夜少年

作者: 藤野一花

「あれ? 誰かと思ったら、シンちゃんかぁ」

 夏休みが一週間経った時だった。夜中、眠れなくて公園のブランコをこぎながら鼻歌を歌っていたら、同じマンションに住むお兄さんに声をかけられた。

「ヨル兄だぁ、久しぶりー。また徹夜?」

 名前、宮野由宇みやのゆう。年齢、二十八歳。職業、絵本作家。

 それから、

 あたしの想い人。

 彼は同じマンションだというのに、神出鬼没で月に数回会うか会わないかの幻の住人だ。しかも、会うのはほとんどが夜。だから、あたしは彼を〈ヨル兄〉と呼ぶ。

 彼はどこかのデザイナーが描いたみたいな派手で不可解な柄のTシャツに、濃い色の細いジーンズを履いていた。あたしの方に眼を向けながら、何とも眠そうに髪の毛をかき上げると、煙草を取り出した。

「シンちゃんはいつも元気だねぇ。お兄さんはもう徹夜続きで倒れそうだよぉ」

 あたしが心配そうな顔をすると、売れっ子は大変だよ、だなんて、軽く笑った。

 ヨル兄は、いつも、あたしの名字の「森」を音読みしてシンちゃんと呼ぶ。あたしはそう呼ばれるのがとても好きだ。

「でも、楽しそうな歌聞いたから頑張れそうかも」

 彼はあたしをからかうように笑って、隣りのブランコに腰を下ろした。

「えっ、聞いてたの?」

「あれだけ大きな声で歌ってれば、聞こえるって。何歌ってたん?」

 途端に、頬が熱くなるのが分かる。

「声聞こえてたのに、わかんないのっ、ヨル兄は」

 あたしはいじけた様に下を向いて言った。

「ごめんごめん。あれだろ、あれ。分かってるって」

 絶対分かってない!

 歌ってたのは、ヨル兄が大好きだって言ってた曲。かなり昔に流行った洋楽で、英語が苦手なあたしがはじめて自分から辞書片手に覚えた曲だった。あたしはよく真夜中の公園でヨル兄を思って口ずさんでたりする。

 突然──。

 口に刺激を感じた。

「シンちゃーん、の分ね」

 気付くとアイス棒を無理矢理くわえさせられていた。

「んー、ぬぁにこれぇ?」

「はいはい、黙って食べる!」

「なんかさ、今日コンビニ行ったらシンちゃんに会う気がしてさ」

 そう言って、屈託の無い笑顔を浮かべた。あたしはその笑顔に誘われて、思わず、好きだと言ってしまいそうになってしまった。

 ヨル兄の笑顔は純粋だ。少年みたいに。多分、だから惹かれる。

「なんか、シンちゃんには、いつも徹夜で死んでる時に会うよね。その度に何か一緒に食べさせてる気がしたり」

 ひとには黙ってたべなさいって言うくせに、ヨル兄は食べながら、一人喋ってる。

「シンちゃん乙女なのにね、夜中食べちゃったら太っちゃうよね。ごめんねぇ」

 だったら食べさせなきゃいいのに。……そんなこと言わないけど。

「んーん。おいしいもの食べられるし」

 あと、ヨル兄と喋れるし。

「そういえば、シンちゃんて、気付くと食べ物の話ばっかりだよね……」

 ヨル兄は半ば呆れたようにあたしを見た。

「そんなことないよー。たまたまだもんっ」

 あたしは真っ赤になって、必死に言い訳する。

「でも、この前七夕の時会った時も、駅前のケーキ屋さんに行ったって言ってなかったっけ?」

 そういえば。

 でも、あの日。あたしがケーキ屋さんに行ったのは、ヨル兄に誕生日ケーキを買うためだった。だって、あたし七夕はヨル兄が生まれた日だってちゃんと知ってたから。

 もうひとつ。

 七夕なら想いを伝えられそうな気がしたから。でも──、無理だった。

「ごめんね、シンちゃん」

 ヨル兄は少し寂しそうに、肩をすくめた。あたしが首を傾げていると、続けて言った。

「あの日、愚痴に付き合わせちゃってさ、」

 七夕は、ヨル兄の誕生日。

 それは揺るがない事実だけど、それと同時に、失恋したことも否定できない事実。

 あたしは黙って首を振った。

 実際、失恋したのは三年も前だけれど、ヨル兄は七夕になると今でも思い出して泣いてしまうらしい。

 その日もそうだった。

 公園のベンチで泣いていたヨル兄とあたしは遭遇してしまった。

「情けないよな。十歳も年下の子に慰めてもらうなんてさ。こんなだから振られるんだよな……」

 彼女は三年前、いつまでも絵本作家として芽が出ず、定職にもつかない自分に呆れたんだ、とヨル兄は笑った。

「そんなこと……。でも、いまのヨル兄見たらびっくりしちゃうかもね! こんなに頑張ってるもん」

 あたしは明るく言った。好きならどんな風だって待ってるはずだと思う。彼女はヨル兄を本当に好きだったんだろうか。

 ヨル兄はいまでも、こんなに、彼女を愛してるのに。

 本当はヘビースモーカーなのに、彼女が煙草が苦手だからって今でも度数の低いメンソールの煙草を吸ってたり。絵本作家だって、趣味で描いてた絵をたった一度彼女に好きだと言われたから。あたしの好きな流れるような髪の毛だって、本当は天然パーマなのに、彼女が好きだからって付き合ってた時にサラサラのストレートにしてた名残。

 それから、好きな曲も。ヨル兄が大好きな一曲はもともとは彼女が好きだったもの。

 あたしの大好きなヨル兄を形づくっているのは、彼女だ。

 あたしが彼女に勝てるわけがない。

「そうだなぁ。付き合ってたら、彼氏は売れっ子絵本作家だぞ。あいつもおしいことしたなー」

 ヨル兄はいまでも、彼女のことをあいつと呼ぶ。少しからかうように、そう言った。

「……なんてな。でも俺、振られて良かったと思ってる」

 ヨル兄の答えに、あたしは思わずアイスを手から落としてしまいそうになった。

「どうして……? 好きだったんでしょ?」

「まぁ、そうなんだけど」

 ヨル兄は言って、軽く笑った。なんだか乾いた笑いだ。

「彼女に振られたから、俺は甘えないで自分とちゃんと向き合うことが出来た。別れてからだ。死ぬ気で自分を出版社に売り込んだのは。いまこうして……好きな絵本を描けるのは、彼女のおかげだ」

 ああ、どこまでも、

 この人は──、

 彼女バカ。

 あたしは、なんて人を好きになっちゃったんだろう。

「なんで振られてそんな風に思えるの?」

 あたしは堪らなくなって、立ったままブランコをこぐヨル兄を見上げて、言った。彼は一瞬、「ん?」と言いながら頭を傾げたけれど、あたしに向かって笑顔を向けた。

 しばらくしてブランコから降りると、あたしの頭をポンポンと叩くと言った。

「シンちゃんも、恋すればわかるよ」

 あたしは唇を噛んだ。少し甘い血の味がした。

──恋、してるのに。

 ヨル兄は、目の前のあたしより三年も前にいなくなった彼女に夢中だ。

 なんだか、切ない。

 あたしの好きな甘ったるいバニラ味のアイスも塩辛く感じてしまう。

 突然、静かなこの時間に終わりを告げるメロディが流れた。

 あたしの携帯が、ヨル兄の好きな曲を鳴らしていた。開くとお姉ちゃんからのメールだった。

『また公園行ってるの?危ないんだから早く帰ってきなさいよ』

「お姉ちゃんからだ」

「お互い、お呼びがかかっちゃったし、帰ろっか」

 見ると、ヨル兄も携帯を手に持っていた。あたしが仕事? と聞くと黙って頷いた。「あー、これからまたお仕事くぁ…。起きてられっかなぁ」

 ヨル兄は言いながら、本当に眠そうに眼をこすった。

「あたしも一緒に徹夜付き合ってあげよっか」

「シンちゃんも?」ヨル兄はちょっとびっくりしたみたいな顔であたしを見た。けれど、笑って言った。「いいよいいよ。こんな夜中に付き合ってもらったし、子供はゆっくり寝なさい」

「はぁい」

 頑張ってね、あたしの口はそう発音していたけれど、子供と言われて釈然としなかった。

 ヨル兄にとって、あたしは一体どんな存在なんだろう。同じマンションの子? 公園でお喋りする女の子?

 あたしはヨル兄の一言一言が宝物。会う度、どんな発見があるだろう、ってどきどきしてる。でも──、ヨル兄は違うのかも知れない。あたしとの時間は、しゃぼん玉みたいにすぐ割れて無くなっちゃう簡単なものかもしれない。

 それでも、あたしは好きなことをやめられない。

「そういえば、」

 ヨル兄がマンションの前に来て、口を開いた。

「シンちゃんの携帯の着メロ、俺が好きな曲ー。さっき聞いて、びっくりした」

 電灯の下で歯を見せて嬉しそうに笑うヨル兄。あたしもつられて笑顔になる。

「俺、それさ、メロも好きだけど、歌詞が好きなんだ」

「歌詞?」

「うん。“今は泣いてもいいよ、君のその涙がどんなに純粋できれいなこと、私は知ってるから。いつか悲しみも涙で洗われる。その時は君の一番の笑顔を見せて──ちゃんと悲しいことの後には幸せがやってくるから。After the rain comes a rainbow.”って。落ち込んだ時聞いて……泣くんだ」

「歌聞いて、泣いちゃうんだぁヨル兄」

 あたしがからかう様な口調で言うと、ヨル兄は真っ赤になった。

「いいじゃんっ」

「つらい時はさ、泣いたっていいんだ。頑張ってる姿はちゃんと誰かが見てるから」ヨル兄は、笑顔で言った。「シンちゃんの頑張りだって、誰かが見てるよ」

 ああ、そうか、判った。

 あたしがこんなに、ヨル兄が好きなのは――。

 ヨル兄には自分の世界がちゃんと、あるから。好きなものを大切にしているから。それを守ろうと一生懸命だから。

 真っ直ぐ、前を見ているから――。

 あたしには、ヨル兄しか居ない。ヨル兄のことばかり。頑張れる何かすら無い。

 なんにもない空っぽだ。

 こんなあたしを好きになってくれる筈ないんだ。

 いくら昔の彼女を敵視したって、自分を変えなきゃ意味ないんだ。ヨル兄にちゃんと見てもらえないのに。

 あたし、ちゃんとヨル兄に見てもらいたい。



「じゃ、おやすみなさいね。ちゃんと寝るんだよ〜」

 ヨル兄は、危ないからとあたしの部屋の前まで送ってくれた。あたしが小さく頷くと、にっと歯を見せ笑いながら良い子良い子と頭を撫でた。

 まるで妹扱いだ。全然、嫌じゃない。だけど……。

 あたしは、そうして立ち去ってゆく後ろ姿のヨル兄を眺めていた。

 いつか、妹みたいじゃなく、見てもらいたい。

「ユウ兄、おやすみなさい。あたしも頑張るね!」

 あたしは片手を上げ、笑顔で言った。

 ヨル兄は、あたしがいつも呼んでいる"ヨル兄"じゃなく、本名を言ったので、少し驚いた顔をした。本名を呼んだのはあたしの決心。

 ヨル兄は直ぐに「頑張れ〜」とあたしに微笑んだ。


 いつか、夜の公園で――ひとりの少女が純粋すぎる笑みをたたえた夜少年の世界に触れ、素敵だと思えたように。

 あたしは――、

これから自分だけの素敵な世界を作ってゆくんだ。

 まだドアは開けたばかり。

 けれど、夢は叶えるためにあるのだから。

 あたしは、素敵なその一歩をようやく踏み出したんだ。


(夜少年/了)