エックハルト視点 ローゼマインが不在の冬 後編
午後一番に行われたアーレンスバッハのディッターが終わると、我々は挨拶に来る下位領地の客に対応しなければならない。アーレンスバッハにやって来るのは簡単な挨拶をする者を除けば、ライムントの研究に興味を持っている者がほとんどだ。ライムントの師匠ということでフェルディナンド様と話をしたがる者も多い。
……来い。さぁ、研究の話がしたい者よ。来るが良い。
フェルディナンド様やライムントの功績とはいえ、アーレンスバッハが注目されることには寛大なのか、頭が悪すぎて理解できないため来客対応を全てフェルディナンド様に任せたいのか、この時ばかりは愚かで面倒な婚約者が近付いて来ないので研究の話は大歓迎である。
「ディートリンデ様、フェルディナンド様。ごきげんよう」
「あら、ヒルシュール先生。ごきげんよう」
ヒルシュール先生は挨拶を簡単に済ませると、ニコリと微笑んだ。その目は研究欲でギラギラと光っていて、フェルディナンド様が手伝わされていた貴族院時代を思い出させる。
……さて、今度は何の研究で行き詰っているのだろうか。
フェルディナンド様に付き従っていた私でもそう思うのだ。フェルディナンド様も同じように感じているだろう。だが、今のフェルディナンド様は自分勝手に出歩いても良い立場ではない。ヒルシュール先生もそれはわかっているようだ。
「ディートリンデ様、わたくし、とても古くて重要な魔術具を再現するための調合を行おうと思っています。卒業式の翌日からアーレンスバッハへ戻る日までフェルディナンド様に調合のお手伝いをお願いしたいのですけれど、許可をいただけませんか?」
すでに十年以上前に卒業し、他領に移動している領主候補生に対して「調合を手伝うように」と言う教師などヒルシュール先生以外にいないだろう。非常識といえば非常識だが、フェルディナンド様にとって息抜きになれば良い。
……そのようなことが許されるとは思えぬが。
予想通り、「それはあまりにも非常識ではございませんこと?」と自分以外のことでは融通を利かせる気がない不束者は不愉快そうに眉を顰めた。
だが、相手はヒルシュール先生である。フェルディナンド様の師であり、自分の研究のために弟子をこき使う手腕には定評があり、すでに常識などかなぐり捨てている人だ。非常識だと言われても意にも介していないし、一度断られたくらいで諦めるはずもない。
「この調合が成功すればライムントの来年の研究にも応用できますから、アーレンスバッハは来年も注目されるでしょう」
ヒルシュール先生はアーレンスバッハにも利があることを述べながら、紫の瞳をにんまりと細めていく。相手の弱みをちらつかせる時の愉し気な表情だ。
「もうお忘れかしら? ディートリンデ様はわたくしのお願いを聞いてくださるお約束でしたよね? 次期アウブが約束を破るようなことがあれば、あまりの驚きにわたくしもお約束を忘れてしまうかもしれません」
「……わかりました。よろしくてよ。フェルディナンド様、ヒルシュール先生のお手伝いをしてアーレンスバッハのためにしっかりと成果を残してくださいませ」
傲慢すぎる言葉には苛立ちを覚えるが、外出と調合の許可を得られたことでフェルディナンド様が少しだけ満足そうに唇の端を上げた。
……さすがヒルシュール先生だな。私も満足だ。
「では、ディートリンデ様。私はヒルシュール先生と研究について詳しい話をしてきます」
「わたくしはこちらでお客様のお相手をしなければなりません。どうぞ師弟で語り合ってくださいませ」
さっさと行け、と言わんばかりに追い払われ、我々はヒルシュール先生と共に研究の展示がされている方へ歩き出す。時間が惜しいのか、歩きながら早口でヒルシュール先生がフェルディナンド様に調合の話を始めた。エーレンフェストから届けられた素材があるけれど、どうしてもヒルシュール先生には調合ができないらしい。
「属性が足りなければ調合できないだなんて、本当に何という魔術具でしょう」
悔しそうに文句を言うヒルシュール先生にフェルディナンド様が「あれはローゼマインが調合できるはずでしたから」と小さく笑う。
「さて、ヒルシュール先生。調合をお手伝いするのはやぶさかではございませんが、アーレンスバッハの利益だけではなく、私の利益はあるのでしょうか?」
「金銭という意味でしたら、そのような物はございませんよ。むしろ、こちらが資金援助してほしいくらいなのはご存知でしょう? 可愛い弟子のためにお力を振るってくださいませ。利益が必要でしたらローゼマイン様から取り立てればよろしいでしょう。素材を持ち込んだのも、完成品をお使いになるのもローゼマイン様なのですから」
そうでなければ、フェルディナンド様はあそこまでお膳立てをしないでしょう、とライムントとローゼマイン様の扱いを比べながらヒルシュール先生が肩を竦める。
「……とは言っても、お手伝いいただくのですもの。アンハルトゥングの協力でいかが?」
絶対に断らないという確信を持った笑みでヒルシュール先生がフェルディナンド様を見つめる。フェルディナンド様はほんの数秒間考える素振りを見せ、仕方がなさそうな顔で頷いた。
「三の鐘が鳴った後に研究室へ伺います」
アンハルトゥングは困った時や迷った時に助言をくれる女神だ。神話では隠蔽の神 フェアベルッケンに隠された物を探すための助言をすることが多い。どうやら調合への協力と引き換えにエーレンフェストが必死に隠しているローゼマインに関する情報をくれるつもりのようだ。
……ヒルシュール先生は相変わらずフェルディナンド様に餌を振りまくのがお上手でいらっしゃる。
何だかんだと理由をつけつつ、フェルディナンド様を動かして手伝わせる手腕はすごいと常々思っている。フェルディナンド様が欲しているものを把握しているということは、それだけヒルシュール先生がフェルディナンド様に注意を払っているということだ。わかりにくいフェルディナンド様を理解してくれている者がいることが私には嬉しいのである。
「次はエーレンフェストの番のようだぞ」
エーレンフェストの騎士見習い達がマントを翻しながら騎獣で競技場を巡り始めた。我々は観戦するために前に出て競技場を覗き込む。去年と同じように見事な隊列ができていた。エーレンフェストの観戦場所ではアウブ夫妻や領主候補生達が最前列に並んで、下を見下ろしているのがわかる。
「……む? あれはアンゲリカか?」
エーレンフェストの観戦場所にアンゲリカの姿が見えたような気がした。視力を強化してみれば、間違いなく彼女の姿が見える。私の呟きにユストクスが「おや、アンゲリカが見えるのですか?」と必死に目を凝らす。ユストクスは身体強化ができないので見えないようだ。
「すでに卒業したアンゲリカが何故領地対抗戦にいるのだ?」
「リーゼレータから聞いた話ですが、アンゲリカの相手として相応しくトラウゴットが成長しているかどうか確認のために呼ばれたそうですよ」
アンゲリカが結婚相手に「自分より強い男」という条件を出したのは知っているが、トラウゴットでは無理だろう。私は婚約者時代に訓練の相手をしていたアンゲリカの強さと騎士団で見ていたトラウゴットの強さを思い出す。
……トラウゴットも多少は成長しているようだが、アンゲリカは狂おしい程に強さを求めているからな。必死さが全く違う。
優秀な側仕えを輩出する家系に生まれたにもかかわらず、アンゲリカは全く側仕えに適性がなかった。貴族院でも驚きの成績を収める彼女はローゼマインに引き立てられたことで初めて家族以外の一族に存在を認められたらしい。だからこそ、ローゼマインのために強くなるのだと言っていた。
アンゲリカはおじい様の厳しい訓練を黙々とこなし、少しでも強くなろうとする努力を怠ることはなかった。護衛騎士と側仕えの違いはあっても、自分の主のためにただひたすら一途に己を磨く一族の血が確かにアンゲリカにも流れているのだと感じたものだ。
「このディッターでトラウゴットはアンゲリカに認められるのでしょうか?」
「いや、どう考えてもトラウゴットにアンゲリカは無理であろう」
私の言葉にフェルディナンド様が頷いた。
「あの二人では心構えが全く違う。トラウゴットには仕える者の心構えや覚悟が足りぬ。私としては……」
そう言いながらフェルディナンド様がちらりと私を見た。
「アンゲリカの生き方はエックハルトと似ているのではないか、と思う」
「おっしゃる通り、アンゲリカには共感を覚えたことがあります」
婚約解消について話をした時、「ローゼマイン様から離れてどのように生きていけば良いのかわからないので、わたくしは一緒に行けません」とアンゲリカに言われた。それは私が最も共感した言葉だ。
自分の主を最上に置くことに共感してくれること、わたしが未だにハイデマリーを愛していることに何の感慨も持っていないこと、結婚に対して別に夢を見ていないこと、アンゲリカは私にとって悪くない相手だった。
「……そうか。エックハルトが共感を覚える女性など他にはいないであろうから、婚約解消は少し惜しかったな」
「いいえ。どちらも自分より上に主を置いているので、アンゲリカと私が共に歩むのは難しいと思われます。二人で同じ主に仕えるか……お互いの主が共に歩む者でない限り」
私の答えにフェルディナンド様は真顔になって「確かにそれは難しいな」と呟きつつ、頭に花を盛りつけて高笑いしている女にちらりと視線を向けた。
……たとえ星結びを終えたとしても、あの厚かましくて軽はずみな愚者と共に歩めるほどフェルディナンド様が劣化するところは全く想像できぬな。
そんなことになる前にレティーツィア様には成人してほしいものである。そうすれば、どうしようもない害悪を秘密裏に処理するくらいは簡単にできるだろう。
中継ぎアウブを終えて不必要になった災厄の処理過程をいくつか考えていると、「んまぁ!」という耳障りな声に思考が邪魔された。
エーレンフェストが魔獣を倒すのは、アーレンスバッハよりよほど速かったのだが、それが認められないのか、顔を真っ赤にした寮監が「信じられませんわ!」としきりに叫んでいる。うるさいので口に詰め物をして布でぐるぐる巻きにしてどこか遠くに投げ飛ばしてやりたいと考えてしまった。
取りとめもない話をしているうちにディッターは終わる。そうなれば領地対抗戦はほぼ終わりだ。この後で始まるのは表彰式である。
エーレンフェストの騎士見習い達は速さを競うディッターで三位という優秀な成績を治めていたし、フレーベルターク、クラッセンブルク、アーレンスバッハとの共同研究も上手くこなしていたようだ。フレーベルタークとアーレンスバッハの共同研究は表彰されていた。
そして、個人の表彰が行われる。最終学年から名前が呼ばれていくのだ。エーレンフェストの学生は去年同様に何人も名を呼ばれているが、アーレンスバッハの学生はがくんと減った。
頭に花を咲かせた盆暗は「やはり領主候補生がいるのといないのでは違いますね」とわかったような顔で自分がいかにアーレンスバッハを率いていたのか述べているが、領主候補生の有無ではなく、神事への参加の有無が大きな要因だ。他領の学生達が自領を富ませるために苦労しているのに、神事への忌避感から何もしなければこれからもアーレンスバッハの成績は相対的にどんどん下がるはずだ。
……のうのうとしていられるのは今の内だ。星結びを終えてみろ。アウブの配偶者の立場となったフェルディナンド様がアーレンスバッハ全体を締め上げるからな。
今はただの客人の身分なのでレティーツィア様の教育以外には手を出せないが、星結びを終えて手を出すことが可能になればレティーツィア様の側近と協力し、騎士、文官、側仕え全体に対する教育を行うことになっている。
次々と積み上げられる課題に溺れそうになっているレティーツィア様以外にも教育対象を作ることで、レティーツィア様の負担を減らす。そして、成人と同時にアウブになる彼女を支えられる人材を育てていきませんか? とユストクスが働きかけたことで、あちらの側近も乗り気だ。
「四年生、最優秀。ドレヴァンヒェルの領主候補生オルトヴィーン」
四年生の最優秀、領主候補生の最優秀として壇上に上がったのはドレヴァンヒェルの領主候補生だ。
「ローゼマイン様の名が優秀者にもないだと?」
「いくら臥せっているとしてもおかしくないか?」
「領主候補生や上級貴族の奉納式では神殿長を務めたと聞いたぞ」
観客席のざわめきがあまりにも大きい。当然だろう。口では文句を言いながらもフェルディナンド様の課題を平然とこなしていたローゼマインが一度も名を呼ばれないのはおかしいに決まっている。同じように考える者は多かったようだ。
「臥せっているにしても長すぎますわ。エーレンフェストは何か隠しているのではございません?」
表彰される者を呼ぶために拡声の魔術具を持っている寮監がキンキンと耳に痛い音量で得意そうにエーレンフェストを責め始める。並んでいる学生達は表彰式が中断した状態に苦い顔になるし、魔術具越しの大声に辟易としている者も多い。けれど、それに気付いているのかいないのか、寮監は更にがなり立てる。
「さぁ、何をお隠しになっていますの? 正直におっしゃってくださいませ」
「ローゼマインは臥せっているだけだ」
優秀者として呼ばれて前に出たヴィルフリート様は反論しているが、全く聞く耳を持っていない寮監には無駄なことだ。周囲では教師達が止めようとしているが、全く効果がないように見える。
「貴族院の期間中ずっと臥せっていらっしゃるなんて長すぎますもの。本当はすでにはるか高みに上がられたのに、隠していらっしゃるのではございません?」
「なっ!?」
「んまぁ! ヴィルフリート様は動揺していらっしゃるではございませんか。そうなのですね?」
興奮したように鼻息が荒い様まで魔術具で響く。フェルディナンド様が感情を感じさせない目で騒音女を睥睨した。
……いい加減にしろ、この頓痴気の痴れ者が!
次の瞬間、「フラウレルム!」というルーフェンの怒声を拡声の魔術具が拾って、競技場全体に響き渡った。突然の大声に観戦場所にいる貴婦人から「きゃっ!?」と驚きの声が上がる。
先程私が想像したようにシュタープの光の帯によってぐるぐる巻きにされ、抗議しようと口を開けた途端、猿轡を噛まされた無分別な愚か者がルーフェンと騎士コースの教師陣に担ぎ出されていく。
騒音の原因が排除されると、すぐに何事もなかったかのように表彰式が続けられた。一年生までの優秀者がプリムヴェール先生によって呼ばれ、前に出ていく。
「……ローゼマインが率いなくともエーレンフェストはこれまで通りに回るのだな」
フェルディナンド様はゆっくりとエーレンフェストのいる辺りを見ながら面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。
エーレンフェストの面々は貴族らしく表面を取り繕っているだけかもしれない。だが、領地対抗戦でたくさんの領地のアウブ達がエーレンフェストを訪れる様子も見慣れてきたし、ヴィルフリート様もシャルロッテ様も慣れた様子で社交をこなしているように思えた。ローゼマインが不在でも優秀者はたくさん出ている。
「不在であっても動くように教育されているのです。それこそがローゼマインの功績だと私は思います」
「……エックハルト、其方は意外と兄馬鹿なのだな」
フェルディナンド様が意外そうに言った言葉を、私は苦い笑みを浮かべながら一応肯定しておく。
……親馬鹿ならぬ保護者馬鹿はフェルディナンド様だと思いますが。
心の中でそう反論してみたが、再会した時にローゼマインがフェルディナンド様から無駄に八つ当たりされそうなので口にするのは止めておいた。
……ローゼマイン、其方は私に感謝して頬をフェルディナンド様に差し出すように。
領地対抗戦の翌日に行われた成人式と卒業式は衝撃的だった。あれだけフロレンツィア様一筋であったアウブ・エーレンフェストがブリュンヒルデをエスコートしていたのだ。ギーベ・グレッシェルの娘を第二夫人にする決意をしたらしい。フェルディナンド様の援護がないまま、いつまでも我を押し通すことはアウブ・エーレンフェストもできなかったようだ。情勢を考えれば仕方がない流れだと思うが、あの方がフロレンツィア様以外の女性をエスコートする姿はどうにもしっくりしない。
「あれは使わなかったのか……」
時と情勢の移り変わりを感じただけの私と違い、ひどく苦々しい顔をしたフェルディナンド様が小さくそう呟いた。いつの頃からかエーレンフェストやローゼマインのことを考えているフェルディナンド様が時折見せるようになった表情だ。
碌な情報が得られず、料理の補充もなく、ローゼマインと行うはずだった料理のレシピの買い取りもできず、レティーツィア様が楽しみにしていたお菓子の補充も手紙の返事もないまま、領地対抗戦と卒業式は終わった。
ついでに、時と場所を弁えない寮監は罷免された。中央には必要ないため、アーレンスバッハに戻るように、そして、代わりの寮監を出すように、と教師達の会議において全員一致で決定したそうだ。縛られたままで元寮監はアーレンスバッハへ転移させられた。寮監がアーレンスバッハの品位を落とすなどあり得ない、と私が知る限りユルゲンシュミット内で最も品のない女が言っていた。
……寮内も貴族院内も静かになったので構わないが、品位を落とすのが罪になるならば一番に罰を受けるべきは其方ではないか?
次の日からアーレンスバッハへ戻る日まではヒルシュール研究室へ通うことになっている。フェルディナンド様はライムントとヒルシュール先生の分の昼食を準備させ、ライムントに運ぶように命じた。
「ライムント、私が行ったらすぐに調合を始められるように食事と調合道具の清めを終えておくように」
ライムントが緊張した面持ちでフェルディナンド様の指示を聞いている。ライムントはフェルディナンド様の側近ということになっているが、その才能を伸ばすためにヒルシュール研究室で冬以外にも過ごしているのだ。そのため、手紙のやり取りは多いけれど、二人が顔を合わせて話をする機会はそれほど多くない。
フェルディナンド様は御自身の研究三昧の貴族院時代がよほど得難く、楽しい時だったと感じていらっしゃるようで、ライムントには研究に没頭できる環境を与えている。ローゼマインが知れば「その不規則な生活を改めてくださいませ!」と叱り飛ばすような環境だが、ライムントは当時のフェルディナンド様と同じように生き生きとしている。
「フェルディナンド様はどうされるのですか?」
「私はこちらでいくつかの指示を出した後、図書館で資料を得てから研究室へ向かうつもりだ。ヒルシュール先生に伝えてくれ」
「かしこまりました」
フェルディナンド様の調合を見られると興奮しているライムントがやや速足で退室していった。ユストクスに調合服を持って来させていたフェルディナンド様が着替えながらゼルギウスに帰還準備を始めておくように指示を出す。
「ゼルギウスはこちらの帰還準備を始めてほしい。……それから、ディートリンデ様の様子に気を付けてほしいのだ。これはユストクスよりも其方が適任だ。頼めるか?」
「お任せください」
ゼルギウスに留守番を任せ、我々三人はアーレンスバッハ寮を出て図書館へ向かった。
「フェルディナンド様、何の資料を探すのですか?」
「古くて、貴重で、あの図書館にしかない資料だ。これから作る物に必要なのだが……あまり気は進まぬな」
空を睨むような顔のフェルディナンド様から答えにならない答えだけが返ってきた。よくわからないまま、私とユストクスはフェルディナンド様に従って歩く。フェルディナンド様だけがわかっている状態は別に珍しいことではない。我々に知らせなければならないと判断しない限り、フェルディナンド様は御自分の考えを口にされない。言動からこちらが察するしかないのだ。
回廊を横切って扉を開け、閲覧室に入ったが、司書も図書館の魔術具も姿が見えない。何か片付けや来客があったのだろうか。フェルディナンド様は閲覧室内を少し見回した後、「帰りにソランジュ先生に話を聞いてみるか」と呟きながら左手にある階段を上がっていく。あれだけ図書館に固執しているのだから、ローゼマインの情報を知っているかもしれない。
「またここに来ることになるとは……」
面倒くさそうにそう言いながらも迷いのない足取りで二階の閲覧室の奥へフェルディナンド様は向かう。貴族院の頃は図書館へよく来ていたものだが、卒業してからもここへ来ることになるとは私も思っていなかった。ハイデマリーが次に借りる本は何か、とフェルディナンド様の手元を覗き込んでいた姿や、フェルディナンド様に命じられて写本に必死になっていた姿が思い浮かぶ。
……何故、今ここに其方がいないのであろうか。
図書館の様子も、この場にいる顔ぶれにも変化はない。それなのに、あの頃には当たり前にいたハイデマリーだけがいない。
「エックハルト、辛いならば離れていても構わぬぞ」
「私は護衛騎士です、フェルディナンド様。お傍を離れたらハイデマリーに叱られます」
「図書館での助手は文官であるわたくしの仕事です。貴方は護衛をなさい!……ですか」
ハイデマリーの口癖を真似るユストクスが懐かしそうに笑った。
「早く用件を済ませましょう、フェルディナンド様。ハイデマリーに叱られます。領主候補生が自分で動かないでくださいませ、と」
フェルディナンド様が「懐かしいな」と言いながら本棚の間にある女神像の前に立った。そして、何が目的なのか知らないが、女神像に触れて何やら調べ始める。貴族院に在学していた頃にも同じようなことをしていたのを思い出した。もしかすると、まだ調べ終わっていないことがあったのだろうか。
「……無理か。さて、どうするべきか。できることならば、再びあの手段を使うことは控えたいのだが」
何が無理なのかわからないが、フェルディナンド様は仕方がなさそうにそう言って前髪を掻き上げた後、バッと振り返った。閲覧室の扉を開ける音が響いたのだ。
「このような日に誰だ?」
「返却を忘れた学生ではありませんか? いつだったか、フェルディナンド様の脅し文句が籠ったオルドナンツが各寮に届いてからはきちんと返却されるようになったようですから」
ユストクスがからかうように口元を歪めると、フェルディナンド様が「余計なことを言うな」と嫌な顔になる。
「学生と鉢合わせるのも面倒だ。去るまでここで待つか」
そう言っていると、足音が階段を上がってくる。複数人が一度に二階へ上がってくることは珍しい。私は振り向きざまに武器を向けられるように構えると、準備ができたことを伝えるために小さく足を鳴らす。フェルディナンド様が振り返った。
「ジギスヴァルト王子?」
私は即座に攻撃態勢を解き、振り返ったフェルディナンド様の後ろに控える。一体王族がこのような日に何の用があって図書館へ来ているのだろうか。怪訝さが表に出ないように気を付けながら、ジギスヴァルト王子の様子を窺う。
「ローゼマインは心配ですね。あまりにも長すぎます」
ローゼマインが心配なことには同意するが、ジギスヴァルト王子が心配する意味がわからない。個人的な親交はアナスタージウス王子と深かったはずだ。
「本当に……。ところで、ジギスヴァルト王子は何故こちらへ?」
「貴方と同じだと思います。ローゼマインが最後に魔力を供給した魔術具を見に来たのですよ。学生が多いうちは足を運べませんから」
……ローゼマインが最後に魔力供給した魔術具? 何だ、それは?
ただ臥せっているのではないことを匂わすような言葉だった。私の頭ではわからなかったが、フェルディナンド様には何か思い当たることがあったようだ。薄ら寒い笑顔になった。
……何をやらかした、ローゼマイン!?
二階にある魔術具について質問されたフェルディナンド様があちらこちらの魔術具を指差す。図書館には予想外に魔術具があることに驚きながら、私はジギスヴァルト王子と共にフェルディナンド様の説明を聞く。
「教えてくれて助かりました。では、私はこれで……」
ジギスヴァルト王子はフェルディナンド様に礼を述べると踵を返した。フェルディナンド様の作り笑いが消えて、代わりに眉間に皺が寄っていく。疲労と呆れと驚きがないまぜになった顔で「あの馬鹿者」と女神像を睨んだ。
「ローゼマインは本当にこちらの予定をめちゃくちゃにしてくれる……」
計画の見直しが必要ではないか、と怒りを見せながらフェルディナンド様はジギスヴァルト王子と時間差で図書館を出る。
「ソランジュ先生にお話を伺うのでは?」
「もう必要ない」
あれだけ心配されていたはずのフェルディナンド様がローゼマインの情報を必要ない、と言い切ったのだ。
……本当に何をしたのだ、ローゼマイン!?
ローゼマインが何をしたのか、我々に情報をくれたのはフェルディナンド様ではなく、ヒルシュール先生だった。ローゼマインは最初の奉納式の直後から行方不明になっているらしい。
「行方不明、ですか?」
「えぇ、混乱中のエーレンフェスト寮で仕入れた情報ですから間違いございません。突然姿を消されたそうです」
「突然? 側近達の前で?」
驚きの声を上げてしまった私とユストクスと違って、フェルディナンド様はまるで知っていたとでもいうように全く動揺を見せずに調合を続けている。
「ローゼマイン様がどちらにいらっしゃるのか、いつ戻られるのか全くわかりません。ただ、ローゼマイン様に名捧げをした側近が無事であること、その者がローゼマイン様の魔力を感じることから御無事ではいらっしゃるようですよ」
ヒルシュール先生の言葉を聞き流しながら無言で調合を続けているフェルディナンド様からは怒りの感情が読み取れた。静かに怒っている。おそらくローゼマインがフェルディナンド様の言いつけを破って余計なことをしたに違いない。
……さっさと戻れ、ローゼマイン。これ以上フェルディナンド様を困らせるな!
二日かけてローゼマインが作りたがっていた図書館の魔術具を作り上げ、フェルディナンド様は不機嫌そのものの顔で魔術具を睨みながら性能の確認をしながら改善点や調合における注意点を書き出していく。
……空気が重い。誰か何とかしろ!
私が心の中でそう叫んでいたら、「大変です、フェルディナンド様!」とゼルギウスが飛び込んできた。よほど急いできたのか、ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返しながら盗聴防止の魔術具を差し出す。オルドナンツで知らせることもできないような用件のようだ。
ユストクスはゼルギウスの呼吸が整うようにお茶を淹れ、我々は差し出された盗聴防止の魔術具を手に取った。
「何があった、ゼルギウス?」
すでにローゼマインに対する怒りなど全く感じさせないフェルディナンド様はゼルギウスを促した。ゼルギウスが呼吸を整えながら報告を始める。
「ランツェナーヴェの船がやってきたそうです。境界門を開けるためにディートリンデ様が急遽アーレンスバッハへお帰りになりました」
……は!? あの脳足りんは一体何をしているのだ!?
「本来、ランツェナーヴェの来訪は領主会議の後と決まっているではありませんか。何故、このような時期に来るのですか!?」
「追い返せば良いのに、何故境界門を開けるのだ!? 誰も止めなかったのか!?」
ユストクスと私の剣幕にゼルギウスが「私に言われても……」と肩を落とした。礎を染め終えてアウブ就任が確定したため、貴族達は処罰を恐れて諫言しなくなっている。感情的に行動する浅墓な馬鹿女に何を言っても無駄であるし、不用意に意見をすれば罷免されたり処罰を受けたりするのだから致し方ない部分はあるだろう。
「ここで何を言っても意味がない。急遽戻るぞ」
フェルディナンド様はそう言うと、盗聴防止の魔術具をゼルギウスに返した。ヒルシュール先生に魔術具と修正がいくつも入った調合用のレシピを渡す。
「ヒルシュール先生、急ぎ戻らなければならなくなりました。こちらはエーレンフェストにお願いします」
作ったばかりの魔術具をヒルシュール研究室に置いて、フェルディナンド様は踵を返した。我々もフェルディナンド様に続く。
……次から次へと問題ばかり起こしおって。あの浅慮な阿呆のことだけではないぞ。ローゼマイン、其方もだ!
まだ春とも言い切れぬ冬の終わり、我々が戻ってきた時にはすでにアーレンスバッハの港にランツェナーヴェの船が入ってきていた。例年と違う春の始まりだった。
かなり長くなりました。
コミック二巻の発売記念&鈴華様のお誕生日お祝いSSです。