第七十七話 温泉
「ふう……」
湯に浸かると体の芯から温まるような心地がする。
お湯の色は白濁色。
美肌効果が期待できるとか聞いたことがある。
唯一文句を付けるとしたら、卵が腐ったような臭い。
硫黄泉だから仕方が無いのだが。
「いや、一回は行ってみたいと思ってたんだよね」
「いろいろと忙しかったからね」
俺の右手に絡みつきながらユリアが言う。
豊かで柔らかい感触を感じる。
温泉の存在自体は知っていた。
そりゃ、黒色火薬の材料の硫黄があるなら温泉もあるだろう。
案の定、いろいろと調べてみたらすぐに見つかった。
だが、残念ながらアデルニア人は温泉に入る習慣があまりないようだ。
正確に言えば、わざわざ温泉まで旅をして浸かる習慣が無いと言うべきか。
現地の住民は頻繁に入っているようである。
まあ移動手段が徒歩が基本のアデルニア半島で何十キロも先の温泉に行って浸かろうという物好きは少ない。
農業に忙しいからか、わざわざ温泉を掘り当てようという人間も少ないため、数も少ない。
「硫黄泉以外にも探せばいろんな種類があるだろうな。もしかしたらこの世界特有の温泉もあるかもしれない。うん、良いな」
アデルニア半島を統一した暁には地面を掘りまくってやろう。
「出来れば毎日入りたい。何とかならない?」
テトラが俺の左腕に絡みつきながら言う。ユリアほどではないが、しっかりとした弾力を感じる。個人的に感触はこっちの方が好きだ。
何とかならないって、何をしろと?
「馬車で運ぶとか」
「費用が馬鹿にならないな」
「あなたは王なんだからこれくらいの贅沢は然るべき。税収も先王の時よりもずっと上がったんでしょう?」
内戦後、国王直轄地は二倍に増加した。
元々の直轄地にアス領とディベル領と反抗した豪族の領地、そしてドモルガル王の国から奪い取った領地。
それに
当然俺に従ってくれた豪族たちに領土を分け与えたため、全てがそっくり直轄地に成ったわけでは無いが、それでも増えた分が多い。
ボロスはテリア要塞周辺の土地を与えた。
旧領土と新領土を繋ぐ要地であるが、ボロスなら守り切れるだろう。
迷ったのはバルトロだ。
当然バルトロも加増しなくてはいけないのだが……如何せん能力が高すぎる。
散々悩んだ末に新領土に転封した。
領地が一・五倍に増えたのだから文句はないはずだ。
バルトロの能力ならドモルガル王の国も十分に防げる。
ロン・ロズワード・グラムの三人は直轄地近くに封じた。
彼らには宮殿でこれからも俺の手足として働いてもらう。
だから三人が直接領地に住むことは無いだろう。
一番厄介だったのはロサイス王家の親族……ライモンドを中心とする面子だ。
特にライモンドが我が国にある三つの岩塩鉱山のうち、一つを所有している。
それとなく、三倍に加増する代わりに転封を仄めかしたが、笑顔で断られた。そりゃそうだ。
まあ無理に転封して関係が悪化する方が危険なので、少しだけ加増しておいた。
「出来れば豪族の力を削ぎ落としてしまいたい」
「そうだね……それさえ出来れば……」
テトラが俺の呟きに同調する。
豪族がスムーズな国家運営を邪魔しているのは明らかだ。
これは善政をやっているか、悪政をしているかの問題ではない。
存在そのものが不効率極まり無いのだ。
戦争をするときは彼らの同意を得なくてはいけないし、他国に寝返らないように注意しなくてはならない。
豪族が領地ごと寝返るというのはよくあることだ。
「でも、中央集権化はかなり進んでいるよ。地方豪族に関してはそこまで気にしなくてもいいと思うよ」
前回の内戦で派手にやったおかげで、正面から反抗する豪族は居ない。
転封という手段で、土地への影響力を真っ白に戻すことにも成功した。
問題は……
「ライモンドを中心とする中央の豪族……」
テトラが呟く。
中央豪族は一応俺の味方で、地方豪族の力を削ぎ落とそうという方針は同じだ。
彼らはロサイス家の力を強めたいのだ。
それに彼らの持っている領地は狭い。
だが直轄地周辺や中に領地を持っているため、中央への影響力が非常に強い。
しかも俺を王に立ててくれたのはライモンドたちだ。
俺は彼らを尊重しなくてはいけない立場にある。
そもそもライモンドが俺を王に選んだ理由は、俺に碌な親戚が居ないからである。
アス家は俺の親戚ではあるが、親しくない。俺には譜代の家臣は居るが精々三十人。
だから国を運営する上で、必ずロサイス家に頼らなくてはならない。
自分たちが蔑ろにされないように俺を立ててくれたのだ。
俺の能力とか、そんなのはどうでも良かったのである。
俺が無能なら傀儡にすれば良いだけの話だし。
リガルとは違って頼りになる親戚はロサイス家しかないんだから、それも容易いだろう。
上手く利害を擦り合わせていきたい。豪族の力を削って中央集権化を進めたいという考えは同じはずだし。
「ところでアデルニア半島の統一は本気?」
「ああ、本気だよ。前々から出来れば良いなと思ってた。でも思うだけじゃ実現しないからな」
アデルニア半島で紛争が絶えないのは統合されてい無いからだ。
一度一つにまとめ上げて、下地を作ればそう簡単には分裂しなくなる。
「じゃあどこをまず攻める?」
「それは状況によって。まずは国力を高めるところから始めるよ」
何事も基礎が大事だ。
杭がちゃんと地下に打ち込まれてない建物は傾くからな。
「あ、ちょっと……」
俺はユリアに抱き付く。紫紅色の髪を撫でながら、首筋に舌を這わせる。
「次の王太子、しっかりと決めないとな」
王位継承権問題。
それは君主制国家に付きまとう最大の問題だ。
ロサイス王の国以外も、この問題に悩まされているのは何度も見たし、歴史上でもたくさん知っている。
王太子を立てれば落ち着くが、その地位に胡坐を掻かれてしまうと暗君になる。
逆に決めないと大きく荒れる。
王が死ぬ前に次の王を指名出来なかったら当然、例え指名してもその遺言を聞いた家臣が嘘を言ったり、また嘘であると非難して他の王子が王位を奪うために内戦が起こる。
「アルムス……王太子はユリアの子で良いよ。その方が国も荒れない」
「そうか……ありがとう」
返礼として耳を舐めると、テトラは体を震わせた。
その白い背中を指でなぞりながら聞く。
「やっぱり暗君が即位してしまうのを承知で王太子を定めた方が良いかな?」
「ん……どんな制度にも欠点がある。それが次善だと思う。王が暗君でもそれなりに国を運営する制度が必要」
そうだよな……それが一番なんだけどね。
俺が勧めようとする官僚制はそこを考えると最高なんだけど……
腐敗しない官僚って腐ってないチーズみたいなものだからな。
まあ肉は少し腐ってる方が旨いともいう。
官僚への監視システムを作る必要がある。
その辺はゆくゆく考えれば良いか。
現在は官僚の数が少なすぎて、腐敗しようがないからな。
「アルムスはどういう方針で内政をするの? 豪族の力を削ぎ落とすって言ってたけど、具体的にはどんな風に?」
ユリアは俺に胸を押し付けるように聞いてきた。
俺の胸板にユリアの胸が押し付けられる。
「そうだな……全ての土地から直接税を採れるようにしたい。豪族の私有地からも例外無く。後は平民に力を付けさせることかな……」
「平民に?」
テトラが怪訝そうな顔をする。
「そう。豪族との対抗勢力として。まあ、自然と進むよ。輪裁式農業や貨幣経済の広がりによってね。それにキリシア人からも強い影響を受けるんじゃないか?」
「……そうすると将来的には絶対に参政権を求めてくるんじゃない?」
「そうだな……」
豊かになれば自然と興味が政治に向く。
だが防ぎようがない話だ。俺がアデルニア半島を統一するなら。
平民への徴兵を繰り返せば、自然と平民の発言力は増す。軍隊の中核を成すのは平民の重装歩兵なのだから。
領土が増えれば増えるほど自作農も増えるし、奴隷が増えれば増えるほど安価になり、平民でも手を伸ばせるようになる。
下手に防ごうとすれば不満の矛先がこちらに向かってくる。
貨幣経済が広がればそれに伴ってキリシア人の民主主義思想も蔓延するからだ。
俺がキリシア人との関係を深めて、国を近代化しようとすれば遅かれ早かれ民主主義はこの国中の平民に感染するだろう。
じゃあキリシア人を排斥するか?
それをすればアデルニア半島の統一は遠のく。いや、不可能になるだろう。
受け入れるしかない。
むしろ開き直って利用すべきである。
とはいえそれはまだまだ先の話だ。
今論じても仕方が無い。
その時にじっくりと腰を落ち着かせて考えれば良いだけの話だ。
俺は君主制を止めるつもりはさらさらない。
やっぱり、自分が築いた物は子供に世襲させたいし。
そもそも民主主義には全国民に教養が必要不可欠だ。
文字が書ける人間がほとんどいないアデルニア半島ではお話しにならない。
そもそもキリシア人が民主主義を実現出来ているのは、都市国家に分かれているからだ。
一つの行政単位が小さいから、民主主義で政治が出来ているのだ。
アデルニア半島の北部……ロサイス王の国以北は完全に領域国家に変貌している。
というかアデルニア人よりもずっと高度な文明を築いているキリシア人だって衆愚政治に陥ったり、僭主が発生したりしている。
俺が目指すアデルニア半島の統一国家の行政システムに適しているとは言えない。
結局のところ、歴史上の古代民主主義国家はすべて崩壊して君主制に移行している。
要するに思想や科学技術が未発達で宗教の力の強い古代・中世では君主制がもっとも適するシステムなのだ。
とはいえ、どっかの誰かさんも「民主主義は最悪だけど、今まで試してきた政治体制よりはマシだよね~」とか言ってる。
それに広がっちゃうものは広がっちゃうものだ。
その辺の折り合いを付ける必要があるだろう。
頭の片隅に置いておかないと。
「難しそうな顔してる。えい!」
ユリアに水を掛けられて、俺はハッとする。
少し考え事に没頭してしまっていたらしい。
「ああ、すまん、すまん。……そろそろ上せてきたし、上がるか」
「ん、そうしよう」
俺たちは温泉から上がった。
次も来よう。
今回の章は内政と外交が主になります