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87.尾行と星空

 家路についたのは、すっかり夜になってからだった。

 乗合馬車は終わった時間なので、タクシーのように使える送り馬車で帰ることにする。繁華街の送り馬車の店は混んでいたので、隣の区画まで歩くことにした。

 時折、ふらつく酔っ払いや、肩を組んで歩く男達、華やかな装いの女達とすれ違いながら、道を進む。


 いつものように歩きながら話をしていたヴォルフが、不意にダリヤの近くに顔を寄せる。どきりとする間もなく、低く言葉が続いた。


「ダリヤ、そのまま聞いて。たぶん、尾けられてる」


 ヴォルフの手の中、盗聴防止の魔導具が、起動の光を放っている。それを視界の隅で確認し、前を向いたまま尋ねた。


「ええと、喝上げとかでしょうか?」

「わからない。たぶん二人だけだから問題ないと言いたいけど、危ないことは避けたい」


 こちらを向いて笑顔を作ったヴォルフだが、言い終えた瞬間、気配が変わった。

 ひょっとすると、距離が縮まってきたのかもしれない。


「面倒なことになる前に、逃げた方がいいかな」

「すみません、私、足が遅いです。衛兵所は……逆方向ですね」


 わずかだが人通りはある。ここで恐喝をされたとしても、誰かが衛兵所に知らせてくれるだろう。

 だが、伯爵家のヴォルフが狙いだった場合、逃げるのに自分が足手まといになってしまう。


「申し訳ないけど、君を運ぶ許可をくれる?」

「私、重いですよ! 身長もあるので」

「ちょうど角を曲がったから、ごめん」


 慌てて返事をしている最中に、視界がずれた。

 状況を把握する間もなく、ヴォルフの背後が流線のようにぼやける。

 次の瞬間、星空が視界を埋めつくしていた。


「え?」


 ヴォルフに抱き上げられ、二階の屋根の上だと気がつくまで、数秒あった。


「軽いじゃないか」


 聞き慣れた声が、思わぬ近さで耳元から聞こえる。

 慌てて首をひねれば、ひどく楽しげな男の笑顔があった。


 何かを言おうとした自分を抱き上げたまま、ヴォルフは少し姿勢を低くする。


「動かないで、舌を噛むと悪い。このまま移動して、人のいないところで下りるから」


 口を閉じ、こくこくとうなずく。

 この高さで落ちるのも怖いし、落ち着かないので、とりあえず上着を少しつかませてもらった。


 ヴォルフは人のいないところを確認しつつ、屋根と屋根を軽々と跳躍する。

 その後も、辺りを確かめながら移動し、屋根からベランダの柵、道へと飛び下りた。

 落下の浮遊感と衝撃は多少あったが、ようやく視界が低くなったことに、ダリヤはほっとする。


「いきなりでごめん。気持ち悪くない?」

「ええ、驚きましたけど、大丈夫です。ヴォルフこそ平気ですか? 肩とか腰とか痛めてませんか?」

「……平気」


 そっとダリヤを地面に下ろすと、下りてきた屋根を見上げる。


「もう気配はないけど、しばらく注意していこう。喧嘩ならともかく、距離が近いところで、魔法や投げナイフとかやられると危ないから」

「喧嘩も危ないですよ」

「君を守るのに、喧嘩で俺が負けると思う?」

「ヴォルフが負けるとは思いません」


 ダリヤは即答した。

 強い身体強化魔法と天狼スコルの腕輪ありのヴォルフ。喧嘩をして勝てる者がいるとはまず思えない。

 それでも喧嘩自体はやはり危ないものだ。うまく手加減できない場合や、他に人が巻き込まれる可能性も考えてもらいたい。


 だが、即答した自分を、目の前の青年は目を丸くして見ていた。


「いや、その……つい言ってしまったけど、魔導師の長距離攻撃魔法ありの喧嘩だと絶対勝てない」

「いえ、それはもう喧嘩とは違うんじゃないかと……」


 魔導師が長距離攻撃魔法を使用するのは、そもそも喧嘩と呼べるのか。

 それは通常、大演習や戦争、魔物の広域殲滅にしか使われないものだ。

 ヴォルフが長距離攻撃魔法を使用されるのは、本物の魔王にでもならなければ、ありえない。


 ぐるぐると考えていると、ヴォルフが浅く息を吐いた。


「最近、わざと両足に動きづらい怪我をさせて、持ち物を盗って逃げるっていう事件もあったから。被害者が怪我をしていれば、先に医者や神官を呼ぼうとするし、犯人が追われにくくなるっていう目的で」

「ひどいですね……」


 なんとも卑劣な方法があったものだ。

 王都の治安はそれなりにいいはずだが、完全に犯罪をなくすのは難しい。繁華街では特に注意が必要かもしれない。


「今回は、俺が原因の可能性もある。何をしているのか把握したいという人がいるらしくて、つけ回されたことが前にあったから。最近はなかったんだけど、もしかしたら、またそれかもしれない」

「いえ、お金目当てが一番多いと思いますし、気にしないでください。遅れましたが、助けて頂いてありがとうございました」

天狼スコルの腕輪のおかげだから、結局、ダリヤによる解決のような気もするんだけどね」


 ヴォルフは苦笑しながら、そっと左手を差し出してきた。


「失礼なのはわかっているけれど、まだ心配だから。送り馬車の店まで、手をつないでいてもらえないだろうか?」

「ええと、お願いします」


 二人で手をつなぐと、人の少ない路地を少し足早に歩いた。


 きっと空は満天の星なのだろうが、見上げる余裕がない。

 さきほど屋根の上で見た星空は、とてもきれいだった。

 いつか、ヴォルフと塔の屋上で、星空を眺められれば楽しいかもしれない――そこまで考えて、ダリヤははっとする。

 危険から遠ざかろうと懸命な彼に対し、自分は何を夢見心地になっているのか。

 今はただ、気を引き締めて歩かなければいけない。


 そのまま道を数本過ぎれば、何事もなく、送り馬車のある通りにたどり着くことができた。


「ダリヤ、明日は出かける?」

「いえ、塔で一日作業の予定です」

「念の為、明日の午前、家の方から安全確認の使いを出してもいいだろうか? 俺が休みだったらよかったんだけど、騎士団で合同練習が入っているから」

「ええ、お願いします」


 ここでヴォルフに心配しすぎだと言っても、おそらく引かない気がする。今回は、素直に受けることにした。

 ずっと警戒しているせいだろう、その気配がひどくささくれた感じだ。


「もし、買い物や入り用の物があったら使いの方に遠慮なく伝えてほしい。明後日は馬車を塔前に迎えにきてもらう方がいいかな。商会のこともあるから、念の為」

「わかりました。しばらく、馬車を予約して出入りするようにしますね」


 素直にうなずいた自分に、ヴォルフは整った笑顔を向けた。



 ・・・・・・・



 ヴォルフは、歩調をダリヤの早足に合わせながら、身体強化をかけて、辺りの音を確認していた。

 聞き分けるのに耳が痛むが、馬車に乗るまでは続けるつもりだ。


 店から出て、話をしながら歩いていたとき、後方に何かひっかかるものを感じた。

 殺気とは違うが、自分とダリヤに向いた気配かもしれない――そう思えた瞬間、身体強化をかけていた。

 ヴォルフは身体強化で『聴覚』も多少上げられる。振り返らないまま、歩く速度を何度か変えながら、足音を確認した。


 尾行していると思える足音は二つ。

 二人が話をまったくしていなかったことを考えれば、恐喝や女性であるダリヤ目的の可能性は低い。

 途中、重めの金属の音があり、短剣を持っているか、袖の下に鉄板を仕込んでいるかだと思えた。


 ダリヤには申し訳なかったが、安全を考え、角を曲がったときに、抱き上げて屋根へ飛んだ。

 かなり怒られるのを覚悟していたのだが、緊急時なので流してもらえたらしい。正直、ほっとした。


 幸い、もう追われてはいないようだが、相手がどんな理由で尾行をしていたのかが気がかりだ。

 最も考えられるのが、自分の女性関係による逆恨みだというのが、まったくもって気に入らない。

 ダリヤに怖い思いをさせているというのに、すぐ解決する力のない自分が、もっと気に入らない。


 ただひとつの救いは、自分の手の中、柔らかなあたたかさだけだった。

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