フィリーネ視点 貴族院からの帰宅
第336話 情報の買い取りとフィリーネの半ばのお話です。
フィリーネの家庭の事情。
「本来は主である姫様が行うのですが、今はあの状態ですから、わたくしから紹介させていただきますね」
貴族院から城へ戻ったその日、ボニファティウス様に放り投げられて目を回しているローゼマイン様は自室へ戻るなり寝台へ入りました。ちらりと心配そうに寝台の方へ視線を向けた後、筆頭側仕えのリヒャルダから城で留守をしていた成人側近の紹介が行われます。
「こちらの二人が城に残っていたローゼマイン様の側近です。側仕えのオティーリエはハルトムートの母親ですから見知っている者も多いでしょう? 護衛騎士のダームエルは下級騎士ですが、神殿時代の姫様を支えてきたことで信頼も厚いです。それから、こちらに並んでいるのが貴族院で新たに姫様の側近になった者です。側仕え見習いの……」
わたくしはダームエルのことをよく知っています。ローゼマイン様が二年間の眠りについている間、フェルディナンド様との連絡役をしたり、子供部屋で本の貸し出しを請け負ったりしていたからです。わたくしは子供部屋で彼のお手伝いをしていたので話をしたことも多く、親しみを感じます。
「フィリーネ、側近入りおめでとう。下級貴族では大変なことも多いと思うが、他の者に相談しにくいことが何かあれば相談してほしい」
「恐れ入ります。何かあった時はぜひ……」
ローゼマイン様のためにお話を書いていたことを知っているダームエルが、灰色の目を柔らかく細めてわたくしの側近入りを祝ってくれました。何だか胸の奥が温かくなったような気がします。これから同じローゼマイン様の側近として、わたくしもダームエルに負けないくらい頑張ろうと思いました。
「わたくしも相談に乗りますよ、フィリーネ。ハルトムートが無茶な要求をした時はすぐに言ってくださいね」
ニコリと微笑んでオティーリエが優しく声をかけてくれました。橙の瞳がハルトムートとよく似ています。下級貴族という理由で冷たく当たられたらどうしようかという心配はすぐに薄れました。
「ハルトムートはとても丁寧に指導してくれています。わたくしが貴族院で胸を張ってローゼマイン様の側近としてお仕えできたのはハルトムートのおかげなのです」
「それならば良いのですけれど、あの子に何かされた時は本当にすぐ教えてくださいませ」
あれほど真面目で優秀なハルトムートでも親としては心配なようです。表情や口調に母親らしい包容力を感じて、わたくしは亡くなった自分のお母様を思い出しました。
……お母様が生きていたら、わたくしもこんなふうに心配されたのでしょうか。
少しハルトムートが羨ましいけれど、心の奥は久し振りにお母様を思い出した優しい気持ちでいっぱいになってきます。
それぞれの自己紹介と城でのお仕事について簡単な説明が終わると、貴族院から戻ったばかりの見習い達は少し早めに帰ることを許されました。
「ローゼマイン様の夕食に同行する者は成人側近にします。皆は帰ってゆっくりと過ごしてくださいませ」
「では、御前を失礼いたします」
側近達が出入りする時はローゼマイン様のお部屋にある側近部屋を通ることになっています。言われていた通り、わたくし達は側近部屋から廊下へ出ました。階段を降り、北の離れと本館を繋ぐ渡り廊下を歩きます。領主の子とその側近しか出入りできないところを、わたくしが歩いているのだと考えると、ひどく不思議な気分になりました。
「この後は明日からの登城について説明するよ」
護衛騎士を何年も務めているコルネリウスが、北の離れから本館北側の一階へ先導しながら説明を始めました。
「通いの者達は二の鐘が鳴ってから登城だ。本館北側の一階にある側近の出入り口を使うので、明日も同じところから入ってくれ」
本館北側の一階は城に務めている側仕え達が使う場所だそうです。そこに立ち入ると、コルネリウスは「ノルベルト」と声をかけました。ノルベルトは領主の筆頭側仕えで、領主一族の側近達を束ねる存在だそうです。
「新たにローゼマイン様の側近になった者達です。明日からはこちらの扉を使用します」
「リヒャルダから連絡を受けました。こちらも準備は整っていますよ」
そう言いながらノルベルトはわたくし達の顔を一人一人見ていきました。
「領主一族が馬車を使用する場合、手配はこの部屋に控えている側仕えが承ります。其方等が使用する場合はここに申し出てください」
ノルベルトが関わるのは領主一族が出入りする時だけで、それ以外の時には城付きの側仕え達が対応するようです。いくつかの注意事項を終えると、ノルベルトはわたくし達を一つの部屋に案内しました。
「皆様の側仕えが帰宅用の馬車の準備を整え、こちらで待機中です」
その部屋から貴族院へ供をしてくれたわたくし達の側仕えが出てきて、それぞれの家紋がついた馬車へ案内してくれます。もちろん身分順なので、下級貴族であるわたくしは最後まで待つことになります。
「お先に失礼いたします。また明日、光の女神の訪れと共に」
「はい、コルネリウス、ブリュンヒルデ、ハルトムート、レオノーレ。光の女神の訪れと共に」
先に上級貴族の四人が、その次に中級貴族のリーゼレータとユーディットが馬車に乗り込みました。アンゲリカは夕食が終わるまで護衛騎士として仕事をして騎獣で帰宅するため、荷物を積んだ馬車だけが妹のリーゼレータの采配で帰るように指示されています。
「フィリーネ様、こちらですよ」
皆を見送った後、わたくしは側仕えとして付いてきてくれたイズベルガと一緒に馬車に乗り込みました。イズベルガはわたくしの亡くなったお母様の従姉です。昨年、自分の子供が成人したことで余裕ができたため、貴族院へ同行してくださいました。わたくしがローゼマイン様の側近に選ばれたことを一番に喜んでくれたのは彼女です。
イズベルガが「よろしくお願いしますね」と御者に声をかけると、荷物をたくさん積んだ馬車はゆっくりと動き出しました。
「大きな失敗や叱責がなく貴族院を終えられてよかったこと」
貴族院で突然側近に任命されたため、わたくしだけではなくイズベルガもとても大変だったのです。金銭的な面で本当に……。けれど、個人部屋ではなくユーディットと同室になれたことで少し助かりましたし、リヒャルダに相談して側近の支度金を前借りすることもできました。貴族院にいる間はハルトムートと一緒に情報収集やお話集めでお金を稼ぐことができたので、数日後にはまとまったお金が入ってきます。一安心です。
「本当に鼻が高いですよ、フィリーネ様。下級貴族から領主一族の側近に選ばれたのですから。わたくしも誇りに思います。ローゼマイン様はお優しい主ですし、同僚の方々も下級貴族だからと爪弾きにしない親切な方ばかりで安心いたしました。わたくし、来年からも貴族院の側仕えとして同行いたしますから、家族の引き立てをよろしくお願いしますね」
今年の冬に頼んだ時は渋々引き受けてくれたイズベルガが、上機嫌で来年以降の約束をくれました。現金な反応だと思いますが、イズベルガとの繋がりにはわたくしにも利があります。お母様の死後、少しずつ疎遠になりつつあった親戚とのお付き合いが戻れば、家の中で少しずつ居場所がなくなっているわたくしと弟のコンラートの守りになるでしょう。
「ヨナサーラ様は子ができてから、人が変わったようにわたくし達を邪険にするようになりました。わたくし、コンラートが心配なのです。……お父様もヨナサーラ様の言葉を尊重する傾向が強いですから」
お父様がしっかりとヨナサーラ様を止めてくれるならばこのような心配はしませんが、お父様は家の中のことをヨナサーラ様に全て任せています。わたくし達の意見は聞き流されることが多いのです。
「子を得れば、女は母として我が子を一番大事にしようとするものです。子の立場が安定していれば少しは余裕もできるでしょうけれど、入り婿の後妻であるヨナサーラ様のお立場は難しいですからね。我が子を守ろうと必死になるでしょう。それは本能的なことですし、それは仕方ありません」
わたくしにとってはあまりにも突然で理不尽に思えるような理解できない不快な変化ですが、イズベルガは仕方がないことだと言います。わたくしが子を持つ頃になれば理解できると言いますが、ヨナサーラ様から邪険にされている今は理解したいと思えません。
「でも、こうなることがわかっていたからカッシーク様には何度も忠告したのですよ。それなのに、後妻に子を産ませるなど、何を考えているのでしょうね?」
「せめて、コンラートが貴族院へ入るまでは待ってくれれば、こんな心配はしなくて済んだのですけれど……」
わたくしのお母様が亡くなったのは、コンラートが生まれて季節が一つ過ぎたかどうかくらいのことでした。周囲からの情報によると、お父様は長期間住み込みで働いてくれる乳母を雇うか、後妻を娶るか考えた結果、後妻を選んだそうです。金銭的な面を考えたのだと聞いています。
「たまたま御自身の親族に身寄りが亡くなって生活が困窮しているヨナサーラ様がいらっしゃいましたからね。ヨナサーラ様を後妻に、その伯母のエイネイラを側仕えとしてカッシーク様が引き取ったことは、人道的な面からも責められることではありません。けれど、後妻に子を産ませて、貴女とコンラートの養育を放り出しては意味がないでしょう。そこは非常に考えが足りませんでしたね。ヨナサーラ様達は恩知らずにも程がありますよ」
イズベルガが嘆息する姿に、わたくしはそっと胸を撫で下ろします。家ではわたくしが責められるので、自分と同じようにヨナサーラ様とお父様に憤りを感じている人がいることに安心したのです。
「わたくしがお父様に同じことを訴えた時にひどく叱られました。恩知らずはわたくしで、子をなしたヨナサーラ様に対する思いやりがない、と。でも、わたくしはお父様の叱責を受け入れることがどうしてもできませんでした」
「まぁ……」
「わたくし、コンラートをよろしくね、とお母様が亡くなる前に頼まれたのです。今の生活がコンラートにとって良いとは、とても思えません」
赤子の世話が忙しくて食事の手配を忘れたり、ちょっとしたことで金切り声を上げて怒り出したり、躾と称して手を上げたりするヨナサーラ様の姿を思い出すだけで気分が沈んでいきます。食事の手配を忘れるならば、わたくしが直接下働きに指示を出すことに文句を言わないでほしいですし、「それは女主人の役目だ」と言い張るならば、役目を果たしてほしいと思います。
「わたくし、ヨナサーラ様に離れへ移っていただきたいのですけれど、イズベルガはどう思いますか?」
普通、第二夫人には離れが与えられます。第一夫人やその子供との間に起こりうる確執や争いを避けるためです。けれど、ヨナサーラ様はわたくし達の養育を目的にした後妻だったため、ずっと本館に住んでいます。子を産んだ今もそのままです。
わたくしは別にお父様達に離婚してほしいとか、ヨナサーラ様達が路頭に迷うことを知っているのに家から出て行けと言うつもりはありません。けれど、コンラートの養育を放棄するならば、ヨナサーラ様とエイネイラには本館から離れに移ってもらいたいとは思っています。
「わたくし、ローゼマイン様の側近になれましたから、普通の見習いとはお給金が違います。コンラートも食事の世話などにそれほど手がかからなくなってきましたし、下働きを雇って貴族院で貯めたお金を大事に使っていけば……」
できればお父様に提案する時にはイズベルガに援護してもらいたいと考えて話を切り出しましたが、彼女は少し考えて首を横に振りました。
「貴女の気持ちはとてもよくわかりますが、すぐには不可能でしょうね。領主一族の側近として生活していく上で揃えなければならない物にどのくらいお金がかかるのか、今の時点ではわかりません。それに、離れを整え、両方に生活費がかかる状態をカッシーク様が選択すると思いますか? それができるならば、最初から後妻を娶らずに乳母を雇ったでしょう」
イズベルガの的確で冷静な指摘にわたくしは項垂れました。わたくしは自分でお金を稼げるようになりましたし、魔力圧縮の方法を教えてもらえることになっています。できるだけの努力をすれば、家計に迷惑をかけずにコンラートを守ることもできると思ったのですが、まだまだ力不足のようです。
「そのように落ち込むことはありませんよ。カッシーク様は婿です。あの家を継ぎ、守っていくのはコンラートと貴女です。貴女はローゼマイン様の側近に選ばれたのですから、今後はあの二人も粗雑な扱いはできません。コンラートが貴族院へ入る頃には貴女も成人です。領主一族の側近としてコンラートの後ろ盾になることは可能でしょう。今は焦ってはなりません」
丁寧に諭されて、わたくしは頷きました。ローゼマイン様の側近として、お父様達がわたくし達を尊重してくれるようになれば、今のような息苦しい生活が続くことはないでしょう。
……わたくしがローゼマイン様に忠誠を捧げたことは間違っていませんね。
お母様のお話を忘れないように書き留めなさいと言ってくれた時も、側近に召し上げてくださった今も、ローゼマイン様はいつでもわたくしを救ってくださるのです。自分にできる限り、真摯にお仕えしたいと決意した時、馬車が自宅に到着しました。
「おかえりなさいませ、フィリーネ様」
「あら、わたくし、連絡を入れたはずですけれど、ヨナサーラ様はどちらにいらっしゃるのかしら?」
出迎えた者が側仕えのエイネイラと下働きの男だけだったことに、イズベルガが眉をひそめました。エイネイラは一度家の中を振り返り、静かな口調で答えます。
「大変申し訳ございませんが、ヴィーゲンミッヒェのお招きで手が離せません」
ヨナサーラ様が赤子の世話で何かができない時に使われる言葉です。ローゼマイン様の聖典絵本を読んで知ったことですけれど、ヴィーゲンミッヒェは洗礼式前の子供を守り育てる女神です。
「そうですか。ご挨拶したかったのですけれど、仕方ありませんね。では、下働きに荷物を運ばせてくださいませ。その後、馬車にはわたくしが乗って帰りますから。あぁ、久し振りにコンラートにも会いたいですね。呼んでくださいませ」
イズベルガがそう言うと、エイネイラは「コンラート様は洗礼式を終えていませんから」と少し困った顔になりました。
「わたくしは同母系の親戚ですから問題ありません。少し顔を見たいのです」
引こうとしないイズベルガの言葉に、エイネイラがわたくしを見ました。「止めろ」と訴えられていることはわかります。けれど、これから先イズベルガにはわたくし達の援護をしてもらおうと思っているのです。彼女と顔を合わせておくのは、コンラートのためになるでしょう。
「エイネイラが忙しいのでしたら、わたくしがコンラートを呼んできます」
「いいえ、わたくしが行ってまいります。申し訳ございませんが、フィリーネ様はイズベルガ様にお茶を……」
「わかりました」
わたくしはイズベルガを応接室に案内して、できるだけ丁寧にお茶を淹れます。お茶を飲んだイズベルガが少し顔をしかめました。どうやらあまりおいしくなかったようです。
「わたくしのお茶で申し訳ございません。我が家はエイネイラしか側仕えがいないのです」
「……これでは不足が多そうですね。神殿では側仕えとして教育された者が安く買えるそうですよ。魔術具は使えないようですが、魔術具が少ない下級貴族の家には十分な働きをしてくれるようです。ローゼマイン様を通せば融通してくださるかもしれません。相談してみてはいかが?」
イズベルガが口元を拭って、そう言いました。自分のお給料をいただけるようになったらローゼマイン様に相談してみても良いかもしれません。できることならば、わたくしとコンラートの身の回りを整える側仕えだけでも新しく雇いたいものです。
「コンラート様をお連れしました」
「姉上、おかえりなさいませ。帰ってきてくれて嬉しいです」
エイネイラに手を引かれたコンラートが応接室に入ってきました。何だかコンラートが痩せたように見えます。気になりましたが、エイネイラに教えられたらしい挨拶を一生懸命にしているコンラートを遮ることもできませんし、イズベルガの前でエイネイラを問い詰めるのも失礼なことです。少し考えた結果、わたくしは口を噤みました。
「とても上手に挨拶できましたね、コンラート。……それにしても、何だか少し痩せていませんか? 食事が足りていないのではなくて?」
わたくしが気にしていたことをイズベルガはずばりと切り込んで尋ねました。エイネイラは困ったように微笑みます。
「コンラート様は元々食の細い子供なのです。それなのに、フィリーネ様がいらっしゃらなくて、更に食欲がわかなかったようで食事の量が減りました。これからフィリーネ様と一緒に食べることができればすぐに食欲も回復するでしょう」
エイネイラの言葉にコンラートが何度も頷き、「お姉様と一緒にご飯を食べたいです」と言いました。これほど帰宅を楽しみにしてくれていたなんて嬉しいことです。
「コンラート、これから朝食と夕食は一緒に摂りましょうね」
「……お昼は? これからはずっと姉上と一緒にいられるのでしょう?」
きょとんとした顔でコンラートにそう言われて、わたくしは何とも言えない罪悪感がこみ上げてきます。
「ごめんなさいね。明日からわたくしはお父様と同じようにお城で働くことになりました。六の鐘まではお城へ行くのです。去年も子供部屋へ行っていたでしょう? 同じような……」
「嫌です。行かないでください」
「そういうわけにはいかないのよ、コンラート。大事なお仕事なのです」
イズベルガという客人がいる前で泣きそうになっているコンラートに驚いて、わたくしは必死に宥めようとしましたが、ここで「一緒にいられる」と嘘を吐くことはできません。
「フィリーネ様を困らせてはなりませんよ、コンラート様。良い子にするとお約束したではありませんか。それに、お客様の前ですよ。」
エイネイラが肩を押さえると、コンラートがハッとしたようにエイネイラを見上げ、それから、すぐに項垂れて頷きました。
「我が儘を言って申し訳ございません」
「コンラートはお姉様が大好きなだけでしょう。わたくしは気にしていませんよ」
イズベルガが優しく微笑んだところで下働きが戸口に立ちました。どうやら荷運びが終わったようです。わたくしはイズベルガを労い、別れの挨拶をします。
「ありがとう存じます。イズベルガのおかげでとても快適な貴族院生活を送ることができました。ここで貴族院における主従契約を解除いたします」
「フィリーネ様の成長をこの目で見届けることができたことが何よりの収穫でした。来年も声がかかることを待っております。……わたくしはこれで失礼いたしますね」
わたくしはコンラートやエイネイラと共にイズベルガを見送りました。馬車が角を曲がると、途端にエイネイラは側仕えらしい笑みを消して、わたくしをギロリと睨みます。
「フィリーネ様、お帰りが遅すぎます。もう六の鐘が鳴っているではありませんか。下働きに余計なお金を渡して待機してもらわなければならないなんて……」
「……わたくしにそのような文句を言われても困ります。城からの帰宅が身分順ですもの。それより、コンラート。一緒に夕食を……」
「フィリーネ様のお帰りが遅いので、コンラート様の夕食は終わりました。わたくしがお風呂に入れるので、フィリーネ様は早く夕食を終えてくださいませ」
エイネイラは厳しい声でそう言うと、コンラートの腕を引いて歩き始めました。自然と「お風呂に入れる」という言葉が出たことからもわかるように、どうやらわたくしが貴族院に行っている間、エイネイラはコンラートの世話をずっとしてくれていたようです。
「ありがとう存じます、エイネイラ。コンラートのお風呂は任せますね。でも、その前にわたくしの着替えを手伝ってほしいのですけれど……」
貴族院用の黒の衣装は側仕えが着せることを前提に作られています。一人で脱ぎ着はできません。それを見て、エイネイラが面倒くさそうに眉を寄せました。
「コンラート様、先にお部屋に戻っていてくださいませ」
そう言われたコンラートが何だかすがるような目でわたくしを見ましたが、着替えの場に来られても困ります。わたくしが貴族院に行っている間よほど寂しかったのでしょうけれど、コンラートには自分の部屋に戻ってもらわなければなりません。わたくしはそっとコンラートを抱き寄せて、就寝の挨拶をします。
「コンラート、シュラートラウムの祝福と共に良き眠りが訪れますように。……明日の朝は一緒に朝食を摂りましょうね」
「はい、姉上」
コンラートが嬉しそうに微笑んで、自分の部屋へ歩いていきます。聞き分けがよかったことにホッとしながら、わたくしはエイネイラを伴って自室へ入りました。
下働きによって運び込まれただけで、適当に積み上げられている貴族院の荷物が部屋を狭く見せています。荷物の木箱を横目で見ながら、わたくしは部屋のクローゼットを開けました。そこには一人で脱ぎ着できる平民用の服が入っています。貴族院では着ることのない自宅用の服です。
「ヨナサーラ様は赤子の世話で忙しいようですけれど、夕食の準備はできているのですか?」
「えぇ、わたくしはこれからヨナサーラ様の様子を見に行くので給仕はできませんけれど、準備は終わっていますよ」
「そうですか。明日は二の鐘に城へ行くことになっています。朝食を終えたら、衣装の支度をお願いしますね」
むっつりと不機嫌そうなエイネイラに手伝ってもらって貴族院用の服を脱ぎました。脱がせ終わると、エイネイラはさっさと部屋を出て行きます。
……コンラートのお風呂を手伝ってもらえるだけでもありがたいもの。
わたくしは一人で平民用の服を着ると、食堂へ行って自分で給仕をし、一人で質素な夕食を終えました。貴族院の食事があまりにもおいしかったせいでしょうか。静かで寂しいせいでしょうか。ローゼマイン様を中心に側近の皆と一緒に囲んだ賑やかな食事を思い出し、自宅に帰ってきたばかりなのに貴族院へ戻りたくなりました。
食事を終えて自室に戻る途中で赤子の泣き声が聞こえてきました。赤子が生まれてからヨナサーラ様だけではなく、エイネイラも赤子に付きっきりです。お父様とヨナサーラ様以外の用事をすることはほとんどなくなりました。エイネイラがわたくしの荷物の片付けを手伝ってくれたり、寝支度を整えてくれたりすることはないでしょう。
……いつになったら眠れるかしら?
貴族院へ行っている冬の間、ずっと放置されていたらしい自室を見回してわたくしは溜息を吐きました。まずは軽く部屋の掃除をして、シーツを取り替え、明日の仕事の準備をしなければ眠ることもできないようです。
他の家庭ならばきっと母親が貴族院からの帰りを心待ちにしてくれているでしょうし、仮に母親がいなくても側仕えが部屋を整えてくれているでしょう。貴族院から戻った途端に平民の服に着替え、部屋を自分で整えなければ眠ることもできない貴族がどれだけいるでしょうか。情けなさに泣きたくなりますが、泣いたところで事態が好転しないことは嫌と言うほど知っています。わたくしは深呼吸して気分を切り替えると、ぐいっと腕まくりをして、掃除道具を取りに行きました。
第四部Ⅲの特典SSの切り捨て部分の再利用SSです。