5. ラジオ
遠景に見える巨大な構造物の詳細を誰も知らなかった。
古びたビルと絡まった配管の先、黒い山脈は夜になると光って、謎の構造物はその存在感を醸し出す。それは、長い年月をかけて形が変わったり、大きくなったりしているようだった。私はまだその変化を実感するほど長くは生きていないのだけれど。
あれが何なのかに、みんな興味はない。外に出てはいけなかったし、私も誰も外の世界に興味は無かった。
あの構造物を見て、度々思うことがある。
もし、人がいたとして、あの世界に温かさはあるのだろうか? あんなに大きな構造物の周り、あるいは中に住む人に、果たして人の心はあるのだろうか。
どうして私がそんなことを考えるのかなんてわからない。そこに住む人々が善良で、温かい部屋と寝具が存在し、そこで気兼ねなく生活が送れるとしても、私はそこに行ってみたいとは思わないし、探求心なんてものも感じない。
だけれど、あの構造物を眺めると、胸に冷たいものが生まれるのを知っている。
今日も、母に黙って学校をさぼって、見晴らしの良いビルの上で遠景を眺めていた。
忍ばせたラジオの電源を付けて、イヤホンを装着する。
灰色の筐体から伝わるノイズが鼓膜を揺さぶる。
つまみを回すと訪れる"でんぱ"のねじくれる音が好きだった。
ザザザ...キュイィィィ—―
音を拾った。
人の声。なんと言っているかはわからない。かすかな音楽はぶつぶつと、とぎれとぎれで、その音階や、曲調を解することはできない。
ラジオは好きだ。どんなに遠くても、"でんぱ"という波を拾って、誰かの音を届けてくれる。
音がどんなに粗くても、理解できなくとも、それが無性に落ち着いた。
*
もう正午になる。弁当は先に食べてしまった。あれからなんだかお腹がすくのだ。
熱が出ていた時は、本当に何も食べられなかったからその反動かもしれない。
薬を飲んだ。
朝からずっとノイズを聞いていて、流石に飽きた……ラジオはもはや単調なノイズになってしまって、何も無かった。ここまで聞こえないことも珍しい。
どこに行こうか、学校に行く気はないが、散歩をしようか。
屋内に入るためのドアに手をかけたときだった。
正午を告げる鐘。その時、鐘の音に紛れて、何やら音が聞こえるのに気付いた。
いや、違う。外からじゃない。その音はイヤホンから聞こえてくる。
ノイズに紛れているのだ。多分それは――人の声。わからない。
私は不思議な好奇心に掻き立てられて耳を澄ませた。
____け__......
なんだろう?
__た.....__て
鐘の音がうるさかった。
...た__け__
なんと言っているのかわからない。
こんなことは初めてだ。
_____すけ___
た__す__け__て__,,,,,,
たすけて?
ざわざわと身体中が泡立つのを感じた
たすけて____
たすけて
声はどんどんはっきりと、大きくなっていく。
「誰か...いるの?」
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ノイズは変質する。甲高い金切り声となって。
女性の悲鳴。そう解釈するしかない音が頭を殴る。
「きゃあっ」
思わずラジオを投げ捨てる。耳からイヤホンが飛び出した。膝から力が抜けて、しりもちをつく。
ラジオとイヤホンはカラカラと音を立てて落下した。
『心拍数が急上昇しています。楽な姿勢をとって、深呼吸してください』
視界に〈エムス〉からの通知が入る。この時初めて、煩い動悸を自覚した。
「はあっ...はっ...」
動機と共に苦しみが訪れる。過呼吸だ。
耳鳴りがして、地面へと体が傾く。
こちらを覗き込む影。
「...やめろ!来るな!」
唐突に現れたそれは、少女の影のような見た目をして、体は真っ黒だった。
鉛筆のような黒色で塗りつぶされた全身は、不安定な映像のように時折点滅を繰り返す。
"それ"は、私の近くで両足を揃えてしゃがんだ。そして、こちらへ手を伸ばす。
「来ないで!」
たすけて?
私は反射的にその真っ黒な手を跳ねのけた。
ぼと
真っ黒い手が宙を舞って、視界の外に落ちる。
少女がこちらを見つめる。
「...――――る。」
何かを言った。何かは、わからない。
「はあっ――はあっ......」
わずかな間、私は何もない影の顔を見つめ続けていた。
"それ"は動かない。私と同じように、しゃがんだ姿勢のまま、目のない目でこちらの顔を見つめ続ける。
何秒、経っただろう。
見つめているうちに、影に微妙な変化が訪れた。
「はーっ...はー...」
真っ黒い影がまるで流体のように溶け始める。
顔から始まったそれは、どれくらいも経たないうちに全身に広がって、やがて黒い影の表面張力を突破した。
影は輪郭を失って崩壊し始める。スローモションのようなスピードで液体は落下する。
私の上に影の液体が垂れ下がる。
その時、私は突然に動けるようになった。
液体の下から這い出たけれど、右足だけが影の餌食になていた。
「ひっ」
ひんやりとして、妙な粘性が足をとらえて離さない。
重すぎて動けない。
影の液体はどんどん地面に沈む。沈んだ分だけ液体はどこかへ消えて、コンクリートの地面に広がることはなかった。
その液体は足を通過していた。
右足は靴下と靴までもが真っ黒くなって、すべてが変質していた。
「はあ...はあ...――何、これ?」
――いや、私はこの感覚を知っていた。むしろ酷く懐かしい。
でも、それが何なのかはわからない。
私はただ茫然とするしかなかった。