ルッツ視点 トゥーリの心配
時期的には第522話辺り、冬の終わりの下町のお話です。
「ルッツ、旦那様が呼んでいるぞ。昼食を終えたら旦那様の部屋へ行ってくれ」
「すぐに行きます」
吹雪の日々が終わって雪が解け始めたため、また神殿と店を行き来する生活が始まった。少し前までは商人見習いになるためにプランタン商会へ勉強に来ていたカミルも今はもういない。
オレが冬の間にカミルの面倒を見たことで、プランタン商会の見習いになるという決意はかなり固まっているようだ。春になったら工房の見学に行けるかもしれない、と楽しみにしている。カミルの様子を見ていた旦那様は「これでギルベルタ商会や商業ギルドに取られることはなさそうだ」と胸を撫で下ろしていた。
オレは手早く昼食を終えると、すぐに旦那様の部屋に向かう。旦那様は昼食を終えた後、ゆっくりとした休憩もとらず、すぐに自室で仕事を始めているらしい。春になると、死ぬほど忙しくなるので、今から準備は念入りにしておかなければならないそうだ。
「旦那様、ルッツです。お呼びと伺いましたが……」
オレが部屋の扉をノックすると、マルクさんが扉を開けてくれた。中に入ると、旦那様は計算の結果を書類に書き込みながら用件を述べる。
「悪いが、午後はギルベルタ商会へ行ってくれ。コリンナとオットーがトゥーリから相談を受けたらしい。俺も一緒に行ければいいんだが、今は忙しいからな。お前の手に余るようなら、俺が行く」
「わかりました。話を聴いてきます」
そう言ってオレは外出準備を整えて店を出た。プランタン商会からギルベルタ商会まではそう遠くない。雪がまだまだ残っている街並みを足早に歩く。昨日より今日の方が暖かくなったような気もするけれど、まだまだ寒い。
……でも、もうじき春になるんだよな。
春になればグーテンベルクの恒例行事である春の大移動が始まる。今年はグーテンベルク達にも色々な変化があった。インク担当のハイディが二人目を妊娠してキルンベルガに行けないし、ザックは今年の星祭りに新郎として出るようで、代わりの弟子を出したいと言ってきた。グーテンベルクとしての腕前があるのか、マインはまだしも、他の貴族は代わりを出すことに納得してくれるのか、頭を悩ませることはいっぱいだ。
……そういえばマインはそろそろ神殿に戻って来るんだっけ?
ギルが「春を寿ぐ宴が終わったら戻って来る」と言っていた。まだギルが浮かれていないからマインは神殿に戻ってきていないはずだ。マインが戻って来るとギルの機嫌が良くなるし、孤児院に下げ渡される食事も品質が上がるようで灰色神官達も食事を心待ちにするのですぐにわかる。
……それにしても、トゥーリの相談って何だろうな?
ギルベルタ商会も昼休みなので、店の前には店番が一人立っているだけだ。オレは店番に声をかけようと近付いた。
「あぁ、レオンが今日の昼番だったのか。オレ、旦那様から話を聞いてくるように言われたんだけど……」
「久し振りだな、ルッツ。話は聞いている。外から上がってくれ」
昔からギルベルタ商会にいて、オレもよく指導してもらったレオンが今日の番人だった。オレは頷いて、外から上に向かうための階段を上がっていく。
……そういえば、ここの屋根裏に部屋を借りていたこともあったんだよな。
懐かしいが、もう上がってみたいとは思わない。今はプランタン商会の二階にダプラ見習いとして住んでいるので、正直なところ実家に帰った時に水汲みを手伝わされて六階まで上り下りするのもきついくらいなのだ。
コリンナ様の居住している二階の扉をノックし、下働きの女性に用件を告げる。分厚いコートを脱いで中に入ると、昼食を終えて寛いでいるギルベルタ商会のダプラ達の視線が集まってきた。自分が昔着ていた見習い服を懐かしく思い、プランタン商会の見習い服になっている自分に時の流れを感じる。
「こんにちは。旦那様に言われて来ました。何か相談事があるそうですが……」
「ルッツ、ベンノは?」
「仕事が忙しいので、用件を尋ねてくるように言われました」
「そうか……。ベンノの意見も聞きたかったけど、仕方がないな」
軽くそう言ってオットー様と残念そうな顔をしたトゥーリが立ち上がる。
「俺はそんなに心配する必要はないと思うんだけど、トゥーリが心配しているんだ。あっちの部屋で話をしようか。不用意に話せることじゃない」
不用意に話せることじゃない。それだけで用件がマインに関するものだとわかった。ローゼマイン様じゃなくて、下町のマインだった頃に関係することに違いない。旦那様への相談事なのに、他のダプラではなく、神殿へ向かわなければならないオレを指名したところで気付くべきだった。
別室に移動すると、オットー様が椅子を勧めてくれた。客であるオレが座ると、トゥーリがお茶を三人分持ってきて配っていく。コトリと置かれる茶器を持つ手はたおやかな女性のもので、いつの間にか自分の手の方が大きくなっていることに気が付いた。
孤児達を連れて森へ行くこともあるオレと違って、屋内で仕事をするトゥーリはほとんど日焼けしていない。オレもそうだけれど、家事は下働きに頼むので手もあまり荒れていないようだ。動けば、ふわりとリンシャンの香りがして、とても貧民の出身には見えなかった。
トゥーリと会うのは実家に戻る時が多いせいで、あまり気付かなかったけれど、立ち居振る舞いにもたどたどしいところはなくなり、ギルベルタ商会で働くのに全く違和感がなくなっている。成人したら城にも上がれるようになる、と聞いているが納得だ。
……オレも早く成人したいな。
年齢だけは追い越せないのが何となく悔しい。そう思いながらトゥーリを見ていると、トゥーリがちょっと困った顔になった。
「ねぇ、ルッツ。どうかした? じっと見られると気になるんだけど……」
「いや、別にどうもしない。トゥーリの所作が綺麗になってるな、と思っただけだ」
「そ、そう?」
少し恥ずかしそうにトゥーリがそう言いながらオレの隣に座る。オットー様が妙にニヤニヤしているのが目に入った。何か楽しいことでもあったのだろうか。
「それで、トゥーリの心配って何だ? マインのことだろう?」
「うん、そう。冬の間、家へ帰ってたでしょ? 晴れ着は母さんと一緒に作って、髪飾りは自分で作ることにしたんだけど、作ってる時に成人式の話が出たの。 家から出た方が良いのか、ギルベルタ商会から出た方が良いのかって話になって……」
トゥーリは夏の終わりに成人する。この冬は成人式のための晴れ着作りにエーファおばさんと精を出していたようだし、衣装に合わせた髪飾りのデザインも考えたと言っていた。今年はマインの王族特急依頼がなかったから、とても余裕があったらしい。
……トゥーリから「この冬はローゼマイン様の無茶ぶりがなくてちょっと物足りない気分だったよ」って聞いた時には驚いたけどな。
「その時に思ったの。春の終わりにラルフの成人式があるでしょ? 神殿長の姿を見たラルフに気付かれないかな? って。何だかすごく心配になってきて……」
マインはあまり外に出ない子供だったから、近所の人でも明確に覚えている人はすごく少ない。ただ、ラルフはトゥーリと仲が良かったし、マインが変わった料理のレシピを考えてはウチで兄貴達に作らせていたせいで付き合いは他に比べたら深い方だ。
「心配ない、って俺は言ったんだけどね」
オットー様が軽い口調でそう言いながらトゥーリを見た。トゥーリは少し口を噤んだ後、「でも……」と小さく反論する。
「バレると困るんですよね?」
「そりゃバレたらまずいだろうけどさ……。バレないと思うよ。普通は洗礼式前後の時に月に数回顔を合わせただけのヤツの顔なんて覚えてないって。君達だってそうじゃないか?」
オットー様は軽く肩を竦めた。洗礼式前後の知り合いの顔を全て覚えているか? と問われて、オレは考え込む。
……覚えてるな。
オレ達は行動範囲が狭すぎる。洗礼前の付き合いはご近所さんばかりで、小さい頃から大きくなるまで一緒に育つ。洗礼式を終えて、見習い仕事をするようになれば交流の範囲は広がるけれど、どれだけ広がっても街以上には広がらないことの方が多い。グーテンベルク達のように町から町へ渡り歩く方が特殊なのだ。
……そのせいでヨハンなんて未だにパトロンが増えないからな。
客がやって来る春から秋の長期間を留守にするので、どうしてもパトロンがつきにくい。今となってはグーテンベルクの称号が「ローゼマイン様の専属集団」という認識になっているくらいだ。マインは金払いがいいし、領主の養女の専属だから工房にとっては宣伝効果も高いけれど、人との縁を大事にしなければならない職人にとっては長期出張の連続は良い面ばかりでもない。
「わたしは覚えています。洗礼式の後で入った工房の人達の顔を覚えてるし、今会ってもわかりますよ」
トゥーリの言葉にハッとしてオレはグーテンベルクのことを頭から振り払って、トゥーリの意見に賛同する。下町では親族の紹介で仕事に就いて、その範囲で結婚するのだから、活動範囲や交流関係は似たような感じになる。成長したからといって忘れることはない。
「オットー様は旅商人だったから、幼い頃の浅い付き合いの人の顔を覚えていないだけだと思います。オレ達は行動範囲が狭いから、付き合いがあった人の顔は結構覚えています」
「……なるほどね。でもさ、自分が洗礼式の頃に亡くなったご近所さんの顔を今でもはっきりと覚えているかい?」
オットーさんに言われて、オレは近所で亡くなった人の顔を思い浮かべる。ややおぼろげな人もいるけれど、全く浮かばない人はいない。
「お年寄りを中心に子供だって何人も亡くなってるけど、顔が全く浮かばない人はいません」
「それって死んだ頃の姿や顔だよね? その人にとても似ている人がいて、記憶の姿よりも成長していたら、同一人物だと思うかい? 自分が成人の姿になっているのに相手に成長がなかった場合は、まさか生きていたのか? とは普通思わないだろう? よく似た人がいるな、程度で終わると思うよ」
マインは元々小さかったうえに、二年間も眠っていたので、まだ十歳にもなっていないような姿だ。死んだ頃の姿とは違うし、生きていたならば成人に近いはずである。生きていることを知っていて、ずっと姿を見ているオレ達と違って、ラルフがマインと神殿長を同一人物と思うのは難しいかもしれない。
「まして、あの頃のマインちゃんとローゼマイン様じゃあ、衣装や立ち居振る舞いが全く違う。街の噂で聞くような祝福を見て、同一人物だとは思わないんじゃないか?」
オレはマインが祝福を与える現場をハルデンツェルやグレッシェルで見たことがあるけれど、確かに別人だった。その後で得意そうに笑った瞬間に、幻想的で神秘的な小さい神殿長はただのマインになるのだけれど。
「領主の養女と貧民が同一人物だって騒げば不敬罪にもなりかねない。どうせなら、似てるからビックリすると思うけど騒ぐなって、最初から言っておいた方が良いくらいだ」
「ルッツ、ラルフに話してみてくれる?」
トゥーリは本当に心配そうにそう言った。マインのことになると過敏になるトゥーリの気持ちはわからないわけでもない。ただ、両親の間でトゥーリとの婚約が具体化してからというもの、実家に戻るたびに面倒臭く絡んでくるラルフのことを考えると、あまり気が進まない。
「わたし、ローゼマイン様が困る状況になるのは絶対に嫌なの」
真剣な顔でじっと見つめてくるトゥーリは本当に綺麗になった、と貴族や富豪の令嬢を見慣れたオレでも思う。成人式の衣装を作るためにトゥーリが冬籠りで実家に戻っていた時、たまたま会ったラルフが目を見開いて息を呑むのも当然かもしれない。
……何人か付き合った女の子もいるし、今だって恋人がいるくせに、まだラルフにとってトゥーリは特別なんだよな。
立場が変わって、頻繁に会って気軽に話をすることさえできなくなっても特別なのだ。マインがやっぱり自分にとっては特別であることを思うと、兄弟で似すぎていて嫌になる。そんなところは似なくてよかった。ついでに、「男なんてそんなもんだ」とジークがラルフに絡まれるオレを見て慰めてくれたけれど、ジークにも同じようなことがあったのかもしれない。
「次に帰った時にラルフと話してみる。ラルフの成人式はオレがキルンベルガに行ってる最中だからな。オレがいない時に問題が起こるのは嫌だし、何とかするさ」
「ありがとう、ルッツ。お願いね」
……マインが困らないように、と思えば仕方がない。面倒なラルフに付き合うか。
溜息混じりに立ち上がると、オットー様が何とも言えない顔でオレ達を見ていた。
「君達二人ってさ、本当に似てるね」
「え?」
「二人ともローゼマイン様のこと、好きすぎじゃない?」
確かにオレ達の話題はどうしてもマインのことに偏りがちになる。どんな髪飾りを注文されたとか、今はこんな本を印刷していて、こんな本がお気に入りらしいとか……。でも、この人にだけは「好きすぎ」という言葉を言われたくはない。
指摘されたオレはトゥーリと視線を交わす。トゥーリも異議ありという顔をしていて、二人で同じことを考えているのがわかる。オレが肩を竦めると、トゥーリはコクリと深く頷いた。二人でオットー様に向き直る。
「いくら何でもオットー様がコリンナ様を好きな程ではありませんよ」
オレとトゥーリの声がぴったり重なった。