Scene1-8 朝の山辺に響く声
早朝に民宿で朝ご飯を食べた一行は、車に乗って目的地の山の登山口へと移動した。
ここは富士山が目の前で見られると人気の山、越前岳。
標高は一五〇四メートルで愛鷹山塊の最高峰である。
夏は初心者にも登りやすい山として紹介されることもある場所だが、今は三月の頭、平地でもようやく春が見え始めたばかりなのだ。
暖冬のために雪は少ないと予想されるが冬山は冬山であり、無茶は禁物だろう。
駐車場のある十里木高原の標高は八七〇メートルなので、頂上までは六〇〇メートル以上も登らなければならない。
璃玖たちが普段暇つぶしに登っている銀河山の、およそ二倍の高低差だ。
「駐車場にとうちゃーく! この時点で空気がおいしい!」
「つーかよォ、寒くね?」
「冬山の朝なんだから当然でしょ?」
車を降りて早々に、レミにツッコミを受けるは灰色髪の犬男、栖虎である。
時刻は七時。
日の出から一時間と経っていない朝の高原の空気はピンと張り詰めていて、そして厳かな中にどこか優しさも含まれているような独特の雰囲気があった。
新鮮な酸素をいっぱいに取り入れようと、璃玖は伸びをしながら深く息を吸い込んだ。
両頬を軽く叩いて、気合も十分。
ところが、隣を見やるとそこには愛しの恋人が神妙な面持ちで空を見上げ、溜息を吐いている。
「ソラ? 大丈夫か? やっぱり調子悪い?」
ソラは首を横に振る。
「ううん。薬も飲んできたし、今は平気。レミに色々対策教えてもらったしね。それより天気が残念だなぁって」
「雲一つしかない空、だもんな」
天気は曇り。
降雨の予報は無いが、雲が出ていると期待していた絶景を拝むのは無理かもしれない。
越前岳への登山ルートは富士山を望める絶景ポイントがいくつもあり、この山に登る最大の意義はそこに存在すると言っても過言ではない。
「登ってる途中で晴れるかもよ」
「だと良いんだけど」
莉玖たちは車のラゲッジスペースから荷物を下ろし、装備内容の確認を始めた。
登山用の杖であるトレッキングポール。
雪道を歩くことになった際に靴に装着する、スパイクなどの滑り止め具。
携行飲料。
途中で栄養を補給するための行動食と、万が一の時の非常食。
現代登山ではスマホの予備バッテリーも重要である。
「アプリで入山登録して、コース設定をして、と。いやぁ便利便利☆」
登山用のアプリはここ数年でかなり進化した。
入山届の提出、緊急時の救助要請、位置情報を利用したマッピング機能、道迷い防止アラート。
「レミ先輩、全員アプリ起動しました」
「おっけー。じゃあ、行こっか!」
準備も整い、いよいよ登山開始である。
────
──
登山口からはしばらく枯れた草原の坂道を行く。
丸太を横倒しにして作られた階段が先も見通せないほど長く続いており、道の上には雪が無いものの、草の陰や木の根元の窪みにはうっすらと残雪が確認できた。
「ここに雪が残ってるとなると、上の方はもっと積もってるかもね」
山の気温はまだまだ低く、その上積雪もあるとなれば、登山の難易度は跳ね上がる。
冬山初心者である栖虎や、生理中のソラにとってはきつい環境に違いない。
「じゃあ、予定通り山頂は目指さない方向でいこう。ソラもそれで良いよね?」
「うん。仕方ないね」
四人全員が初めての山で、かつ体調面も考えれば無理に山頂を目指すのは危険だ。
そのため登頂コースの中間にあるという絶景ポイントをゴールに決めた。
雪が無ければ片道一時間くらいの距離である。
「ぶっちゃけあとは状況次第でしょ」
「ですね」
レミを先頭に、栖虎、ソラ、璃玖の順に続く。
一番絵経験の少ない栖虎を二番目に置いて、彼と呼吸を合わせてペースを作りやすいレミが先頭。
パーティ全員の状態を確認できる最後尾に璃玖を配置して、消去法で三番目にソラという具合だ。
隊列を維持しながらひたすらに木段を登る。
二十分近く登り続けたところで、丸太造りの小さな建屋が目に入ってきた。
十里木高原展望台である。
「わ、璃玖。展望台だよ!」
「寄っていこうか。栖虎さんも疲れてるみたいだし」
「ぜぇ、ぜぇ……す、すまん璃玖ぐん。乳酸が脚に溜まってやべぇ」
「他のスポーツと使う筋肉違いますよねー」
と、いうことで小休止。
水分補給をして呼吸を整えるのだ。
「わ、すごい眺め」
ソラが呟く。
少し登っただけなのに、相当に見晴らしの良い景色だ。
眼下に広がる草地の先にはゴルフ場のコースがあり、右手の奥には別荘地。
名前通り、高原の風景を一望できる素晴らしい展望台だった。
惜しむらくは。
「本当だったら真正面に富士山が見えるんだよねぇ、ここ」
レミが残念そうに零した。
そう、高原の風景は素晴らしいのだけれど、肝心の富士山は雲の中。
最高のオードブルを味わった後にメインディッシュが出てこないのと同じ気分なのだった。
今彼らが立っているこの山そのものが富士の裾野に位置しており、晴れてさえいれば遮るものが何も無い雄大な富士の山体が拝めるはずなのである。
「山の天気は変わりやすいって言うからよぉ、運が良ければそのうち見えんだろ」
「まあ、そう祈るしかないよねぇ」
天気ばかりはどうにもならない。
雨や雪でなかっただけでも幸運だと考えるべきなのである。
「あ、そうだ。ソラ、璃玖くん、写真撮ったげるからそこに立って!」
「あ、はい!」
レミに言われるがまま、二人は展望台の前に並んで立つ。
少しはにかんだようにしながら、特にポーズは決めずに自然体で立っていた。
「ほら、恋人同士なんだからもっとくっつきなさい!」
「え、だって恥ずかしい」
「ソぉぉおおラぁぁぁああ? あんた付き合う前からイチャイチャイチャイチャとくっついてたクセによく言うよねぇ」
「それはそれっ!」
赤面するソラだがイチャついてた事実は否定できないのである。
「ほら。ん……」
「えと、じゃあ、失礼します(?)」
璃玖はソラに向かって腕を差し出すと、彼女は遠慮がちに、しかし寄り添うようにして腕を絡ませてくる。
なんだかんだで恋人にはくっついていたいソラだった。
「いいねー♡ 初々しい感じが、良いねー♡」
「おっさんかよ」
栖虎にツッコミを受けながら数枚の写真を収めたレミだったが、ここでソラからまさかの反撃を受けることになるのである。
写真を撮り終えたソラはレミにこう声を掛けた。
「今度はレミ達を撮ってあげるね♡ さ、並んで並んで♡」
「う、うん……?」
レミと栖虎は少し離れた位置に並んで立つ。
璃玖たちが最初に立っていた位置よりも二人の距離感は遠い。
璃玖が横目でソラを見ると、そこにはいかにも悪巧みしてそうなニヤけ方をしている彼女がいた。
それも束の間、すぐに満面の笑みに変わると、ソラは叫んだ。
渾身の、大声で。
「ほらほら、遠慮しないで! セ フ レ 同 士 なんだからもっとくっつきなさい!」
──流石に富士山にやまびこはしなかったが、透き通るようなソラのソプラノの声は朝の高原によく響いた。
それはもう、登山口の方から登ってくる次のグループの人たちが顔を見合わせるほどに。
瞬間、レミは総毛立った面持ちで赤面し、栖虎は思いっきり吹き出す。
「……ぷッ、くははは!! めっちゃ、響いてんの!! 腹いてぇ!」
「ソラあああぁぁあ!? お、大声でセフレっていうなあああああ!」