エーレンフェストの本
第333話~335話 領地対抗戦から一年生の終了までのハンネローレ視点です。
わたくしはハンネローレと申します。貴族院の一年生に、ダンケルフェルガーの領主候補生として在籍しています。
ローゼマイン様がお茶会で倒れられて、お見舞いを渡したのですが、快気の報告はなく、本当に大丈夫なのか、心配する日が三日ほど続くと、領地対抗戦です。
領地対抗戦は貴族院における最も華やかな行事で、ダンケルフェルガーがもっとも団結し、燃え上がる一日となります。連絡係として最低限の者を残し、領地からほとんどの騎士がやってくることを考えても、いかに熱が籠っているのか、わかるでしょう。とても暑苦しいのです。
領地対抗戦の朝、わたくしが自室での朝食を終えて、領地対抗戦の準備のために下へ降りますと、転移陣でやってきた騎士達が広い食堂で、ヴィゼを飲みながら、騎士見習いを激励しているのが見えました。
食堂の中がすでにお酒臭くなっていることに、わたくしが思わず眉をひそめていると、40代半ばとは思えない程に若々しい騎士団長がわたくしの姿を見つけて、相好を崩しました。
「おぉ、ハンネローレ様。おはようございます。数日前にフェルディナンド様の愛弟子を打ち倒したと伺いましたぞ」
「ご、誤解ですわ、騎士団長。わたくし、そのようなことは……」
……とんでもないことを騎士団長に伝えたのはお兄様ですね。
わたくしがふるふると首を振りながら精一杯否定しているのに、声が全く届いていないのか、騎士団長の甥であるハイスヒッツェも「フェルディナンド様の愛弟子を倒すとは素晴らしい」と言いだしました。
その言葉でダンケルフェルガーの騎士達が「ハンネローレ様がフェルディナンド様の愛弟子を倒したぞ」と喜びの声を上げ始めます。とんでもない風評被害です。
「わ、わたくしはローゼマイン様と仲良くしたいと思っただけなのです。それに、ローゼマイン様は……」
お身体が弱い方で、よく倒れられる、とわたくしが口にするよりも先に、わかっています、と言うようにハイスヒッツェが深く頷きました。
「ディッターを通じて、強敵も親友となるのです。ハンネローレ様にもご理解いただけて何よりです」
「……そうではございません」
ハイスヒッツェはエーレンフェストの奇策家と同じ学年であったため、ディッターに参加できる三年生以降、全ての学年で負け越した上級騎士で、ずいぶんとフェルディナンド様をライバル視していると聞いています。強敵と書いて、親友と読むそうです。
……あちらには相手にされていないような気がするのは、わたくしだけでしょうか?
「父上、叔父上。フェルディナンド様の愛弟子と名高いローゼマイン様の奇策は、我々を翻弄したのです。そうして勝利しながら、ローゼマイン様は奢らず、我々の連携を褒め称えました」
「ほぅ、それは興味深い。フェルディナンド様の愛弟子か。今日の領地対抗戦が楽しみだ。どのような奇策だ?」
騎士団長の末息子である上級騎士見習いが熱弁を振るって、ローゼマイン様の奇策について話をすると、騎士達は非常に興味深そうに耳を傾けています。
騎士団長の妻とハイスヒッツェの妻が年の離れた姉妹のため、騎士見習いとハイスヒッツェは叔父と甥の関係でありながら、従兄弟同士という関係なのです。それもこれも、暴走しがちな騎士団の手綱を握るためのものなのですが。
わたくしは空で言える程に何度も聞いたローゼマイン様の奇策の話に背を向けて、そっとその場を抜け出します。
……わたくしはローゼマイン様を倒すつもりなど、これっぽっちもなかったのです!
騎士団長もハイスヒッツェも楽しみにしていたようですが、ローゼマイン様は領地対抗戦をお休みされました。昨夜、意識が戻ったけれど、まだ動けるような体調ではないそうです。
……せっかくの最優秀なのに、ご欠席とは、ローゼマイン様も時の女神 ドレッファングーアの御加護が少ないのかもしれませんね。
「最優秀にして、希代の奇策家……。ローゼマイン様はレスティラウト様の妻としてちょうど良い年回りではないか?」
「むぅ、確かに」
騎士団長とハイスヒッツェが何やら話し合っているようです。強さや策略家であることを領主の配偶者に求めるダンケルフェルガーの騎士団の考え方は何とかならないものでしょうか。
「父上、叔父上、残念ながら、レスティラウト様もローゼマイン様もお互いを好んでいるようには見えませんでした」
「大丈夫だ。ディッターを通せば、きっと解かり合える。私とフェルディナンド様のように、な」
ハイスヒッツェは敗北の証にダンケルフェルガーのマントを渡したと聞いたことがあります。そのマントの持ち主がフェルディナンド様なのでしょうか。
次の日の卒業式にも欠席されたローゼマイン様でしたが、何とか回復されたようです。お見舞いへのお礼状と共に、エーレンフェストの本を貸してくださいました。
「この本は……」
わたくしは側仕えのコルドゥラから手渡された本を見て、血の気が引くのを感じました。
「……コルドゥラ、もしかして、わたくしがあまり本を好きではないことを、ローゼマイン様はご存知なのではないかしら?」
「姫様、悪く考えすぎでございます。お茶会ではハンネローレ様を本のお好きなお友達と認識していらっしゃいましたから、ご存知ないと思われますよ」
「そ、そうかしら?」
このように薄い本を貸してくださるということは、わたくしには分厚い本が読めないと思われているのではないでしょうか。不安です。
「姫様が物事を捉える時は、良い方向に考えた方がよろしいですよ。悪く考えるといつもの悪循環に陥ってしまわれますから。この本もこれだけ薄いのですから、姫様でも最後まで読むことができるでしょうし、よく読み込めば、感想を言い合うのもそれほど難しくはございません」
「そうですね」
コルドゥラに励まされ、わたくしはローゼマイン様が貸してくださった本を手に取りました。表紙のない、中身だけのような本ですが、表面にはまるで本物の花を閉じ込めてあるような不思議な紙が付いています。
「この紙、わたくしが普段使っている紙と違って、ずいぶんと白くて、薄いですね。香りも違うような気がするのですけれど……」
「エーレンフェスト紙ではございませんか? 文官見習いがエーレンフェストは新しい紙を持っていると言っていたように記憶しております」
エーレンフェストでは紙も変わっているようです。わたくしはパラリと本を捲りました。
「まぁ!」
「どうなさいました、姫様?」
「この本、言葉が新しいです。とても読みやすいわ」
古くて難解で何を書いているのか理解するのに時間がかかる本と違って、ローゼマイン様が貸してくださった本は、読書が苦手なわたくしにもするすると読める本でした。
内容もわたくしが頼んだ通り、恋物語を中心とした騎士のお話で、ダンケルフェルガーにある騎士のお話とは全く違う、まるで吟遊詩人が語るような心ときめく素敵なお話が並んでいます。
そして、そのお話を一層素敵に見せているのは、挿絵です。麗しい騎士が愛する姫のために戦う場面や魔石を捧げて求婚する場面で、綺麗な挿絵が入っています。文字ばかりのダンケルフェルガーの本とは大違いではありませんか。
「このように片手で持てて、本を捲るにも労力がいらず、新しい言葉で書かれていて、簡単に読めて、こんなに楽しいだなんて……ローゼマイン様が本をお好きになるのもわかりますわ。わたくし、エーレンフェストに生まれれば、読書が苦手ではなかったかもしれません」
わたくしはこの本の感想をお手紙に書きました。そして、生まれて初めて、他の本を読んでみたいと思ったのです。エーレンフェストの本ならば、わたくし、いくらでも読める気がいたします。
「姫様が読書を楽しんでいらっしゃるのは大変喜ばしいことですけれど、姫様もエーレンフェストに本をお貸しするお約束をしたのではございませんか?」
コルドゥラに言われて、わたくしはハッと顔を上げました。そうです。わたくしもローゼマイン様に本をお貸ししなければなりません。けれど、わたくしはダンケルフェルガーにどのような本があるのか、自分では全く知らないのです。
「どうしましょう、コルドゥラ。このような本を扱っているエーレンフェストに貸せるような本がダンケルフェルガーにあるかしら?」
「ご家族にお伺いしてみてはいかがでしょう?」
卒業式を終えたダンケルフェルガーですが、まだ両親は寮にいます。明日には領地へと戻る予定なのです。
わたくしは「この本のお返しに」と説明できるようにローゼマイン様の本を持って、部屋を出ると、階下へ向かいました。
質実剛健を良しとするダンケルフェルガーの寮や城はあまり飾り気がなく、どこまでも白い印象があります。そして、領地の色である青が飾られているので、冬にしか使用しないこの寮はひどく寒々しい印象があります。
「……ダンケルフェルガーももう少し装飾品があればよかったですね。せめて、彫刻のような物があるとか、領地の色が赤であれば、少しは暖かそうに見えるでしょう?」
「彫刻などで建物を装飾するようになった時代より、ずっと以前からこの建物があるのですから仕方がございません。それほどお気になさるならば、姫様が飾ればいかがです?」
他領のお茶会に招かれると、装飾品の華やかさに圧倒されることが多く、他領の装飾を見るのは楽しいのですけれど、わたくしには何をどのように飾れば、品良くまとまるのか、よくわかりません。自室を飾ろうと奮起したことはあるのですけれど、どうにもちぐはぐな印象になって落ち着かず、三日とたたずに元の部屋に戻りました。
「わたくしにはできないと知っているでしょう? コルドゥラは意地悪ですね」
「挑戦してみるのは悪いことではございません。姫様に読める本が見つかったように、姫様に合う装飾も見つかるかもしれませんよ」
「どうした、ハンネローレ? 今日はずいぶんと機嫌が良いな」
談話室ではお父様とお母様とお兄様が何やらお話をしている姿が見えました。
わたくしの入室に気付いたお父様が手招きしてくれたので、わたくしはそちらへと向かいます。
「お父様、お母様、エーレンフェストのローゼマイン様がわたくしにこの本を貸してくださったのです。とても楽しくて、わたくし、他にもエーレンフェストの本を読んでみたくなりました」
「まぁ、ハンネローレが本を読みたがるなんて、珍しいこと」
「お母様もご覧になってくださいませ。とても素敵な騎士物語ですの」
わたしが本を胸に抱えて、お母様の元へと向かうと、お兄様が嫌そうに顔をしかめました。
「エーレンフェストの騎士物語だと? それは、もしや奇策に富んだ悪辣な騎士の話ではなかろうな?」
「お兄様、違います。恋物語を中心とした華やかな騎士の物語です」
「恋物語だと? 軟弱な……」
フンと鼻で笑ったお兄様には背を向けて、わたくしはお母様に本を見せて差し上げました。わたくしと同じようにお母様も驚いて、ローゼマイン様の本をまじまじと見ています。
「これが本ですの?」
「えぇ、ローゼマイン様が貸してくださったのですから、エーレンフェストの本で間違いないと思います。薄くて軽くて、とても読みやすいのです」
「表紙を取り繕うこともできぬのか、エーレンフェストは?」
お母様がお兄様を止めて、パラパラと本を流し読みしはじめました。
「確かに、これは読みやすいですね。言葉が新しくて、わかりやすく、綺麗な挿絵も入っているではありませんか」
「エーレンフェストは歴史のない新興の領地だから、古い言葉で書かれた本が存在しないのであろう。哀れなことだ」
「レスティラウト、今はハンネローレと話をしているのです。少し静かにしてちょうだい」
お母様がお兄様を制して、ニコリと笑いました。
「良い書字生に写本をお願いしたのでしょうね。手跡も優美ではありませんか。ハンネローレもお手本にすると良いですよ。……それにしても、これはずいぶんと珍しい紙ですわね。手触りが違うように思えるのですけれど」
「エーレンフェスト紙と言って、新しくエーレンフェストで作られ始めた紙のようです。今年、貴族院で使っている文官がいたと伺いました」
お母様が「そうですの」と呟き、何かを考えるように静かに本を見下ろします。
「エーレンフェストの本は新しくて、とても素敵でしょう? わたくしもローゼマイン様に本をお貸しするとお約束したのです。ダンケルフェルガーに伝わる騎士のお話を読んでみたい、とおっしゃっていらっしゃいましたけれど、ローゼマイン様にどのような本をお貸しすれば良いかしら?」
わたくしがお父様に尋ねると、レスティラウトお兄様がキラリと目を光らせました。
「ならば、あの偽物聖女に本物を見せてやると良い。そのような中身だけのお粗末な本ではなく、正真正銘の本を」
「ふむ、エーレンフェストの領主候補生が騎士の活躍の書かれた本を好むのならば、良い本がある」
「本当ですか、お父様!?」
ダンケルフェルガーは騎士が強い土地なので、騎士物語には事欠かないそうです。領主たるお父様が推薦する本ならば、間違いはないでしょう。
次の日、一足先に領地へと戻られたお父様から転移陣で一冊の大きな本が送られてきました。表紙を捲るのさえ大変な、下手したらローゼマイン様が潰されてしまうのではないかと思うような大きな本です。
「……お父様は何を考えていらっしゃるのでしょう?」
わたくしはダンケルフェルガーの歴史書とも言える、古くて、頑丈な本とローゼマイン様が貸してくださった本を見比べました。コルドゥラが大きな本の上に置かれていた木札を手に取って、目を通します。
「エーレンフェストが新しさで勝負するならば、ダンケルフェルガーは他に真似のできぬ歴史で勝負すれば良い……だそうです」
「わたくし、ローゼマイン様と勝負など望んでいないのですけれど……」
……どうして皆、わたくしとローゼマイン様に勝負をさせたがるのでしょう? 何に関してもわたくしが負けているのは一目でわかるではありませんか。ローゼマイン様は最優秀なのですよ。比べ物にならないのです。
周囲の妙な盛り上がりにガックリと肩を落としつつ、わたくしはローゼマイン様に本を運んでもらうことにしました。
ところが、間の悪いことに、すでにエーレンフェストでは帰還が終わっていて、寮の扉は完全に閉ざされていたそうです。寮に残る番人に頼んで、本をエーレンフェストに送ってもらうかどうか、と文官達に問われ、わたくしは力なく首を振りました。高価で貴重な本は、番人に預けるのではなく、本人に直接お渡ししなければなりません。
「この本をお貸しするのは、来年の貴族院でも良いのではございませんか? 体調を崩したのはローゼマイン様ですから、本が届かなかったからといって、姫様が非難されることはないでしょう」
「そうですね」
「そうお気を落としにならないでくださいませ。少しだけ間が悪かったのです、姫様」
コルドゥラの慰めに、わたくしは溜息を吐きました。
……わたくしも本をお貸しするとお話いたしましたのに、もう帰られてしまったなんて。わたくしの間の悪さは相変わらずですね。
わたくしはコルドゥラに頼んで、貴重品を入れておく鍵のついた大きな木箱に本と手紙を入れてもらいました。
来年、ローゼマイン様にお貸ししようと貴重品箱に入れておいた本と手紙を、領主会議に向かう前に探し物をしていたお父様が見つけて、勝手にエーレンフェストに貸してしまうとは、わたくし、夢にも思っていなかったのです。
二巻発売記念SSでした。