現実逃避は短めに
風がそよいでいる。枝にとまった小鳥が鳴いている。あの鳥の名前なんていうのかな? 緑色で、広げた羽には赤色が差していて、とてもきれいだ。鳴き声は、ウフフ、ころころと鈴を転がしたような優しい音色なんだよ?
鳥の鳴き声ってとても心が安まるのね。ウフフ。
「——レックさん」
「ウフフ。小鳥さん、どこから来たのかな?」
「レックさん!」
「ああっ、飛んでいっちゃった……」
「レックさん!!」
振り返るとそこには、正気を取り戻したリエルスローズ嬢がいた。
着ている洋服は緋色のワンピースで、相当によい仕立ての物だ。流行なんてのは俺にはよくわからないけどどことなくクラシカルな装いである。
はい。
わたくしソーンマルクス=レックは緋剣寮の前のベンチにおります。
「遅れまして申し訳ありません……着衣が乱れておりましたので着替えが必要でして」
「あ、大丈夫大丈夫。血も止まったし」
「いけません!」
軽く切れていただけの手のひらだったので、いい感じに血は止まっていた。だけど彼女は俺の手をつかむと消毒液の入ったビンのフタを大急ぎで開けて、はい、こぼすよね。そんなに急いでたらね。そして俺の手に、
「いってぇぇぇぇぇぇ!?」
「あぁぁぁっ!? 大丈夫ですか!?」
「ガーゼガーゼ!」
「はい!」
「いてぇぇぇぇ! ぎゅうぎゅう拭かないでぇ!?」
すったもんだしつつ消毒が終わり、傷薬の軟膏を塗られた。俺の手は手袋みたいにガーゼが包帯でぐるぐる巻きである。
「……あのさぁ、リエルスローズ嬢。もしかして」
「は、はい……実は鍛錬でケガをすることがほとんどありませんでしたので、治療は苦手ですもの」
それはそれですごいけど、だったら「治療を」とか言わないで欲しいんですがそれは。
「ともかく、ありがとう。それじゃ俺は帰るよ」
「あ、あのっ。次は——」
「ん」
「次はいつ会えますか?」
「ああ。ネコのこと?」
「そうではなくて——」
と言いかけて、彼女は、
「——そ、そうです、ネコちゃんの、ことですもの……」
と耳を赤くしながら言う。
次か。やっぱりテスト明けだよなぁ……とか俺が返答を考えていると、
「それに!」
「は、はい」
急に大声出すんだもんな、びっくりするわ。
「相談だってさせてくださるんではありませんの!?」
「あ、そ、そうですね」
「それだけじゃ……わたしがもらってばかりですもの。あなたはわたしに決闘で勝ちましたもの。なにかを望む権利がありますもの」
「へ? いや、いいよ、ネコのことは俺が悪かったし……」
「よくありませんもの!」
ぐぐいと詰め寄られた。
これはアレですか。また話が通じない感じですか。
「そうだ。リエルスローズ嬢にひとつ聞きたいことがあったんだ」
「なんですの!」
すくっ、と背筋を伸ばしたリエルスローズ嬢の姿は猫の尻尾みたいだ。
俺は苦笑しながらこう言った。
「ちょっと難しいかもしれないんだけどね——統一テストの試験範囲について過去の情報が残ってないか教えてくれないかな?」
「ふんふんふんふーん、ふんふんふんふーん♪ ふんふんふんふんふーんふん♪」
俺がなんの鼻歌を歌っているかわかるだろうか? ベートーベンの「第九」である。
「……なにソーマ。ご機嫌すぎて気持ち悪い」
「気持ち悪い言うなや同居人」
俺はリットの軽口に反論しながらも笑顔は崩れなかった。
なんと。
緋剣クラスにはあったんである。過去数十年にわたる試験範囲、それに過去のテスト内容が!
過去問だぞ、過去問。出題は口述だっていうのに文章で残ってるんだぞ。
——緋剣クラスの生徒は全員閲覧が許可されているもので、寮の財産として残していますもの。
過去問は寮生が毎年少しずつ残していったものみたいだ。そうだよなあ、そういうふうに助け合わなきゃなあ。一方的に1年生の授業を取り上げて酒を飲んでいるフルチン先輩に聞かせてやりたかったわ。
俺が過去問を見せてと言ったら「黒鋼クラスにもあるでしょう?」ときょとんとされましたよ。どうやらウチ以外は全クラスにあるらしい。
ハンデが! ハンデがありすぎる!
なもんで、遠慮なく見せていただくこととなった。ただし女子しかいない緋剣寮に入ることはもちろんできないし、一気に全部借りることもできないので、毎晩すこしずつである。なにこれ夜這い?
「じゃ、出かけてくる」
「……は? もう夜の9時だよ? 筆写終わってないよ?」
「わかってる。じゃあ」
「わかってないよね!?」
すまん、リット。だがお前にもメリットはあるはずだ。夜。たったひとりの部屋。そりゃぁお盛んな男の子がやることは決まってますよね?(ただし寝ているスヴェンはいる)
そそくさと寮を出て行った俺ではあるが、夜間に寮の外に出たのはそういえば初めてだったなと気がついた。
「ん……なんかめっちゃ暗い——!?」
街灯の類はなく、建物から漏れ出る光、それに今日は月がないので星明かりしか光源がないような状況だ。
カチャーン……カチャーン……カチャーン……カチャーン……と金属がこすれるような音が響いてくる。
そんななか、鬼火のような青白い炎がゆらり揺れながらこっちにやってくる……!
「~~~~~~~~~!?!???!?!?!?!」
声を上げそうになった俺の口元を、背後から分厚い手が覆う。
「……叫ぶんじゃねえ、声を上げたらバレっだろーが」
「!?」
ぎょっとした俺が見上げたそこには、
「フルチンせんぱ——むぐっ」
「てめぇぶち殺すぞ。黙れっつってんだろ」
本気を出せばこの程度の拘束はほどけるのだが、そこにいた寮長の言葉にも確かにと思うところがあって俺は黙ってうなずいた。
「な、なんなんですか、あの鬼火」
「鬼火ィ? ありゃカンテラだろ。マジックアイテムのテストだかなんだかで支給されてるらしいが……それより隠れるぞ」
俺とフルチン先輩は建物の陰に隠れた。カチャーン……カチャーン……が近づいてくる。
お、おぉぉ……なんだありゃ。さまようよ○い? 全身鎧を身につけた何者かが歩いている。ただしその姿勢は悪く、腰でも痛めたみたいに前屈みだ。手には青白い炎を灯したカンテラと、反対の手には杖……やっぱり腰痛かな?
顔もフルフェイスヘルメットなので見えない。ただ肩からナナメにタスキが掛かっていて、そこには「警備員」と書かれてあった。
「…………」
「真顔になってんぞ、ガリ勉。俺も初めて見たときにはそんな顔になったけどな」
「なんなんですか、アレ?」
「見ての通り警備して回ってんだよ。夜間に出歩いてよその寮の女に夜這いかけようなんていう不埒な輩を排除しようっていう
「へ?」
いやなにちょっと待って? なんでこのフルチン先輩は「同志」みたいな顔で俺に笑顔を向けてきますか?
「俺は今日は黄槍だ。お前もヘタ打ってパクられんじゃねえぞ。パクられたら1週間独房生活だからな」
「罰が厳しすぎない!?」
フルチン先輩はなんかいい笑顔で去っていった。
「ていうかあの人……黄槍に手を出してるんだ」
黄槍クラスは見た目で選ばれる美男美女クラスである。うらやま……じゃなかった、あの人は勝手に俺たちの実技授業を奪った前科があるのだけど、俺を今救ってくれたことは確かなんだよな。
ここで1週間独房生活になったりしたら。
「……マジで危なかった」
感謝はするけどまだ完全に許したわけじゃないんだからねっ!
黄槍クラスのお姉様を紹介してくれたら完全に許してしまいそうな俺である。
フルチン先輩は同志とみなした生徒には途端に距離を縮めてきます(物理的に)。