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Scene2-1 卒業の日に

 三月四日。

 璃玖(りく)は感慨深い思いで六鹿(むじか)高校の校門から校舎を見上げていた。

 春の朝日に照らされた、年季の入った学び()

 この場所で日常を過ごすことは、璃玖の人生においておそらくもうない。

 明日からは、制服に袖を通すことすらないだろう。


「おっす璃玖! おはよーっす」

「ん? おお、来舞(らいぶ)か。おはよう」


 長髪の友人に肩を叩かれて、璃玖は我に帰る。

 しばらく校舎を眺めていたら、時間の経過を忘れてしまっていたらしい。

 予鈴が鳴るまであと僅かしかなかった。


「私もいるんだけど?」

「うん。おはよう、茉莉(まつり)

「ん。おはよ、樫野(かしの)


 ショートヘアーの眼鏡女子は中指で鼻のフレームを持ち上げる。

 彼女の表情はいつになく晴れやかだ。

 独りで校門に立ち尽くし、センチメンタルに浸っている璃玖とは対照的である。


「お前こんなところで何してんだよ。卒業式、始まるぜー?」

「ねぇ樫野、ソラくんは? 一緒じゃないの?」

「ソラは一年のクラスに行ったよ。なんか式が終わるまでは友達とダベるんだと」


 六鹿高校では、式中に送辞を送る代表者を除き、卒業式に在校生は参加できない。

 千二百人の全校生徒と保護者、学校関係者の全員を講堂に入れることは無理だからだ。

 ただし部活の先輩の送別のために学校に来る者はそれなりにいて、式の最中は教室や部室で待機していることがほとんどだ。


「へえ。でもギリギリまで璃玖と過ごせばいいのになー。学校で一緒に過ごせるのも今日が最後なわけじゃん?」

「まあ、式の後でも会えるしさ」

「璃玖がそう言うなら良いんだけどなー」


 来舞が土間に向かって歩き出すのに、璃玖と茉莉も続く。

 ここに来てどうしてだか茉莉がやや表情を曇らせたが、気付かないふりをして璃玖は教室へ急いだ。


────

──


 卒業式は(とどこお)りなく終わり、クラスの連中との最後の時間を楽しく過ごした。

 何人の先生やクラスメイトたちとひとしきり写真撮影などを終わらせて、璃玖はアウトドア部の部室へ移動した。


 三年間世話になったボロいプレハブの部屋も、明日からは足を踏み入れることは無いのだと思うと少し切ない。

 階段を登り、ひと呼吸だけ息を整えて、璃玖は部室の扉をスライドさせた。


 すると中から元気な声が響く。

 声の主は一つ下の後輩女子であった。


「璃玖せんぱーい、卒業おめでとーっ! はいこれ、あたしたちからの気持ちですっ!」

「うおぉ、でっかい花束! ありがとう次期部長。ありがとう、みんな」


 後輩女子が手渡したのは、抱えるほどの大きさの花束。

 色とりどりの花々が(かぐわ)しい。


 後輩たちからのプレゼントはそれだけではなく、後輩の男子からは部員全員の寄せ書き色紙が手渡された。

 贈り物や荷物により、これでいよいよ璃玖の両手は完全に塞がってしまった。


「……っつーか、部室、せまッ」

「あはは。みんないるし、荷物もいっぱいですからねっ」


 決して広くはない部室に十名ほどが集まっているわけだから、狭く感じるのも無理はない。

 加えて後輩たちの手荷物や、三年への贈り物もまだ残っているのだ。

 春の陽気も相まって、部室内は非常に暑苦しかった。


 と、璃玖はここであることに気が付く。


「ソラは?」


 いつもなら璃玖をニコニコの笑顔で出迎えてくれるはずの小悪魔的な天使の姿がどこにも見当たらないのだ。

 璃玖の問いかけに、後輩が言う。


「あー……なんかすごく大泣きしてて。ほんとについさっきなんですけど、茉莉ちゃんが連れてっちゃいました」

「なるほど、了解」


 それほど璃玖の卒業が寂しかったということなのだろうか。

 どうやら茉莉はソラを落ち着かせるために部室外へ連れ出したらしい。


「俺も様子を見に行こうかな」

「ふっふっふー、やっぱり愛しのカノジョが気になっちゃいますっ?」

「まあ、な。この一年、色々あったし」


 性転換以降、璃玖はソラのための行動を続けて来た。

 相談に乗ったり、問題解決に動いたり。

 もはやソラを想うことが癖になってしまっているのだろう。


 璃玖は今、ソラが涙していると聞いて居ても立っても居られない想いを押さえきれずにいる。

 心配しすぎは彼女にとって良くないことであると璃玖もわかっているのだけれど。


「まあ、様子見だけ、な」

「了解ですっ。行ってらっしゃいっ」


 璃玖は荷物を後輩に預けて、ソラのもとへ向かうことにした。


 後輩たちに見送られながら部屋を出た彼だったが、その後輩たちが軒並(のきな)みニヤついた顔をしていたのが少々気になるところであった。

 きっと、三角関係のもつれとか思われているに違いない。

 茉莉については『璃玖とソラのどちらを好きなのか』というのが後輩たちの中での論争になっているらしいのだ。

 やれやれと肩を(すく)めながら、璃玖は彼女たちを探した。


(さて、こういう時人目を気にせず話をするには……)


 学校内に内緒話スポットはいくつかあるが、部室からすぐに移動できる範囲で考えれば(おの)ずと場所は(しぼ)れてくるもの。

 そうして璃玖が体育館の外階段に近づいた時、案の定というか、よく知る人物の話し声が小さく聞こえてきた。

 璃玖は予想が当たったことに少し満足しつつ、話しかけるべきかどうかはしばし迷う。


 ところがその迷いの最中に、彼はとんでもない会話を漏れ聞いてしまうのである。



「じゃあ、ソラくんは来月にはもう」

「はい。女の子じゃないんです。だから、ぼくは──」



 璃玖はそれ以上を聞くのを拒絶するかのように足早にその場を立ち去った。

 そして中庭の、校舎の壁際に寄りかかりながら、動悸(どうき)のする胸を押さえつけてよろよろと座り込む。


 心臓が破裂しそうだった。


 目眩(めまい)で立っていられなかった。


 額に背中に、掌に汗が(にじ)む。


 今日はハレの日だというのに、声を出して泣きたい気分だった。



「そういう大事な話を、何で俺に話してくれないんだよ、ばかやろう」


 璃玖にとってはソラが男に戻ってしまうことよりも、それを秘密にされていたことの方が(こた)えるものだった。


 いつから知っていたのだろう。

 もしかして、昨日の越前岳の時点で既に?

 いや、そもそもこれは本当の話なのだろうか。

 【性転換現象】から回復した人は、一人もいないという話ではなかったか。


 ごちゃごちゃと思考が絡まる璃玖だったが、ここで両頬を叩いて沸騰(ふっとう)しそうな思考回路を強制冷却した。


「何を迷っているんだ、樫野璃玖!」


 無理矢理に冷ました頭で考える。

 それでもマイナスに飛びそうになる感情を、二度、三度と頬を叩いて強引に立て直した。

 やがて彼は、充血した眼でやや(くす)んで見える春の空を(あお)ぎ、遠く宇宙を睨みつける。


「俺のやることなんて初めから何も変わっていないんだ……! 迷ってる場合じゃない! 俺は──」


 どんな時でも、ソラの味方であろうと決めているのだ。

 ソラの望む結末を、ソラのために。

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