<< 前へ次へ >>  更新
37/373

36.空の青さが目にしみる

(下段に暗い過去回想があります)

 緑の塔を出て、朝方に王城に戻ったが、眼鏡の鑑定と登録で少しばかり時間がかかった。


 門にいる鑑定士からは、認識阻害の眼鏡の開発は少し前から行われており、それなりに成果も出ていると言われた。眼鏡をどこで買ったかも尋ねられなかった。


 ただ、不思議なことに、眼鏡の『雰囲気を変える効果』は、ヴォルフにしか効かなかった。

 確認のために鑑定士がつけても、ただ目の色が色ガラスの分でわずかに変わるだけで、顔の感じは変わらない。


 しまいには「そもそも元の目の出来が違いすぎるのでは」という話になった。

 その横にいた兵士にいたっては「きっと美男子専用なんですよ」と笑われて終わった。


 その後は兵舎の自室で休もうとしたが、少し眠っただけですぐ目が覚めてしまった。浴場でざっと水を浴びると、身繕いをしてまた、街に出る。


 王城を出て、人の多い中央区に向かった。ちょうど市場がにぎわう時間だ。

 山のように野菜や穀物が並んだ店先、台に氷をおき、その上に山と積まれた肉や魚、一抱えもある花、暴力的なほど匂い立つ香辛料。

 それらが長く並ぶ通りは、早朝だというのに息切れしそうなほどに人が多い。

 売り子の声、値切る声、挨拶や雑談など、まるで音の洪水だった。


 ヴォルフは眼鏡を一度だけ押さえると、足早にその中に紛れ込んだ。

 人混みの中、いろいろな人とすれ違うが、誰もヴォルフに目をとめない。


 たまに、自分の長身や色の入ったレンズの眼鏡が珍しいのか、一瞬だけ視線がむいても、すぐ興味がうつって他へ行く。自分にからむ熱のある視線も、重い視線も、ぶしつけな視線もなかった。


 ただの街並み、ただの人混み。

 その中に紛れることができるのは、ひどく新鮮だった。

 それは、当たり前に目の前にあって、自分には当たり前でなかったものだ。

 自分がようやく王都の一部になれたことを感じつつ、ただ歩いた。


 歩き続けていると、昨日来た中央公園まで来てしまった。

 通りで屋台の準備をする人影はちらほらあるが、公園内には見当たらない。

 ヴォルフは公園内の緑と花の香りを感じながら、昨日、ダリヤと座ったベンチへむかった。


 ベンチによりかかり、ふと、空を見上げた。

 空は雲ひとつなく、どこまでも青い。

 空に、眼鏡のレンズのわずかな青みが重なって、より青い。

 その青さがあまりにも目にしみて、ヴォルフは一粒の涙をこぼした。



 ・・・・・・・



 子供の頃から、魔法以外のたいていのことは苦もなくできた。

 勉強も剣も礼儀作法も、スカルファロット伯爵家の四男として期待されるぐらいをこなすのに、努力はいらなかった。


 爵位なしの第三夫人の子として、上の兄達と比べて目立たないよう、その程度を基準に日々を過ごしていた。


 母は伯爵家の第三夫人として何不自由ない暮らしをしていたが、時々、ガラス玉のような目で外を見ていた。


 元々、母は公爵夫人の護衛だったが、父に強く願われ、母の実家が結婚を決めたという。周囲からはたいへんな玉の輿と言われたそうだ。母自身は騎士のままでいたかったらしい。


 母は水の魔力に優れ、氷剣アイスソードを出して戦うことさえできた。

 そして、艶やかな黒髪と雪の如き肌を持つ、美しい人だった。


 母との子供ならば、さらに魔力の高い、水魔法の得意な子供が生まれるのではないか、あるいは、それなりの魔力でも、容姿の整った娘が生まれれば、高位貴族へ嫁に出せるのではないか。

 父が期待したのはそういったことだったろう。


 しかし、生まれた自分は、貴族向けの五大魔法の才能が皆無のハズレ。しかも目立つ容姿をもった娘ではなく、息子だった。

 父は自分には興味がわかなかったらしい。親しく話した記憶がまるでない。


『身体強化が使えるのだから、ヴォルフレードは騎士になればいい』


 母にそう言われ、剣を学んだ。

 幼い自分に、母の指導はなかなかに厳しかったけれど、どんなに剣を振っても、魔導師を目指す兄達を超えることはない。何も考えずに没頭することができた。


 母は自分を励ますためだったのか、よく騎士が活躍する本を読んでくれた。

 そこにあった魔剣に、自分は強く憧れた。

 魔法が使えなくても、魔剣なら振るえる。

 そうしたら魔法剣士の母を超えて強くなれるのではないか、何者にも負けない、強い騎士になれるのではないか、そんなことを夢見た。



 夢が砕けるのは案外早かった。


 初等学院の頃、父の第一夫人とその子供である一番上の兄、第三夫人である母と自分という組み合わせで領地へ出かけた。馬車の数も、護衛の数も十分にそろった、安全な道行きのはずだった。


 だが、王都から近い場で、多数の盗賊に襲われた。

 母は自分を馬車の座席下に隠し、飛び出していった。


 男達の叫び、火魔法らしい爆発音、剣のぶつかりあう音――少しだけ静かになったとき、窓からのぞくと、第一夫人の乗った馬車の前、母が肩を刺されていた。


 馬車の壁面には護身用の長剣があった。カチカチと鳴る歯を噛みしめ、震える手でそれを持って飛び出すと、母の体はすでに地面の上で二つとなっていた。


 叫んだのか、怒ったのか、泣いたのか、その後に喉から吐かれた音は、耳に覚えがない。


 そこからの記憶は穴あきだ。

 男達の間をぬうように斬っていたら、視界が真っ赤に染まり、そして、真っ暗になった。


 次に気がつけば、神殿の施術用ベッドの上だった。自分の両腕と右足が妙にきれいだったのを覚えている。


 横にいる父から、母の死と、第一夫人と兄の無事を聞かされた。その後、『よく戦った』と言われ、痛いほど抱きしめられた。

 それが今までで記憶に残る、ただ一度の父の抱擁だ。


 もっと自分が早く馬車を出ていれば、母は死ななかっただろうか。

 もっと自分が強ければ、母は死ななかっただろうか。

 魔法の使えない自分に、魔剣があれば、母を救えただろうか。


 神殿で付き添いの侍女とただ泣いてすごして数日後、屋敷に戻ったときには、いろいろと終わっていた。


 第二夫人の実父が病死し、二番目の兄は、遠乗りに出かけ、落馬して死んでいた。

 第二夫人は、亡くなった実父と息子の弔いのため、修道院に入ったと聞かされた。


 子供の自分でも、どういうことかはよくわかった。

 剣よりも人の方がはるかに怖い。そして、父も怖い。ただそれだけを理解した。


 不安定なままの自分が育っていくにつれて、周囲の女達、一部の男達が変わっていった。熱い視線も、まとわりつく声も、あからさまな誘いも、どれもうっとうしいばかりだった。


 その次に変わったのは男達だった。

 嫉妬と中傷が増え、ようやく友達ができても、女性に仲を裂かれる形になり、周囲の誤解は増した。

 新しい友人を探すことも、誤解をとくことも面倒になり、ただ剣の鍛錬に没頭した。


 騎士団に入るとき、人とのつながりが少ないと聞いて、魔物討伐部隊を希望した。

 赤鎧スカーレットアーマーを希望したのは、その役が己にちょうどいいからだ。自分がいなくなったところで困る者は誰もいない。


 隊の友人と適当に付き合い、それなりにうまい酒と食事を楽しみ、鍛錬に没頭する。

 いずれは魔物と戦って死ぬか、騎士を辞めるまでこうしていくのだと思っていた。


 それでも、呪いのように、祈りのように夢見ることがあった。


 自分の魔剣が欲しい。

 魔剣があれば、魔法剣士であった母と戦っても勝てるかもしれない。

 いまだに一度も救えたことはない、夢で見るあの日の母を救えるかもしれない。


 それこそが叶わぬ夢だと、わかってはいたが。



  ・・・・・・・



 一度眼鏡を外し、またかけ直す。

 この眼鏡を見る度に思い返すのは、一人の魔導具師の姿だ。


 ワイバーンと共に落ち、森を抜けたあの日、ダリと名乗る青年に助けられた。

 話しながら、あまりに楽しくて、ただもう一度会いたいと切に願った。

 願いは叶い、再会後に魔剣と魔導具について話し、一緒に食事をし、飲んだ。なにもかもが楽しかった。


 そのダリこと、ダリヤ・ロセッティは、魔導具師だった。


 レンズに魔法付与をしているとき、彼女の額からは滝のような汗が流れていた。目に入りそうなそれを袖で無造作にぬぐい、共に化粧がはがれても、視線はまったくぶれない。

 その顔に、自分の視線は完全に奪われた。

 あれほどに真摯で美しい女の顔を見たのは、生まれて初めてだった。


 その後で、自分に手渡されたこの眼鏡。

 彼女は妖精結晶を使ったこの眼鏡で、自分に普通の景色を教えてくれた。

 そして、王都に溶け込ませてくれた。

 たった三度会っただけで、自分の世界を変えてくれた。


 ただ、ダリヤの友情がほしい。

 ただ、その隣で共に笑って話していたい。

 魔導具師としての彼女を応援したい、望むものがあれば与えたい。

 彼女を害するものがあれば、自分がそこから守りたい。


 だが、これは恋ではない。ダリヤとは恋愛関係になりたくない。

 もしそうなってしまえば、いつかは別れることになる。自分が彼女を傷つけることすらあるかもしれない。


 ダリヤも自分に恋愛関係を求めていない。

 自分に一度として熱のこもった視線を向けぬ魔導具師は、ただ、友となった自分を守ろうとしてくれただけ。


 だから自分は、一人の友として、彼女の隣にいよう。

 よこしまな思いをいだかず、ただ友愛と尊敬を彼女に持って。


 ヴォルフはもう一度、空を見上げた。

 レンズ越しの空はとても青い。間もなく輝く太陽が過ぎていくだろう。


 そして、青年は気づかない。

 レンズの下の黄金に、とうに恋慕の輝きがあることを。

<< 前へ次へ >>目次  更新