つかまれた手の温もりは
* ファーリット=ランツィア=オーグブルク *
整備された回廊の先に、ひとりの少女がたたずんでいるのを見て、ファーリットは思わず足を止めかけた。
桃色の髪は柔らかな風になびいて、差し込んだ夕日が髪に当たってきらきらと映える。
女性のファーリットですら思わず目を奪われかねない美しさがあった。
彼女は——リエルスローズ=アクシア=グランブルクは緋剣クラスの女子生徒だ。黄槍寮のそばにいるなんてことは、おかしい。だけれども今は無視だ。ファーリットはその横をすり抜けていく——。
「——リット=ホーネット様。いえ、ファーリット=ランツィア=オーグブルク様」
「!?」
びくりとしてファーリットは足を止めた。
「な、な……」
「なぜ、わたくしがあなた様の正体を知っているのか、でしょうか。そしてなぜこの場にいて、あなた様に声を掛けたか……」
ファーリットはごくりとつばを呑んだ。こんな事態は想定していない。完璧に無視して行きすぎれば良かったと思ったが後の祭りだ——いや、向こうはすでに自分の素性をつかんでいる。
なぜ。どうして。
今まで誰にも気づかれていなかったのに、他クラスの少女が知っているなんて!
「……あなた様がホーネット商会ゆかりの人間として学園に入ってきたことは知っていましたもの。ですが、さほど気にしてはいませんでした——マテュー様があなた様に執着するまでは」
目立つようなことはしてこなかった。ソーマはやたら目立っていたが、できる限り他クラスの人間には見つからないようにしてきた。
うまくいっていたのだ。
ファーリットにとって計算外だったのはマテューの存在だ。
彼がファーリットに執着していたことを、同い年でしかも同じ伯爵家であるリエリィが知っていてもおかしくはない。
その結果、リット=ホーネットにリエリィの目が向いてしまったということか。
しかしどうやってリエリィは、リットがファーリットだと気がついたのか。
「マテュー様は黒鋼クラスに対して、ふつうではない思い入れのご様子。彼の視線の先には、少年のフリをしているあなた様がいましたもの。そのような偽装をしていることはなにか裏があると——」
「ちょ、ちょっと待って……どうしてボクが少年のフリをしているのだと気づいたの?」
「は?」
質問の意味がわからない、という感じでリエリィが首をかしげた。
「いや、あの、だって、他の誰もボクが女の子だって気がついていないのに……」
「そうなのですか?」
「え?」
「そんなに可愛らしくいらっしゃるのに?」
「ええっ!?」
超絶美少女のリエリィに「可愛い」とか言われて、そんなことしていられる場合じゃないというのにファーリットはボッと顔を赤くした。
「か、可愛くなんかない! とにかく、ボクの変装は完璧だったはずだ。他の誰も気づいていないことは間違いない——」
「いえ、そんなことはありません。少なくともあとひとり、あなた様の正体に気づいた人がいますもの——」
「アタシだ」
回廊脇の、木の陰から出てきたのは、
「オリザ嬢!?」
「アンタが女なのに男のフリしてるってことくらい、最初からわかってたよ——ああ、だけどな、クラスの他の誰も気づいてないさ。ましてやアンタと同じ部屋の鈍感どもは当然気づいてない」
「そ、そうなんだ……」
少しホッとして、ファーリットは胸をなで下ろした。
「……アタシが、アンタがあのオーグブルク家の娘なんじゃないかって考えたのは、今日なんだけどね」
オリザは王都で兄と会った。
税金に関わる仕事をしている兄はホーネット商会のことを話題に出し、オリザがそこの子が学園にいるよというと、兄はホーネット家とオーグブルク家の話もしてくれた。
そうなると、ホーネット家からやってきて「少年のフリをしている」リットという存在が気になってくる。
なにかを隠している。では、なにを?
オーグブルク家には死んだはずの、年齢・性別の両方が合致するファーリットがいた——。
「でも……なんでふたりはここにいるんだ」
ファーリット——リットは口調が元に戻っていた。
「アタシはさ、王都からあわてて寮に戻ってきたんだけど、アンタはいないって聞いてね。ソーマに聞いたらアンタが思い詰めてそうな顔してたっていうから、もしかしたらマテューに直談判でもしにいったんじゃないかって思ったんだよ」
「…………」
リットはめまいがするような思いだった。
図星もいいところだった。
「そうしたら黒鋼寮の外で『吹雪の剣姫』に会ったってワケだ」
「わたくしは別で情報を仕入れておりまして、情報を総合したところあなた様がファーリット様だと気がつきました。素性を隠されている事情は想像がつきますが、実際のところどのようにお考えなのかを知りたく思い、黒鋼寮に向かう途中でしたもの」
「……アタシは、なんか直感したんだわ。『吹雪の剣姫』は事情を知っているんだろうな、って」
ふたりは少しずつ情報を出し合い、お互いが同じ日に、同じ結論に至ったのだと気がつき——リットを探して黄槍寮のそばへとやってきたところだった。
オリザが立っていればリットは逃げてしまうかもしれないから、リエリィが話しかけたというわけらしい。
「そう……なんだ。はは、結構簡単に素性なんてバレるものなんだね」
リットは脱力してその場に座り込みそうになった。
自分がここまでがんばってきたのはなんだったのか、という気持ちになる。
だけれど、今踏ん張らなければいつ踏ん張るというのか。この姿になったということは素性がバレる可能性も込みだったはずだ。
「ふたりの推理はよくわかった。すごいと思うよ。だからここを通して欲しい」
だがリエリィとオリザは並んで回廊に立ってリットを通そうとはしない。
「……どうしたんだよ、リット。アンタの抱えている事情を今ここにいるアタシたちは知った。アンタが素性を隠したいなら協力できるんだ」
「そのとおりですもの。緋剣クラスから情報を流して誘導することもできますもの」
「『吹雪の剣姫』だってこう言ってる。アンタがそんなに無理して、マテューと話す必要はないだろ?」
「無理なんてしてない」
「無理してるだろ! ……泣きそうじゃないか」
今、自分はどんな顔をしている?
オリザがリットの腕をつかむ。ぐっ、と身体を揺すぶられ、自分の身体はこんなにも軽かったっけ? とリットは思った。
「オリザ嬢……ボクが、オーグブルクの生い立ちを負担に感じて、それで思い詰めていると考えているんならそれは違うよ。マテューは、もういいんだ」
「……なんだって?」
「フランシスだ。彼はきっと、なりふり構わず黒鋼クラスを叩くために動く」
「————」
オリザがリエリィを見て、リエリィがオリザを見る。
「リット、話を聞かせてもらおうじゃねーか」
「……でもこれは、ボクがひとりで解決すべき問題で」
「うっせーな。アタシが聞きたいんだよ、話しな」
「わたくしも、ファーリット様のお話に不穏なものを感じましたもの。緋剣の一員として見過ごせません」
言うべきか、言わざるべきか、リットは迷ったが結局は言うことにした。
ここで「言おう」と決断したのは自分ひとりで抱え続けることがつらかったせいだろうか。あるいはつかまれた腕に伝わってくる温もりがそうさせたのだろうか。