2. 伝令
古びた壁面から、小さな端子が保護カバーに包まれて顔を出していた。
保護カバーをつまんでそれを引っ張ると、黒いコードが現れる。
保護カバーを開いて、剥き出しになった端子を首の裏にあるコネクタに差し込む。すると視界の左上に『ジャスパー7』というロゴが表示されて、暗号化されたデータのダウンロードが始まった。
都市秘匿回線。我々にとっての生命線とも呼べる、秘密の通信回線である。
暫くして、ダウンロードが終わったので、コードをコネクタから取り外す。
すると、掌からコードの感触が消えて、コードは跡形もなく消えていた。
気持ち悪い。確かめると、コードが格納されていた穴すらもない。
統治局の神秘技術なのだ。こればかりは、何度やっても慣れない。
マンホールのふたを開いて、誰もいない裏路地の中に顔を出す。
外はひっそりと静まり帰っていて、傍らに、換気装置のついたトラックが一台ある以外は沢山のほこりが俟っていた。私はトラックの荷台に切り落とした触手の入ったバケツと、清掃器具を詰め込んだ。
—-この街のくせに、ここはやけに乾いている。バケツの中で蠢く触手『イネリ』のせいである。この動物はあらゆる場所から水を吸い上げて急速に成長する害獣である。すでに地中に山ほど埋もれているのだろうが・・・しかし、私の仕事はイネリを駆除することではなく、小さなマンホールの清掃だった。
車を発進させて、私はその場を後にした。
事務所の裏庭。バケツの中身の触手達を焼却炉に放り込む。
バケツを荷台に戻して鍵をかけると、オンボロ事務所の、今にも壊れそうなアルミ製の裏戸をガタガタと開けて、中に入る。
「おつかれさまでーす」
「ああ、お疲れ様」
事務所に一人残っていたのは、時々いやらしい目つきをする中年の男性。名は確か、エルミスと言ったか。この清掃会社の元締めをしている。
「今日はもう特にないし、これで上がってくれ」
「りょーかい」
「戸締りはしておくから」
「ヘィ。ではお先に」
幾枚かの硬貨と引き換えに事務所のシャワーを浴びて、着替えを済ませて表に出る。
すると、年齢も身なりも様々な男女の集団が、玄関前にたむろしていた。
放蕩野郎・・・この後、事務所で数発撃ちあげるつもりらしい。
視線を感じながら事務所から離れた。
事務所のある通りから外れて、いくつかの道を曲がる。そして辿り着いた古い路地の先は、人が川のように流れる市場だった。
私は人込みに突入していつもの場所に向かう。先ほど入手したデータを渡す相手を探していた。
「まいどあり!」
途中、お惣菜の入ったブルキスキを買った。今、私一押しのブルキスキ屋のものである。
市場の人込みに流されていると、やはり、いつもの場所にその男はいた。
リタリス系の黒い祈祷服を着た、宗教者然とした男。彼は屋台のベンチに胡坐をかいて新聞を眺めていた。
「よォ。タライナムじゃないか。また古臭いもの読んでるな」
彼は笑顔で答える。
「紙も捨てたものじゃないのさ」
下らない新聞を読んで時間を潰すのは彼の日課らしい。
「ふーん。なあ、前の借しだよ。ほら」
私は先ほど買ったブルキスキを放って寄越す。
「うおっ、てアチチ」
放り投げたものは紙袋越しに熱々だった。
「あはは。この前はありがとな。命びろいしたよ」
「いいや、あれぐらいいいさ」
彼は照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう。後に取っておくよ」
彼に礼を言われて、それで今日の私の仕事は終わり。
私は小さく手を振ってその場から離れた。
夕飯を買って帰るとしよう。
*
先ほど貰ったブルキスキを懐に仕舞って、日課を再開する。
新聞を開くと、夕刊ドゥルームの見出しには
『“レイテル大聖人”、またも都市議会に対し聖令を発布』
とある。この新聞はレイテルの狂人や奇人、変人を取り扱ったエンタメ紙で、私はこれを愛読していた。
新聞紙の中の道化達が、混沌の凝縮された人の川を背景に寸劇を繰り広げる。
午後のくつろげる時間。この市場でこの新聞に目を通すのが私の日課だ。
こういう、皮肉というかナンセンスというか、目を細めながら、人々の営みを俯瞰するみたいな、高慢な遊びが、私は好きだった。
一通り読み終えると、新聞を畳んで帰途につく。
複雑に道を進んで市場を抜けると、太陽が西の空に傾いているのが見えた。
この季節、夜は早く訪れる。
寺院に戻ると、青いケープを被ったミザ教の信者達の姿があった。
ミザ教の信徒にとって今日は月に一度の断食の日。断食の日は、偶像の前で祈らなければならなかった。
私は彼らの邪魔をしないように静かな足取りで自室に向かった。
ガチャリという音がして、ドアの拘束が一気に解かれる。
多少防犯に気を使いすぎた重いドアを開いて、閉じる。そして再び鍵をかける。
ここは寺院の一角。我が家は重い寺院の中にあった。
私は早速、安楽椅子に座って懐からブルキスキを取り出した。
「まさか食い物の中に隠してないだろうな」
香ばしい匂いがして食欲がそそられる。しかし、本題はそれではない。
「あっ」
ブルキスキから何かが落ちた。
拾いあげてみると、それは小さな記憶装置だった。
「食い物の中に隠すなとは言ったんだがな・・・たまたま挟まったのかな」
記憶装置はソースでしっかりと汚れ、べたついている。とても自分のコネクタに挿す気にはなれなかった。
ブルキスキを食べながら、視界に表示された青白いバーを眺める。なるほど、これは美味いな。
食べ終える頃には解読は終わっていて、暗号の羅列は意味のある疑似体験に置き変わっていた。
ソースで汚れた皿を洗い終えて、ソースに汚れたティッシュペーパーをゴミ箱へ放り入れると、私は再び安楽椅子に座って目を閉じた。
真っ暗な背景の中で、ソフトを起動して、先ほど解読の済んだファイルを起動する。
私は言語化できない世界に入り込んでいった。