ジェイシー
名無し探偵第二弾です。
今回の依頼は至ってまともだと思っていた。
要は人捜しだ。
といっても、失踪者や家出人ではない。分かっているのは名前だけ。
わたしは私立探偵だ。前職は警察官だった。しかし警察という体制に見限りをつけ、脱サラして憧れだった今の職業に就いた。と、見栄を張りたいところだが、何の事はない。短気を起こして上司と揉め、自分から辞職届けを叩き付けてきたのだ。
しかし良い事がひとつだけある。
元警官というと、依頼人は理由もなしに安心するのだ。
最初の頃は、飯のタネに、それこそ探偵とはいえない何でも屋のような仕事もしてきた。今でもその名残のように時々おかしな依頼が舞い込んでくるのだが、それはまた別の話だ。
さて、まともな、今回の依頼の内容。
それは、ひとりの老人の遺言から始まった。
「先日亡くなった父は、家の権利書などをジェイシーという人物に預けたらしいのです」
マット・キャンベル氏、亡くなったデイリー・キャンベル氏の息子が言った。
正確には、デイリー氏が病床に臥せって、もういくばくもないというとき、息子夫婦と親戚連中が氏を取り囲んで問いただしたようだ。デイリー氏は生前、家族の誰も与り知らぬうちに、こっそりと財産の証明書をどこかに持ちやった。それに家族が気付いたときには、デイリー氏は重い病気を患い臨終だったのだ。
老人は迫る息子夫婦に、「それらはジェイシーが持っている」、そう答え亡くなったらしい。
家は豪邸。敷地も広い。
息子夫婦も親戚も、固執する理由は分かる。
しかし、彼らはジェイシーという名に聞き覚えがなかった。デイリー氏の交友関係を思い返しても、誰もその名を思い出せない。最初のうちは手当たり次第に故デイリー氏の知り合いにそれとなくあたったらしいが誰も心当たりがなかったらしく、行き詰った彼らは、探偵に託した。
そういうわけで、わたしは家族公認のもと、故デイリー氏の私室へ入れてもらっていた。ジェイシーなる人物を割り出すため、生前の彼の交友関係や行動範囲を知りたいと思ったからだ。
部屋に入るなり、大きな十字架に磔にされたキリストの壁掛けに睨みつけられた。氏のベッドのすぐ傍に掛かっている。聞けば故人はとても熱心なカトリックだったようだ。彼の家族にはその片鱗も見られないが。
「小さい頃は、毎週日曜日にミサに行かされました。大学に入って家を出るまで、食事の時も、寝る前も、長いお祈りを強要されましてね。参りましたよ」
マット氏は苦々しげに鼻を鳴らした。確かに、わたしもキリストに見下ろされながら寝起きするのは遠慮したい。
故人は恰幅の良い、白い髭に白い髪の、病気に罹る前はいたって健康な老人だったそうだ。それなりに几帳面でもあったらしく、書斎は今でも書類や手紙が分かり易く分類され定位置に並べられている。
わたしはざっと手紙の宛名や名刺入れを見たが、ジェイシーという名は見当たらなかった。家族が総出で考えて、誰もその名を思い浮かばなかったのも、故人との関係が希薄だったからという理由だけではなさそうだ。
マット氏に広げてもらった故人の財布の中身、カード類を拝見していると、ゴルフクラブの会員券、サウナの回数券が出てきた。折角なので、依頼人が納得するまでとことん調べてみる事にする。
先ずは彼の会社の人間だ。
その会社は高さを争うビル群のうちひとつで、デイリー氏は重役だった。最も身近な生活圏であり、最も可能性が高いと思っていた会社の人間関係だが、重役の中にも上層部の中にも、ジェイシーという名は見当たらない。平社員に二人ジェシーがいたが、どこをどう辿っても彼らはデイリー氏とは繋がらなかった。
まさか愛称でジェシーとなれば、調査範囲は女性にも及ぶ。直視するには精神衛生上よろしくないこの現実にはとりあえず目をつむることにした。
故人の趣味のゴルフクラブも、行きつけのサウナの常連にも、ついにジェイシーという姓名は見つからなかった。ゴルフクラブでは、故人と親しかったジャック・カーペンターという、愛想の良い老人と知り合うも、その名は聞いた事がないとの事だった。彼からの情報で、故人がゴルフクラブの後、良く立ち寄る高級ホテルのバーにも足を運んで聞き込みをしたが、結果は惨敗だ。
とりあえず、酷使した足を揉みながらこの数日の結果をキャンベル夫妻に連絡した。夫妻は落胆したようだった。
氏が言うには、故デイリー氏はゴルフ以外にこれといった趣味もなく、道楽に走るような性格でもなかったらしい。彼らはそれ以上の事を知らない。
捜査という船は見事に暗礁に乗り上げた。
こうなったらと、デイリー氏の大学時代、果ては高校時代の友人、教授、部活の仲間まで、氏の家族の協力を得、手を尽くして調べ上げた。それにも拘らず、ジェイシーという名は出てこない。連敗に継ぐ連敗。わたしは眼にも神経にも悪そうな、びっしり字で埋まった名簿の山を横目に頭を抱えていた。
考え得る可能性は四つだ。
一、デイリー氏の勘違い、もしくは言い間違い。
二、息子夫婦の勘違い、もしくは聞き間違い。
三、わたしの捜査の見落とし。
四、実は遺産にジェイシーなる人物は関係してない。
いや、五つ目があった。
五、何かの罠。或いは悪戯。
二度目の中間報告をしたときも、息子夫婦は進展なしの言葉に心底がっかりしたようだった。というより、電話の向こうで本当にちゃんと調べているのかしら、とマット氏の妻の悪態が聞こえてきた。息子は彼女に、黙ってろ、見つからなければそれはそれで報酬を値切れる、というような事を言っていた。
まる聞こえだ。せめてしっかり通話口を塞いでいてくれ。
それにしても、手掛かりは雲の彼方。いまさら故人の墓を掘り起こして、襟首を掴み問い詰めるわけにもいかない。キャンベル夫妻はこの先ずっと、敬虔な老人が遺した禁欲の意味を問われ続けなければいけないのだろうか。
まあ、あの二人ならそれも良いか。
しかしわたしは、ジェイシーという名は力の限り調べ上げたと言っていいと思う。
それでは、違う角度から攻めてみようではないか。
ジェイシー。
J・C。頭文字。
何という事だ。
そうだとすれば一人、デイリー氏に近しい友人で、この頭文字を持った人間がいる。
今頃この可能性を思いついた自分の頭の回転の悪さを呪いながら、わたしは上着を羽織った。
ゴルフクラブの気の良い老人、ジャック・カーペンター。故人と親しく、可能性からいえばかなり高いのではなかろうか。
わたしは慌てて引き返し、今まで集めた名簿にあるJ・Cなるイニシャルを持つ人物を片端からメモしておいた。可能性の高い順に虱潰しに当たってやろうという考えからだ。
先ずはジャック・カーペンター氏だ。
しかしすんなりと行くだろうか? もしも仮にあの老人が権利書をデイリー氏から預かっていたのだとするならば、最初の接触のとき、わたしに対してものの見事にそらとぼけて見せたという事になるのだ。
「やあ、探偵さん、捜し人はまだ見つからないのかね」
小柄な老人はわたしを見ると、にっこりと微笑んで歓迎の意を示してくれた。
最初にカーペンター氏と話したとき、彼とまた会うにはどうしたら良いかと尋ねておいてよかった。氏は快く、家でなければ大抵はゴルフクラブかホテルのバーにいると教えてくれていた。
「デイリーがいないと、ゴルフもなんだかやる気がしなくてね。いつも一緒にコースを回っていたものだから」
この日、カーペンター氏はホテルのバーでひとり、カウンターに座って酒を飲んでいた。以前に会ったときもそうだったが、身なりも物腰も品の良い、いかにも高級なホテルのバーが似合う老人だ。わたしに手招きして隣の席を勧めてくれた。
「そうか、見つからないか。きみも大変だね」
老人はかなり度の高いアルコールをちびちびとすすっていた。しかし大して酔っている訳ではなさそうだ。
「若い者に老人の相手は詰まらないだろうが、急ぎでなければ付き合ってくれるかね」
わたしはビールを注文して、老人の隣に腰掛けた。カーペンター氏は、わたしのビールがくると自分のグラスを粋に掲げてみせた。
付き合うとも。この老人から何か聞きだすまでは。
老人は、親しい友人がどんどんいなくなってゆく寂しさ、自分もいつ迎えが来るか分からない不安などをぽつりぽつりと語った。そしてデイリー氏の話題に及ぶと、彼は良い男だった、と口を切った。
「敬虔な男でね。死ぬまで毎週のミサを欠かさなかった。教会への寄付も、奉仕活動も、自分にできる事なら協力を惜しまなかった。そういえば、息子たちが自分のやる事にけちをつけると嘆いていたな。その息子たちが、以前は省みもしなかった父の死体に群がるように、遺産の権利書だか何だかを目くじら立てて探している」
老人は、このときばかりはグラスを傾ける手を止めた。
善良な男から、強欲で浅はかな息子が産まれる。常に天の采配は常人の理解を超える。
わたしは開口すべきか一瞬迷ったが、単刀直入にわたしの考えを切り出す事にした。
「その権利書ですが、あなたが持っている、という可能性はないでしょうか」
カーペンター氏は目をぱちくりさせた。
「ジェイシーという名は、J・Cという頭文字とも取れるのです。あなたの名の頭文字も、J・Cですね」
老人はアルコールで少し充血した眼をもう一度しばたいた。と思うと、何かを察したように表情がふっと和んだ。
「うむ、そうだと良いなあ、探偵さん。わたしが権利書なんかを持っていたら、少なくともわたしが死ぬまでは、あの息子夫婦には渡さんのになあ」
アルコールが入っているためか、真意の掴めない笑みを浮かべつつ、氏はグラスを干した。
「わたしはそんなもの預かってはいないよ。これ以上心労のかさむ事なんかできはしないよ」
老人は席を立とうとした。僅かにふらついたのを、手を差し出して支えてやる。すまないね、と言いながら、老人は立ち上がった。
「なあ、探偵さん。その、彼が隠した遺産なんか、見つからなければ良いと思わないかね」
あの身内どもが、遺産の心配より先に故人を悼む、まともな神経があったなら、良い人が心を痛める事はなかっただろうに。しわだらけの細いカーペンター氏の手を取りながら、バーテンにタクシーを頼んだ。
「若いのに聞き上手の探偵さん。君の仕事が終わったら、またこの老人の酒に付き合っておくれ」
ホテルを出、タクシーに乗せると、老人はそう言い残して窓越しに手を振りながら去って行った。
本当に感じの良い老人だ。彼の友人なら、故デイリー氏もさぞかし好人物だったに違いない。
その一方でわたしの仕事は、暗礁に乗り上げ、舵が壊れた気分だ。マストも折れかかっている。
だがわたしはもう、ジェイシー、若しくはJ・Cなる人物を探す気分にはなれなかった。
「いやあ、何だか、あなたとは妙な腐れ縁があるみたいですね」
別に何の不思議もないだろう。
瀕死の金持ち老人のいるところ、この男あり。
弁護士のミスタ・マクブライド。
この弁護士は彼の大きな事務所でも一番の有能株だ。なんと個室まで与えられているのだから。
わたしは今、その彼のオフィスで、彼と一対一で対峙している。
彼とは偶然にも何度か依頼人を共にした、いわば共同戦線を張っている、奇妙な関係だった。わたしは、その共同戦線も一触即発だという気がしてならないのだが。
若く有能な弁護士は、今日も一寸の隙もない、紺のスーツで決めていた。
「あなたがキャンベル氏から依頼を受けているとは、私も今日、彼らから聞いて初めて知ったのですよ」
キャンベル氏とは、勿論故デイリー氏の息子夫婦の事だ。
わたしといえばついさっき、この弁護士からの電話で、彼が故デイリー氏の弁護士だったと知り、取るものもとりあえず事務所に押し掛けて来た次第だ。
遺産と遺言管理。マクブライドの土俵である。一定以上の金持ちなら、ここら一帯で名うての彼に依頼するのは不思議な事ではない。
「そんな話はさておき、あなた、夫妻からの依頼でジェイシーという人物を捜しておいでなのだそうですね」
夫婦から直接聞いているのなら、依頼人の守秘義務は無いようなものだ。わたしは頷いた。
「とんだ手間でしたね。ジェイシーなんて、いなかったのでしょう。夫妻は文句たらたらでしたからね」
真っ白な歯を見せて微笑みながら、なんて嫌味を言う奴だ。
私の表情を見て取ると、弁護士はまたにっこり笑って付け足した。
「いえ、無理もないのですよ。ジェイシーなんて人物は、どれだけ捜してもいないものはいないのです。決してあなたの手落ちなどではありません」
わたしは片方の眉を引き上げてやった。弁護士は一応、年上の者に対する態度を示してくれた。
「嫌味を言っているのではありませんよ。あなたはジェイシーという人物を捜してくれと依頼された。あなたは仕事をした。それで良いでしょう。そう夫妻に報告なさい。わたしが保証しますよ。あなたは義務を果たされている」
弁護士が何を言いたいのかは分からなかったが、これだけは言える。
この弁護士は、権利書の在処を知っている。
「どうでしょう。わたしはデイリー氏の臨終に立ち会ったというだけで、直接氏からここにあると聞いた訳ではないのですがね」
何て顔色を読むのが上手い弁護士だろう。それともわたしが顔に出易い性質なのか?
「あなたは情報を半端にしか受けていなかったから分からなかったのですよ。デイリー氏は、正確にはこう言ったのです」
『それらはジェイシーが持っている。お前らが神への信仰を思い出すとき、それらは現れるだろう』
まさか。
わたしは唖然とした。
ジェイシーが持っている。
信仰を省みたとき、神が天から降ってきてくれるのだ。キャンベル一族が、喉から手が出るほど欲している権利書を小脇に抱えて。
わたしは弁護士をじろりと見据えた。弁護士は軽く受け流すように笑っている。
「あんたは、知っているのに黙っていたのかい。分かっていて、息子夫婦に隠しているんだね?」
弁護士は営業用のスマイルを一寸たりとも崩さないまま、革の椅子の背にもたれかかった。
「おや、人聞きの悪い。わたしは確認した訳ではないし、あくまでわたし個人が想像した結果、そこにあるのではと考えているだけですよ。わたしとキャンベル氏らには、この結論に辿り着くまでの何ら情報上の不平等もありません。それにわたしは嘘などひとつも吐いてはいませんからね。キャンベル氏はわたしに、権利書の在処を父から何も聞いてはいないか、と訊いてきただけなので、何も聞いていないとありのままを述べただけです」
末恐ろしい男、ミスタ・マクブライド。彼だけは敵に回したくない。
つまり、キャンベル氏は、一番初めにこの弁護士に「権利書の在処を聞いていないか」ではなく「権利書はどこにあるのか」と聞くべきだったのだ。そうしてさえいれば、今までの時間の浪費も、わたしへの依頼料という無駄な散財も、しなくて済んだというのに。
わたしはマクブライドの言う通り、キャンベル氏夫妻に会って、ありのままの調査結果を報告した。
老人の知人・友人・近しい仲間の中に、ジェイシーという名の人物は存在しない。
老人の行動範囲にある教会を含む公共施設、飲食店、施設、銀行、道路等の名称に、ジェイシーまたはその字を含むものは存在しない。
ジェイシーをJ・Cと捉え、前記に記した人物、名称を調べるも、該当するものは存在しない。
夫妻はこれ見よがしに狼狽し、憤慨し、分厚い報告書をテーブルに叩きつけて、これだけ調べても何も見つからなかったのか、と責め立てた。
「わたしはご依頼を忠実に果たしたと思います」
わたしははっきり言ってやった。
予想通り、息子はわたしの報酬を値切った。まあ、それは良しとしよう。これからも、別の探偵だか調査機関をあてにして、金をドブに捨てるような愚行を犯すのだろうから。
しかし言いたい放題言われてやる義理はない。
最後に嫌味のひとつも言ってやらねば。わたしは玄関前で足を止めた。
「あなたがたは、もう少しお父上を悼んでも良いのではないですか。彼の私室にあるキリストにでも頭を下げるんですね」
後は知らん振りだ。なにやらマット氏の妻がヒステリックに喚いていたが、わたしはまるで意に返さず、彼らの鼻先で扉を閉めてやった。
もう少ししたら、待ち合わせの時間だ。
わたしは、カーペンター氏がゆったりとした気負わないバーを知っていたので、そこで彼と飲む約束をしていた。考えた末、わたしはこの件をある程度端折りこそするが、権利書の在処を彼に喋ってしまおうと思っている。
勿論、どこかの弁護士同様、わたしは確認した訳ではないし、あくまでわたし個人が想像した結果、そこにあるのではと考えているだけなのだが。
欲まみれのキャンベル一族は、またしても質問を間違えた。
わたしへの依頼は、「ジェイシーという人物を探捜してくれ」ではなく、「権利書を見つけてくれ」であるべきだったのだ。わたしは何でも屋の実績がある。きっとその依頼だったら、もう少し早く解決し、あんな一族にでも権利書を拝ませてやれただろう。
天の采配か。
デイリー老人の功徳か。
俗人たちは、今もあの屋敷で気を揉んでいることだろう。いい気味だ。
それにしても、わたしは人が良過ぎただろうか。
嫌味と見せかけて、あんなヒントをくれてやったのだから。
いつか、一家が総出で、あの十字架の足元に跪いている光景を思い浮かべる。
きっと、探し物はそこにあるだろう。
なあ、J・C。
lくそったれ《Jesus Christ》。
――――了
楽しんで頂けたら幸い。
有難うございました。