22.茶番からの脱出
「……ダリヤ?」
残念ながら覚えのある声がした。
気分のいい自分の名を呼び捨てたのは、会いたくない男ランキング第一位だった。
目を見開き、呆れたようにこちらを見ている。
ダリヤは気がつかなかったことにして、ついと視線をずらした。
「ダリヤさん!」
声と共に駆け寄ってきたのは、トビアスではなく、まさに小動物のような少女だ。
明るい蜂蜜色のふわりとした髪、少し下がり気味のやわらかな茶色の目。
背は低めで、細身の肢体がより庇護欲をかきたてそうである。
化粧をほどこされた、少しあどけなさの残る顔は、辺りを歩く男達の視線をひく程度にはかわいい。
「ごめんなさい! あなたを傷つけてしまって。私、ずっと謝りたくて……」
「エミリヤが悪いわけじゃない! 俺が悪いんだ」
周囲の視線が一斉にこちらにむく。ダリヤの気分的不快指数が一気に上がった。
なぜ、知らぬふりで素通りしない?
なぜ、わざわざここでそれをやる?
目をうるませて謝る少女に、気持ちがまったく動かない。興味もわかない。
「私のせいでダリヤさんに婚約破棄をさせてしまって、本当にごめんなさい!」
「終わったことですから」
謝罪はしているが、これはむしろ言葉に出して周囲に説明と宣伝を行い、傷口をえぐってくるというスタイルではなかろうか。真面目にそう思える。
「本当にごめんなさい……どうか、許して……」
「ダリヤ、エミリヤを責めないでやってくれ」
ダリヤが答えた『終わったことですから』の一文10文字。
これのどこに責める部分があったのかを、ぜひ教えてほしい。
なんなら高等学院の頃の論文専用用紙に書いて、詳しく解説してもらってもかまわない。
自分がこの二人に時間をとられる意味も必要性もなさそうだが、ヴォルフに迷惑がかかるのは困る。げんなりしながらそう考えたとき、彼が戻ってきたのがわかった。
トビアスとエミリヤだけではなく、周囲の視線が、ダリヤの後ろから歩いてくる彼にむかって、すうっとずれる。
視線をひく程度ではなく、視線も声も奪っていくほどの美形なのだから仕方がない。
その持ち主が、背後から、ダリヤだけに聞こえるささやきで問いかけた。
「未練は?」
「全然」
短く、最小限の声で返した。
「……ダリヤ嬢。婚約破棄をなさっているなら、今はお一人ということですね」
ヴォルフはダリヤの真横に立ち、急に口調を変えた。
売られている絵画を思わせる微笑を浮かべると、一気に雰囲気が胡散臭い芝居の王子になった。
「幸運の女神に心より感謝を。ダリヤ嬢には以前からお食事をご一緒にとお願いしていたのですが、一度も受けて頂けなくて残念に思っておりました。今日、お一人になったときに再会できたことを、心よりうれしく思います」
独特の言い回し、砂糖菓子のその上、たっぷりと蜂蜜をかけたような甘すぎる声。
ダリヤの顔は引きつり、背筋は思いきり冷える。
「ダリヤ、そっちは?」
トビアスが眉をよせて尋ねてきた。
もう、名を呼び捨てにされる覚えも、同席者を聞かれる筋合いもないだろうと思ったが、自分が答える前にヴォルフが答えた。
「王城騎士団所属のヴォルフレード・スカルファロットと申します。そちらは?」
「っ」
ダリヤの方が驚きに声を飲み込んだ。
何が下位貴族だ。
スカルファロットと言えば、王都では水の魔石供給から浄水までを担う、水魔法に強いことで有名な伯爵家ではないか。
トビアスもエミリヤも、表情が完全に固まった。
「た、大変失礼しました! トビアス・オルランドと申します。オルランド商会の者です」
「わ、私は、エミリヤ・タリーニと申します。オルランド商会の受付です」
「そうですか」
ヴォルフは一言返しただけで、あとは二人に言葉をかけず、視界にも入れなかった。
ただ優雅にダリヤに歩みよると、その手のひらを差し出す。
「ダリヤ嬢。空気も変えたいですし、おすすめのお店にご一緒しては頂けないでしょうか? お話ししたいことがたくさんあるのです」
食事は三分の二ぐらいしか終わっていないが、せっかくの茶番脱出のお誘いである。
完璧な動作で差し出された手に、ダリヤは迷いなく手を重ねた。
「ええ、喜んで」
ヴォルフの手は、あたたかだった。
・・・・・・・
「先ほどはありがとうございました」
店を出て少しだけ歩いたところで、ダリヤはヴォルフに礼を言った。
「いや、礼はいらない。あの場を切り上げたかっただけだから。ただ、さっきの俺の対応で、君の仕事や生活で不利になることはある? もしあれば」
「いえ、まったくありません。ただ、あまりにすらすら言われたので、驚きました」
「でも、嘘は言ってないよ。城門で飲みに誘ったけど流されたし。馬車が来たとき『また会いたい』とも言ったんだけど」
後ろから馬車が来たとき、聞き取れなかった青年の言葉は『また会いたい』だったらしい。
同じ事を考えていたダリヤとしては、それが少しうれしかった。
「すみません、雨で聞こえなかったんです。あと、男のふりで騙すことになったのが申し訳なかったので……」
「その罪悪感は全部なしでお願いしたい。あのとき君が女性だとわかっていたら、俺は水浴びをせず、よけい目を痛めてただろうし、食事を味わうこともできなかったろうし、白ワインも飲めなかったわけだから」
ヴォルフは立ち止まり、少し眉をよせてダリヤを見た。
「ただ、その……一人でいたい時に、俺が無理に付き合わせてしまっただろうか?」
「いえ、ただの食事でしたから。婚約破棄と言っても、父親同士が決めたもので、結婚前に、彼が『真実の愛』をみつけたそうなので」
「『真実の愛』……それ、俺にはまったく理解できそうにない」
「私もです」
ヴォルフの呆れを隠さない声に、一度だけうなずく。
世の中、こういった形で主張される『真実の愛』というものは、おおむね不評らしい。
「道理で、未練も全然ないわけだ」
「ええ、まったく」
「婚姻届を出さないうちでよかったと思うよ」
「はい、すでに心から思っています」
ダリヤはうなずきつつ、本心から笑って言えた。
「正直、さっきのでおいしい酒が邪魔された気分なんだ。まだ話したりないし、飲み足りないから、もしよかったら、もう一軒付き合ってくれないだろうか?」
親しくもない男性、しかも貴族。
今までのダリヤなら、婚約をしていなくとも、おそらく断っていただろう。
わずかにうつむきそうになったとき、もっと話したいという気持ちが背中を蹴り上げた。
顔をしっかりあげ、ヴォルフに答える。
「ええ、私も食べ足りなかったところです」
二人は再度歩み始め、思い出したように、つないでいた手を離した。