第九話 算数
「むむむ……」
「どうした? テトラ」
テトラが何故か俺の体の匂いを嗅いでくる。
昨日、臭いものでも食べたっけ?
「女の匂いがする」
マジか。
鼻良過ぎだろ。
「実は昨日……」
テトラちゃんに昨晩のことを話すと、テトラちゃんは顔を顰めた。
「怪しい。その女絶対危険。近づいちゃダメ」
「そうか? 怪しいのは俺も思ったけど、全然危険そうじゃなかったぞ」
むしろ無警戒な娘だった。
余裕で押し倒せそうだった。やらないけど。
「女の勘」
「何だそれ」
少なくとも俺の経験上、女の勘が当たったことはない。
とはいえこの世界は呪いだとか加護だとかがある世界。
もしかしたら虫の知らせくらいはあるのかも。女の勘も当たる……かも。
「じゃあ一応警戒しておくよ」
「それだけじゃダメ。私も付いていく」
「危険だって言ったのはテトラだろ。俺一人の方が身軽だし、来なくていいよ」
実際、地の利は毎日森を歩いている俺にある。
最近は身体能力が上がったおかげで、足もかなり速くなっている。
一人なら逃げるのは簡単だ。
だがテトラが居ると、最悪テトラを背負って逃げる必要が出てくる。
「うっ……じゃあしょうがない」
あっさりテトラは引き下がってくれた。
テトラは聞き分けが良いので助かる。俺の言っていることが正しいと思えばすぐに引いてくれる。逆に正しくないと思えば、意見してくれる。
これがロンとロズワードだと、なかなか引き下がらないで駄々をこねてくる。
逆にグラムやソヨンは全く反対しないので、心配になる。
そろそろ子供たちには自分で考える力を身に付けて貰わないと。
大事なのは論理的に考える力。
論理的に考える力を鍛えるには……
あれを教えるか。
今は必要ではないが、これから必ず役に立つ。
時間の無駄にはならないはず。
さて、どうやって教えるか……
_____________
「まずこれを見てくれ」
俺は地面にキリシア語というこの辺の地域以外の言語で数字を書く。何故外国語で書くのかというと、この地域には独自の文字が無いからである。
「順番に読んで。ロン」
「えっと一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」
「正解だ」
「さすがにそれくらいは読めるよ」
ロンは不満そうに言った。
いや、だって確かめないと分からないし。
まあいくら外国語といっても数字くらいは覚えるのは簡単だから。
優秀な
俺は地面に続けてこう書いた。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十 (どっからどう見ても異世界語)
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
「何それ」
「下に書いてあるのが俺の故郷の数字。上がキリシアの数字。お前たちには下の数字を憶えて欲しい」
「何でそんな面倒なことを……」
あからさまに不満そうな顔をする子供たち。
最近、テトラに教えてもらってようやく覚えてばかりなのに、何でこんなことをしなきゃいけないんだ、と不満そうだ。
「俺の故郷の数字の方が便利だからだ。俺の故郷にはたくさん国があって、どの国も独自の数字を持って居る。でもこの数字―アラビア数字だけは世界中で通用するんだよ。つまりそれだけ使いやすいってこと」
アラビア数字は非常に合理的な数字だ。
現在ではヨーロッパの方が中東よりも科学技術が進んでいるが、中世では科学の中心は中東、イスラーム世界だった。
理由としては様々なモノがあるとは思うが、アラビア数字が大きな要因になっているのは間違いない。
どうでもいいがアラビア数字の起源はインドだ。
「へー」
納得はしてやるけど意味わかんねという顔をしている子が大半だ。そもそも国によって言葉が違う感覚がこの子たちには分からないのかもしれない。
彼らにとって世界は自分の村とその村が所属する都市国家程度。日本で言えば県、広くても地方程度。『外国語』と接する機会なんてない。
「この空欄の下の丸は何?」
「零っていう数字だ。何もないことを表す」
「何も無いのにあるの?」
テトラが聞いてきた。
そう、その質問を待って居た。
西暦に零年は無い。初めが一年だ。
変だと思ったことが無いだろうか?
この所為でよく西暦101年〜200年が一世紀だと勘違いする人も良く居る。
何でこんなに面倒くさいのか?
理由は単純。西暦が作られた当時、ヨーロッパに零の概念が存在しなかったからである。
「何も無いは無いけど、定義しないと不便だろ。例えばここに葉っぱがある。何枚?」
「一枚」
「じゃあこれは何枚?」
俺は葉っぱを隠す。
「……無い」
「これをゼロって言う」
子供たちの顔に?が浮かぶ。
「数字の始まりは一。何が困るか分からない。何も無いは何も無い」
「そうだな……じゃあこの葉っぱを一枚としよう。これは何枚?」
俺は葉っぱを半分に千切って、一方を捨てて半分になった葉っぱをみんなに見せる。
「一枚」
「違うよ。さっきの葉っぱの完全な形が一枚だろ? この半分と半分が両方合わさって一枚だ。つまり一枚の半分。これを二分の一、もしくは零・五と言う。分かる?」
「????????」
クソ、骨が折れそうだな。現代日本人にとって零が数字の始まりってのは常識だからそんなに違和感が無いんだけどな。
この子たちにとっては違う。
「じゃあこうしよう」
俺は地面に数直線を書く。
「この始まりのメモリが零だよ。この次が一。じゃあ零と一の間は?」
「そもそも始まりが一だろ?」
「数字に間?」
「一の半分は別の一と一だと思います!!」
「要するに二じゃん」
「半分にすると増えるの?」
くっそおおおおお!!!!
「なあ、分からないか?」
やっぱり俺の教え方が不味いのか?
俺はこの中で一番頭がいいであろうテトラに聞く。
「何となく分かるような、分からないような……要するに数字は一つ一つ区切って考えるんじゃなくて、一本の線のような流れで考えるってこと?」
えっと……多分そうです。
そんな難しく考えたことねえよ!!
だが今のテトラの発言のおかげで何人かの子供たちの顔が晴れた。さすがテトラだ。
「意味わかんね」
「さっぱり」
ロズワードとロンがさらに首を傾げる。テトラの説明で余計に混乱してしまったらしい。
結局、全員に零の概念を納得してもらうだけで今日の授業は終了してしまった。
先が思いやられる……
_____________
算数を教えてから早や一か月が過ぎた。
子供たちはスポンジが水を吸収するように習得して、一番遅い子でも一ケタの引き算をマスターできるようになっていた。
ちなみに一番習得が早いのはテトラで、すでに三ケタの足し算引き算(要するに筆算)ができるようになっている。
というか元々ある程度の計算が出来るようだ。
そろそろ習熟度に大きなばらつきが出始めてきているので、俺一人で教えるのが困難になってきた。
そこで出来る子に出来ない子を教えさせるようにした。
人に教えるには本当に理解していなくては出来ない。人に教えることほど効果的な復習は無い。
ただテトラは不満そうだった。今更二ケタの足し算なんかやりたくないという顔をしている。
と言っても俺の体は一つしかない。
それに物凄く頭の良い人間一人よりも、多少頭の良い人間十人の方がよっぽど役に立つ。
とはいっても不満なモノは不満なモノであるらしく……
「出来た。答え合わせして」
「了解。えーと……」
授業の時間外、空いた時間にテトラへ数学を教えることにした。
不公平になるからダメと言ったら、「むしろ自分に教師ばかりさせて少しも教えてくれない方が不公平だし、自分はあなたに言葉を教えてあげてるのだからこれくらいの融通はしてもらわないと困る」と言われてしまった。
なるほどなと思ってしまったので、こうして教えているわけだ。
「全問正解か。取り敢えず三ケタの足し算引き算は完璧みたいだな。次に移るか」
「次は四ケタ?」
「いや、三ケタも四ケタも変わらないだろ。次は掛け算」
それにしても一か月で掛け算とか異常な速度だな。
長さの単位とか、そういう分野を飛ばしているとはいえ、かなりの習得速度だ。
やっぱり本人のやる気と能力の差というわけか。
「取り敢えずこれを暗記して」
「何これ?」
「暗記カード」
俺はテトラに九九を書いたカードを渡す。
カードと言っても木の板で出来ているので、かなりデカい。作るのが大変だった。
「面倒くさい……普通に足し算で計算できるじゃん」
「時間掛かるだろ。暗記したほうが早い」
正直、一ケタ同士の四則演算はほとんど暗記してしまっている。
多分小さいころは両手を使って一生懸命やってたと思うが、今は瞬間的に答えられる。
まあ何百回も同じような問題を解き続けたおかげだが。
「でも九九を憶えれば掛け算はほとんど終わったようなものだよ。割り算も掛け算と同じようなものだから簡単だ。すぐに覚えられる」
これが終われば四則演算は終了だ。
四則演算さえできれば日常生活は困らない。
四則演算の次は長さや面積、体積の計算や、速度や距離の計算になるだろう。
正直、この方が四則演算よりも教えるのが面倒だ。この世界の長さとか重さの単位なんて知らないし。
確か地球の長さのなんたらかんたらとかいう定義があるらしいが、そもそもこの世界が球体かどうかも謎だ。もしかしたら不思議パワーが重力の代わりに存在しているのかもしれない。
「ねえ、アルムス」
「ん? 何だ」
未だにアルムスと呼ばれるのには少し違和感がある。俺は兄さんかリーダーのどちらかで普段は呼ばれているからだ。俺をアルムスと呼ぶのはテトラとユリアだけだ。
「あなたの故郷ではみんな出来たの?」
「まあそうだな……テトラくらいの年の子は全員。まあみんな七歳から始めるし、普通は掛け算まで覚えるのには二年は掛かるから、テトラの方が優秀だと思うけど」
「みんな習うの?」
「ああ。俺の国じゃ義務教育ってのがあってね、国民の権利とされて居るんだ」
ちなみに子供にあるのは教育を受ける権利がで、義務はない。教育を受けさせる義務があるのは親だ。
「何でそんなことするの? 金持ちで知識は独占したほうが良いじゃん」
「確かにそれだと特権階級にとってはいいかもしれない。でも俺の世界には俺の国以外にもたくさんの国があるんだ。国同士、競争し合ってる。知識を独占しちゃうと優秀な人材が集められないだろ? そうすると競争に負けてしまう」
特に資本主義社会にとって、教育は生命線だ。
それに民主主義を行う上で、国民が馬鹿では話にならない。
「大変なんだね」
「そうだな……」
確かにそう見ることもできる。
この世界ではそこまで競争は激しくない。どんなに頑張っても農業が自然次第という点が多いからだろう。努力して得られるリターンが少ない。
これを貧しいと思うか、長閑だと思うかは人による。
日本人から見ればこの世界の人はのんびりし過ぎているように見えるだろうし。この世界の人から見れば日本人は急ぎ過ぎに思えるだろう。
……日本人の生き急ぎは世界でも有数だしな。
よく働く割に効率が悪いけど。
生きるために急いでるんじゃなくて、急ぐために生きている人が多すぎるような……
話が逸れたな。つい愚痴になってしまった。
「ところでだけどアルムス」
「何?」
「いつになったら言葉をマスター出来るの?」
「……君には分からないかもしれないが、異言語を習得するのは物凄く難しいんだよ」
俺は子供たちと対照的に、なかなか習得出来ずにいた。
それでも英語の習得速度に比べればだいぶ早いけど。
「いっそ言語の加護を切って生活したらどう?」
「うーん、でもそれだと算数教えられないぞ?」
「やっぱり今のなしで」
「はは」
俺は思わず、テトラの髪を撫でてしまった。
一瞬嫌がるかと思って手を放そうとしたら、寄り添ってきた。
これは良い。
サラサラとした良い手触りだ。
石鹸もないのによくこれだけ柔らかい髪の毛になるものだ。
「はあ……頑張らないとな」
俺はため息をついた。