進めながら、そう言い切ったレイチェルの顔には、もう迷いはなかった。
◇◇◇
オリバーと婚約者候補から正式な婚約者になったレイチェルは、予定していた避暑地での滞在を短縮し、王都へ戻った。
オリバーと過ごす時間は不思議と心地よかった。
会話のテンポが合い、議論の切り口も鋭い。気を使わずに話せる彼との時間は、気づけばあっという間に過ぎていく。
けれど、レイチェルはこれが恋愛だとは思いたくなかった。
(これは恋じゃない)
日に何度もそう自分に言い聞かせる。
ドウェインとの一件はまだ胃の辺りを重くする。それは瘡蓋にすらなっておらず、むしろ触れるたびに鈍い痛みを伴う。
……それに、オリバーだって自分のことを恋愛対象として見ているわけではないだろう。親友のように気軽に話せる相手。
それ以上でもそれ以下でもない。
だけど、それでいい。それがいい。
あんな思いは二度としたくない。
◇
レイチェルは父から託された書類に目を通しながら、サロンの窓際で昼下がりの陽射しを浴びていた。書類には新しい商業航路についての提案が記されているが、何か引っかかる。
ペンを止め、深い溜め息をついたその時、執事が軽くノックをして姿を現した。
「失礼します。オリバー様がお見えです」
「……オリバーが?」
レイチェルは、すぐに彼を通すように指示した。
間もなくオリバーが現れる。
彼は軽く頭を下げ、向かいのソファに座ると、テーブルの上の資料に目を留めた。
「新しい事業の計画か?」
「ええ、父が勧めている新しい航路の案なんだけど……何か腑に落ちないのよ」
「これを見せてもらってもいいか?」
オリバーは興味深そうに手を伸ばし、書類を手に取った。
「ええ、もちろん」
頷くと、彼は慎重に目を通し考え込んだ。
「これは……悪くない話だけど、ここが気になる」
オリバーは地図を指差し、問題点を説明し始めた。
「この中継港、最近治安が悪化している。それに、この航路は利益率が低すぎる。君の家の他の事業との兼ね合いを考えると、もっと効率的な案があるんじゃないかな」
レイチェルは目を見開いた。
「……そんなことまで知っているの? どうして?」
「婿入りする家の仕事について学ぶのは、当然だろ?」
彼は肩をすくめてみせたが、その言葉には嘘のない誠実さが滲んでいた。
「……あなた、思ったより真面目よね」
レイチェルは小さく笑った。
「そう見えなかった?」
「ふふ。ええ、少しね。でも……ありがとう。あなたの意見は参考になったわ。疑問に思っていたところだったのよ」
「解決するといいな」
オリバーはにこりとしつつ、資料を丁寧に返した。
彼の返事に、レイチェルの内に微かな温かさが広がった。
自分のことを気遣いながらも、下心を感じさせない態度に少しずつ心が開いていくのを感じる。
「……ありがとう、本当に」
「どういたしまして。でも、ひとつだけいいか?」
「なあに?」
「もう少し肩の力を抜いたらどうだ? 君は頑張りすぎだって皆言ってるぞ」
「皆って……誰?」
問いつつも、レイチェルはそんなことないでしょう、と言わんばかりにくすっと笑う。
「皆は、皆さ。お義父さんとお義母さん。執事のアーノルドさんに、君付きのメイドたち。そして、俺。なあ、休憩しようぜ? 甘いものでも食いに行こう」
「……ふふ。そうね。少しだけ、休んでもいいかもしれない」
彼の笑顔を見て、ふと気づいた。
かつてドウェインに対して感じた『違和感』が、オリバーにはないことに。
そういった経緯から、オリバーに誘われて、最近話題のチョコレート専門店に足を運ぶことになった。
店内に足を踏み入れると、ふわりと漂う甘いカカオの香りが心をくすぐる。
ショーケースの中には、艶やかなチョコレートがぎっしりと並んでいた。どれも宝石のように輝いている。
「きれいね」
思わず呟くと、オリバーが肩越しに覗き込みながら軽く笑った。
「チョコレートにこんなに種類があるなんて知らなかった。どれがいいか迷う」
二人でショーケースを覗き込みながら選んだのは、クルミやナッツをミルクチョコレートで包んだものや、薄切りのオレンジにビターチョコレートを絡めたもの。
そして、さらなる楽しみを求めて、様々なチョコレート菓子を選んでみることにした。
テーブルに運ばれてきた皿の上には、小さなアートのように整然と並ぶチョコレート菓子が美しく盛り付けられている。
サクサクのクランチが入ったホワイトチョコレートバー、ヘーゼルナッツがごろりと詰まったプラリネ、ほんのり塩味を効かせたキャラメルチョコ……どれも目でも舌でも楽しめそうな一品ばかりだ。
添えられた濃いめのコーヒーの香りが、チョコレートの甘さをさらに引き立てる。
オリバーはアーモンドチョコレートを口に放り込んだ。そしてすぐに、満足げに頷く。
「うん、美味い!」
「私はこっちのほうが好きかも」
レイチェルは薄くチョコがけされたオレンジをまた一口齧る。
しっかりとした果実の香りと、控えめなビターが絶妙に調和している。
「俺はミルクチョコレートのほうが好きだな。甘くて美味い。でも、ビターはだめだ、苦い」
オリバーが言うと、レイチェルは肩をすくめて返した。
「お子様ねえ。私はオランジェットが気に入ったわ。このほろ苦さが堪らない。チョコレートは、甘いだけじゃなくて、こういう深みがあるほうがいいと思う」
「そりゃまあ、人には好みってものがあるからな。俺の好みはミルク、君の好みはビター。それでうまく分け合えば、全部食べられるってことだ」
彼の軽妙な言葉に、思わず吹き出しそうになった。
「ふふ、そうね」
店内の柔らかなオーケストリオンの音楽に包まれながら、二人はそれぞれの好みのチョコレートを楽しんだ。
甘い香りの中で交わされる会話に、時間の流れはあっという間に感じられた。
そうして軽口を交わしながら店を後にし、日の傾き始めた街を歩いていたその時だった。
「レイチェル!!」
聞き慣れた声が響き、背筋が凍るような感覚がした。
振り向くと、そこにはドウェインが立っていた。その隣にはエミーがいる。どちらも以前のような華やかさはなく、特にドウェインの服装は少し古びて見えた。
フォーテスキュー゠ブリックデイル男爵家からの資金援助が途絶え、彼の家はとうとう来月、領主の座を交代するという話はすでに耳にしている。
領主でなくなれば、爵位の返還もしなくて済むし、最初からこうすればよかったと彼の父・ハーディ伯爵は言っているらしいので、きれいに大団円とレイチェルは思っていたのだが……目の前のドウェインは、そんな潔さの欠片もない。
「レイチェル! 君に謝りたい。もう一度やり直そう!」
彼がこちらに駆け寄ってくる。
あまりの勢いに後ずさりそうになったが、隣にいたオリバーがさりげなく前に立ち、壁になるように庇ってくれた。
「これは驚いた。こんな場所で元婚約者と出くわすなんて」
オリバーの声は軽やかだったが、その目には鋭い光が宿っていた。
ドウェインの動きが止まる。まるでオリバーの視線に押し返されたよう。
「君は……?」
「オリバー・ユーバンク・アデア。レイチェルの婚約者だ」
その一言に、ドウェインの顔が見る間に歪む。
「……婚約者? ……冗談だろう、レイチェル! 君は僕を愛しているはずだ。彼との婚約なんてすぐに破棄して、僕のところに戻ってきてくれ!」
オリバーはわずかに目を細めた。
「自身のプライドの問題を他人に押し付けるな」
その言葉に、ドウェインの表情が一瞬歪むが、すぐに怒りに変わった。
「そんなことあるものか! 僕はただ──」
「いい加減にして!」
レイチェルはドウェインの言葉を遮り、きっぱりと言い放つ。
「何を勘違いしているのか知らないけれど、私はあなたを愛してなんかいないわ。それに、これ以上私の人生を踏みにじらせるつもりもない。どうか二度と私の前に現れないで」
その言葉に、ドウェインは唇を震わせたが、今度はエミーが口を開いた。
「お願いです、レイチェルさん!」
そう言ってエミーは泣きだした。
だが、その涙は、どこか不自然で完璧すぎた。 泣き崩れているように見えても、観客の目を意識しているよう。
「ドウェインたちを助けてあげてください!」
エミーの視線が、ちらりとオリバーに向けられる。
その瞬間、口元に浮かんだ微かな笑みは、レイチェルにだけ見えるように計算されているようだった。それが、さらに不快感を募らせる。
「わたしは、どうなってもいいんです。泥棒猫と罵られても……悲しいけど、でも、平気です! だから……だから、ドウェインとよりを戻してください……! ハーディ領を見捨てないでください!!!」
エミーの訴える声に、近くにいた人々が一瞬立ち止まり、興味深そうにこちらを窺う。
その視線を彼女がちらと意識しているように見えるのは、気のせいだろうか。
(何をしているの、この人……?)
この声の大きさ、そして視線の運び。
……これは明らかにエミーの『演出』だ。
彼女の涙も、声も、すべてが『人に見られること』を前提に計算されている。そう気づいた瞬間、心の中に嫌悪感が沸き上がった。
もはや何も言う気が起きない。一刻も早く、この場から立ち去りたい。
と、ここでオリバーが口を開いた。
「なるほど。泥棒猫だという自覚はあるんだな」
オリバーの声は静かだったが、その冷たさは刺すようだった。視線を受けたエミーは息を呑む。
「けれど、泥棒猫がいくら吠えても、自分が何者かを示すには、何かを奪い続けるしかないんだろうな」
その言葉にエミーの顔が強張る。
「それに比べて、レイチェルは何も奪う必要がない。彼女はそのままで価値があるからだ」
オリバーの視線が自分に一瞬だけ向けられる。
その眼差しは柔らかく、エミーを見下ろしていた時の冷徹さが嘘のようだ。
エミーが言葉を発しようとした瞬間、オリバーが更に言葉を続ける。
「最後に忠告しておく。君が『泥棒猫』として見られ続けたいのなら、ここでの演技を続けるのも自由だ。ただ、それは君を救わないし、誰の同情も勝ち取れない。それに──」
オリバーは視線を細め、言葉を続けた。
「君は、本当はドウェインを好きじゃないだろ」
その一言に、エミーの顔が一瞬だけ引きつる。
その反応を見逃さなかったオリバーは、さらに言葉を重ねる。
「君が欲しいのは、彼の愛じゃなく、彼を通して手に入るものだけだろ? 贈り物、贅沢な時間、他人が羨むような優越感……それが欲しいだけだ。それなのに、わざわざ演技をしてまで、本気で彼を愛しているような顔をしている。滑稽だとは思わないか?」
オリバーの言葉には軽蔑が滲んでいる。
エミーの手が小さく震えるのが見て取れた。
周囲で立ち止まって様子を窺っている人々の視線が、彼女を刺す。
「君は甘い蜜を吸い続けようとした。でも、それをやりすぎると、いつか自分が食べていた蜜壺ごとひっくり返る。それが今だ」
オリバーの言葉は冷静だが容赦がない。
そして最後に、少し皮肉めいた微笑を浮かべてこう締めくくった。
「さあ、どうする? このまま『泥棒猫』として生きるか、それとも自分の道を探すか。君次第だ。……ドウェイン、君もだよ」
容赦がないとはこのことを言うのだろう。
ドウェインが俯き、唇を噛みしめる音が聞こえた。震える手でエミーの腕を掴み、掠れた声で言った。
「行こう、エミー……この二人には何を話しても無駄だ……」
ドウェインはそう吐き捨てたが、その声には張りがなく、むしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
エミーは、引かれるように一歩踏み出しながらも、ちらりとこちらに視線を向ける。未練とも、悔しさともつかない感情がその目に浮かんでいた。
二人の背中が遠ざかる中、レイチェルは心の中でそっと呟く。
(結局、あなたたちは最後まで他人を責めることしかできないのね……)
彼らが角を曲がり、完全に視界から消える。
それと同時に、体の奥底にあった重たいものが次第に霧散していくのを感じた。
彼らの行き先に思いを巡らせる気力は、もうない。ただ、これで本当に終わった。そう思うだけだ。
同時に、オリバーが肩をすくめながら軽く笑った。
「随分と大掛かりな劇場だった。幕引きが見事で助かったよ」
「……あなた、あんなに可愛い女の子に随分と怖い顔を見せられるのね?」
「相手次第だな。俺は君のように話し甲斐がある頭の良い人間のほうが好きなんだ」
その軽口に、レイチェルは口元をゆるめる。
風に揺れる木々の音が、静かな安堵感をさらに際立たせていた。
「ありがとう、オリバー。本当に助かったわ」
その言葉に、彼はにっこりと笑い、ふと腕を差し出した。
「なら、お礼に観劇に付き合ってくれ。喜劇でしっかり笑って、気分をリセットしたい」
その提案に、レイチェルは小さく笑みを浮かべ、そっと彼の腕を取った。
「ええ、お付き合いさせていただくわ」
その時、心の中で感じていた重苦しい何かが、ふっと消えた気がした。
◇◇◇
それから一年半が過ぎた。
この国では、新郎新婦が結婚式を一足先に抜け出し、夜を静かに迎えるのが古くからの伝統だった。
会場に残った客たちは、二人の未来を祝うように陽気に踊り続ける。
だが、その喧騒はもう遥か彼方に遠ざかり、大きな屋敷の一室には、音の残響さえ消えた静寂だけが残っていた。
レイチェルは先に風呂を済ませ、髪を軽くまとめ直してから窓際の椅子に腰を下ろしていた。
ナイトドレスのレースを指でなぞりながら、ふと物思いにふける。
目の前には淡い光の帳に照らされた広大な庭園が広がり、その静けさが心をさらに深く沈めていく。
ドウェインとの婚約破棄から始まったこの結婚は、自分にとって新たな道を切り開くものだった。
オリバーと過ごす日々は居心地が良い。
……そう、親友として。
オリバーは誠実で、優しくて、尊敬できる人だ。それは疑いようもない。
だけど、彼を好きになってもいいのか、と思うたびに、心のどこかがそれを拒んでいる──怖い。このままでいい。変わりたくない、と。
一年半の時間が、傷を癒してきたのは事実。
それでも、心の一部にはあの日の痛みが刻み込まれたまま残っている。
(これ以上、大事なものを失うくらいなら……)
レイチェルはそっと目を閉じ、椅子にもたれた。
(このままの関係を続けましょう)
断片的な夢の中──ふと、控えめなノックの音が響いた。
「……入っていいか?」
聞き慣れた声に、レイチェルは振り返る。
「どうぞ」
扉の向こうには、少しだけぎこちない様子のオリバーが立っていた。どこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
「叔父様や従兄様たちから逃げるのは大変だったでしょう?」
「ああ、抜けるタイミングを見計らうのに苦労した。あの人たち、本当に酒豪だなあ。飲むふりが大変だったよ」
「ふふ。あなたの飲むふりが見破られてたのかも」
「……うん」
彼は微笑みながら部屋に足を踏み入れたが、その仕草にはどこか緊張が滲んでいる。
「? どうしたの? 緊張してます、みたいな顔しちゃって」
オリバーは、レイチェルの言葉に肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「そりゃあ、緊張するよ。……今日から好きな子が奥さんなんだからさ」
「えっ」
彼の真剣な眼差しと言葉が胸に突き刺さり、一瞬、言葉を失った。
(好きな子……私を、好きだと言ってくれるの? 本当に?)
彼の目は真剣だった。
軽口でも冗談でもなく、本当に心からの言葉だと分かる。
「……好き、って、私を?」
「そう。……あの日から、ね」
「『あの日』って?」
レイチェルが首を傾げると、オリバーは少し照れ臭そうに笑った。
「ドウェインとエミーが庭で抱き合ってた夜」
その言葉に、レイチェルは目を見開いた。
「……見てたの?」
「うん。泣くのかな、それとも乱入するのかなって、ちょっとワクワクしながら見てた。ごめん……。でも、レイチェルは違った」
オリバーの視線が、記憶を辿るように遠くを見つめる。
「会場に戻って、お義父さんに『婚約を破棄する』って宣言しただろう? だけど、一瞬だけ顔を俯けて、涙をひとつだけ落とした。その姿が、何て言うか……印象的だった」
「……一目惚れ、とか……言うつもり?」
「ひと……え、あ、い、いや、そうじゃない。……ただ、君のことが、気になった。……強いのに、どこか儚げで……あの日からずっと、もっと知りたい、って思ってた……」
彼の声はどんどん小さくなっていく。耳も赤いし、目も合わない。
(そ、それを一目惚れって言うんじゃないの? どうして『一目惚れ』という言葉にこんなに照れているのかしら……赤面がうつっちゃう。ああもう……どうして……こんなにも真剣に私を見つめてくるの?)
心臓がドキドキと高鳴るのを感じる。
彼の真剣な言葉が胸の奥をじんわりと温かく満たしていく。
「わ……私も……あなたのこと、好き……かも」
気がつけば、つい口をついて出ていた言葉だった。
どうしてこんなことを言ったのか、自分でも分からない。
「かも?」
「……だって」
「だって?」
オリバーが微かに笑いながら聞き返す。だけど、その笑顔には真剣さが滲んでいる。
「……怖いけど、信じてみたいとは、思ってるの」
言葉を口にした瞬間、心の奥深くで長らく眠っていた何かが小さく震えた。
過去に受けた傷は、まだ消えることなく痕跡を残している。
それを思い出すたび、心は痛みと共にすくんでしまう。
(もう、誰かを信じて裏切られるのは嫌)
そんな恐れがまだ胸を締めつける。
──彼女はそのままで価値があるからだ。
以前オリバーがエミーにむけて言った言葉が不意に思い出された。
あの言葉が、今になって心に響いてくる。
レイチェルは、小さく息を吸い込み、目を閉じた。
「……信じるって、難しいわ」
呟いた声には、自分でも驚くほどの弱さが滲んでいる。
オリバーは、穏やかに微笑む。
「レイチェルがそう思ってしまうのも仕方ないと思う。でも、それは君が難しくしてるところもあるんじゃないかな」
「私が難しくしてる……?」
レイチェルは反射的に問い返した。その言葉が意外だったのだ。
(……でも、そうなのかもしれない)
思い返してみると、何をするにも自分は慎重すぎた気がする。
幼い頃から、些細なことでも『失敗したらどうしよう』と考えすぎてしまう癖があった。石橋を叩きすぎて壊してしまう──そんなふうに父母に笑われたこともある。
(ドウェインとの婚約中も、私は彼の機嫌を損ねるのが怖くて不安や不満を口にすることができなかった。自分の気持ちを飲み込んで、彼に合わせるばかりだった。そして、迎えたのがあの結果……)
オリバーの表情をそっと盗み見る。
彼の嘘のない瞳に見つめられると、ふと気づくことがあった。
(この人は、違う……)
たとえ不安をぶつけたとしても、彼なら真剣に向き合ってくれるはずだ。
ドウェインの時のように、軽く笑って流されることはないだろう。そう思えた。
(決めつけるのはやめて、少しだけ飛び込んでみてもいいのかも)
そう考えた瞬間、張り詰めていた緊張が少しだけほぐれるのを感じた。
「……私、考えすぎるところがあるのかもしれないわね」
ぽつりと呟く。
その言葉に、自分でも少し驚いていた。
「それは悪いことじゃない。でも、考えすぎるせいで、前に進むのが難しくなってしまうこともある。肩の力を抜いてみるのもいいんじゃないか?」
オリバーの言葉はどこまでも優しい。
「……少しだけ、やってみるわ」
過去の傷が完全に癒えたわけではないけれど……オリバーの言葉に背中を押されたのは確か。
「でも、あの、これが本当に『好き』って気持ちなのか分からないの……」
オリバーは静かに息を吐き、それから力強く言った。
「俺は、レイチェルのことが好きだよ」
その一言が静かな空気を切り裂いた。
真っ直ぐで揺るぎない声が、心に深く突き刺さる。
「そ、そんなふうに、簡単に言えるものなの? それにいきなりよ……」
「簡単じゃないし、嘘もつけない。それに、ちょくちょく『好きだ』とは伝えていたからいきなりでもない」
「あ、あれは……皆に言ってるのかと──」
「君にしか言ってない」
「……もう」
「俺は嘘は言わない」
オリバーの言葉に、レイチェルはふっと息を吐く。
「そうね……あなたは嘘は言わない」
張り詰めていた緊張が、深い部分でそっとほどけていくようだった。
「……オリバー」
「うん」
「……だ、大事にしてくれる?」
レイチェルは静かに呟いた。
問いかけた自分の声がどこか遠くに感じられる。恐れと期待が入り混じった感覚だ。
「もちろん。君が望む限り、ずっと」
彼の目は真っ直ぐで揺らぎがない。
「……私、けっこう面倒臭いわよ」
「知ってる」
「……即答?」
「ああ、ごめん。言い直す。面倒臭いなんて思ったことはない。ちょっと、しかね。気が強くて頑固で我慢強い甘え下手な君が好きだよ」
「ねえ、それ、ほぼ悪口よ」
レイチェルは溜め息をつきながらも、口元に浮かぶ微かな笑みを隠すことができなかった。
オリバーが手を伸ばし、頬に触れてきた。
その手は温かく、恐れていた感情とは正反対だ。口元に自然と笑みが浮かぶ。
「……信じてみるわ」
「本当に?」
「ええ、少しずつ……ね。……怖いけれど、あなたなら信じられる気がする」
ふと、自然と顔が近付いた。
誓いのキスを入れても、二度目のキスだが……やはり嫌ではない。
(嫌じゃないことが答えなのかしら? それとも、もう一回すれば分かるのかしら?)
じっと、自分を見ている彼はレイチェルの表情に『嫌悪』を探している。
(馬鹿ねえ。そんなものあるわけがないのに)
「……あなたって、本当におかしな人ね」
「ん? それは褒め言葉か? ……それとも悪口?」
レイチェルは小さく微笑み、オリバーの襟を掴んで引き寄せた。
「悪口よ」
三度目からは数えなかった。
【完】