東雲草の花言葉
真っ暗になっていた。
もう夏の景色は何処からも消え失せ、けれど冬の情景も見られない秋の夜。
ただ日が落ちるのが早いという事だけだ。
秋の日にはつるべ落とし。
もう何もかもが早く感じてしまう。
そんな日に外へ出ていた。この肌寒い季節だから虫もいない。
ただ何もない十月には寂寥感という、とってつけられた感覚だけが残り、そして闇にのみこまれていく。
俺は今街並みを歩いている訳だが、それは闇雲にという訳ではない。
秋桜からの呼び出し、約束、用事を付けられ、俺はそのためにある中学校を目指していた。
街の明かりが遠ざかり、引っ越す前に住んでいた町の、俺が通っていた中学校へと来た。もちろん秋桜は俺とは違う中学だったはずなのに、秋桜がここをなぜ知っているのかと俺は不思議に思う。けれども何故この場所にしたのかは、俺は大体の事は察しが付いていたが。
けっこう歩いた、それこそ三十分位は。そして学校が見えてくる。
中学校の敷地内に入って、『関係者以外立ち入り禁止』という張り紙を無視してどんどん中へと進む。
夜の九時ぐらいであるので、高校ではないから辺りは真っ暗だった。
迷わずグランドへ向かう。じゃりじゃりとした砂を踏みしめて、そしてグランドを縦に突っ切った。
すると少し綺麗に整備された芝生が敷き詰められた場所へとやってきた。
俺は空を見上げた。
いい天気だ。夜でもわかる。
少し現れた三日月が見え、そしてあたりが暗いから星がたくさん見えた。本当に何千も、何万も、何億の星が見えて、空気が澄んでいた。
もちろん雲はそこには無く、そこから見える空の大きさが空恐ろしい位だった。空だけに…。
そしてまた俺は前を向く。そしてそこには薄暗く人影があった。
そして、その影に向かって俺は話しかけた。
「ごめん、待たせた」
「ううん、いいよ」向こうから返事が来た。
俺の声だった。
そこにいたのは秋桜だ。
まあ秋桜から用事があると言われたのだから、秋桜がいるのは当然なんだけれど。
「それで用事って?」
「あ、うん。そのことなんだけれどね」
秋桜はものを言うのを渋った。
「悠、今日、なんの日か知ってる?」
俺は考えた。というか考える前にたぶんわかったのだけれど。
天体オタクの自分にとって、今日という日は、もはやあれしかなかった。
りゅう座流星群。
「悠、空見てよ」
俺は空を見上げた。そして目に入ってきたのは、宝石の世界だった。
輝きしかなかった。夜の暗さが逆に見えなくなるほどだった。
「綺麗だ…」
俺はぼそりといった。女子の、秋桜の乾いたような声が出た。
かの有名な文学者、夏目漱石は「月が綺麗ですね」という歴史上最も美しい告白を残したけれど(自分の中で)、この綺麗な星空は、もっと単調なもので、本当に美しいという一言だった。
宇宙の神秘だとか、そんな言葉では宇宙は表せない。ただ、その宇宙が表している人間の感性をひきだすその景色は、もう言葉で表すことでさえ要らないもののような気がした。
「綺麗だね」秋桜が上を見たままそう言った。
「りゅう座流星群」
俺は上を見上げたままそう言うと、秋桜はこっちを見て。
「なんだ、やっぱり知ってたんだ」
「まあ、自称天体オタクだからね」
「好きだって言ってたから」
「うん、好きだよ」
俺はあたりを見渡して、そして少しそこから動いて、芝生が生えている所へ行き、寝転がった。服装は、下はジーンズで上はパーカーだった。女でも男でもOKなラフな格好だった。だから寝転がる事には問題が無い。
この方が真上の、地球から遙か彼方の宇宙をすべて見ることができる。
「ちょっと悠」
秋桜は寝転がる事に対して少し怒りだした。それでも、なんだか嬉しそうだった。
「別に良いだろ?だって、こうできるように、ここを選んだんだろ?」
「それは…」
この中学は、俺の元通っていた学校だけれど、今の家の周辺とは違く、少し町から外れた所にある。元より周りに外灯は少なく、そしてなんといっても、ここは星を見るのに一番の場所である。
なぜここを秋桜が知っているのかは甚だ疑問ではあるけれど。
「それじゃあ」と言って秋桜は、俺の一メートルもない間で俺の右側に寝転がる。
空をひたすら見た。
特に流星を探そうとはしていなかった。目の前の星空を見ているだけでも酔ってしまいそうだった。
今だって俺をとてもドキドキさせていた。
この状況が、このシチュエーションが悪いのか、隣に居るのが、例え高校一年生の男子、東雲悠介がいたとしても、抑えきれないものだった。
隣に秋桜がいる。近くに秋桜がいる。と考えただけで俺はどうにかなってしまいそうだった。
家にいれば、いつだって秋桜の近くに居ることができるのに、この近くて遠い、遠くて近い秋桜を自分の中で特別なものにしたくて、そして胸がずきずきする。
秋桜を横目に空を見ていた。
すると、横に腕を広げている秋桜を見つけて、俺はその手を手に取りたいという気持ちに襲われた。
もう考えるという事をしなかった。感覚がすべてを物語っていた。
俺は上を、空を、星を、この世の全てを感じながら、ゆっくりと自分の右の手を伸ばす。
そして、秋桜の手に触れた。指先だけが触れた。
すると一回だけ、秋桜の指がびくんと驚いたような反応を見せ、そして、
秋桜が上を向いたまま、振れただけで、少し離れた俺の手を取り、握った。
掌と掌で握っている感覚ではなかった。一本一本互いの指に絡まり合って、握られていた。
そして秋桜の手を握っているとき『俺の手って、少しあったかいんだな』と思った。
そう思った瞬間の事だった。
握っている手の感覚が変わっていた。
握っている物が違うような気がした。いや、実際そうではなかった。
握っている手は、小さくて、細くて、そして少しひんやりしていた。
そして俺はその握っている手を見た。
俺の眼の前、左側には握っている手元を見ている秋桜がいた。
俺ではない、秋桜だった。姿も、精神も、何もかもが秋桜で、そして俺たちは眼を合わせる。
二人とも驚いて声が出せなかった。何を言ったらいいのかわからず、けれども顔を合わせて笑みを浮かべる。
「そうか、俺達…」
「戻ったんだね」
秋桜は胸をなでおろしたように安心した表情だったが、俺は力が抜けたようになってしまって、今寝転がっている状態で良かったと思った。
終わりはあっけのないものだった。
頭をぶつけたわけでもないし、気を失ったわけでもない(この間、刺されて気を失ったけれども)。
ただ、ただ手を握っただけで。
そんなものなのかと思ってしまう。
ずっと空を、星を見ていた。
隣には秋桜がいるんだ。今度こそそう思えた。神様は何のために、俺達を入れ替わらせて、そして今、何のために戻したのかなんて知る由もなかった。
それでも今ここに、俺の横に、近くに秋桜がいると思っただけでどうでもよくなった。
夜の暗闇に、一筋の線が煌めいた。
これが、秋桜と見たかったものだったのだ。
あまりに、早すぎて、願い事すらいえない儚いものだった。
「見た?」
「うん」彼女の澄んだ声が聞こえた。
ずっと時が止まってくれればいのにと思う。
まだ俺は、俺たちは手を放さないで、放さないように手を握っている。
秋桜の手は相変わらず小さく、そしてひんやりしていた。
入れ替わっていたせいで混乱していたのかもしれない。心に迷いがあったのかもしれない。
ただ、俺が秋桜の手を握っていて思ったことは。
秋桜を守りたいという事だけだった。
俺がどんなに弱くても、どんなにこの世の中が不条理に動いていても、俺が秋桜を守りたいという気持ちは全く揺ぐことがないだろう。
俺は思う。
たとえ、人生を悠々自適にすごしていても。
たとえ、世界が劇的でなくとも。
俺はこの小さい花を一生守りたい。
こんな自分にも価値を見い出せるのなら…
俺は決して東雲草の花言葉を忘れることがないだろう。
読了ありがとうございました。by水無月旬