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Scene1-7 女二人、風呂の中

 ソラは一人、廊下を歩く。

 先程部屋で聞いた話や璃玖(りく)の態度を頭の中で反芻(はんすう)しながら、彼女は今後について考えていた。


「……レミと璃玖は両想いのはずなんだ」


 小さくぼやきながら、ソラは小浴場の扉を開ける。

 二つある浴室のうち小さい方を選んだのは、中浴場の扉に『使用中』の札が掛かっていたからだ。

 きっと男性陣が先に上がってしまったから、レミは広い風呂の方を選んだのだろう。


 ソラは古びたかんぬきタイプの錠を閉め、脱衣場にて服を脱ぎ始める。

 産まれたままの姿──性転換したから厳密には違うのだけど──になったソラは、フェイスタオルを手に浴室へ続く扉に手を掛けた。


「え」


 引き戸を開けた瞬間、ソラはフリーズする。

 何故ならば。


「ソラおっそーい。もうっ、私のぼせちゃうところだったよぉ」

「え? え? レミ? なんで、ここ……えぇ!?」


 自宅のバスタブの二倍くらいある石造りの浴槽の中に姉の姿があった。

 彼女はヘアキャップ代わりにタオルを頭に巻いて、浴槽の(へり)に腕を乗せた姿勢で恥ずかしげもなく裸体を晒している。

 ニヤニヤとソラを見つめてくる視線がいやらしくて、ソラはすぐさまタオルで身体を隠した。


「そんな恥ずかしがらなくてもいいでしょぉ? 女同士なんだし」

「ぼ、ぼくは一応男なんだけど!? っていうかあっちの浴室にいたんじゃないの!?」


 慌てふためくソラが大声で(わめ)くと、レミはふふんと自慢げに鼻を鳴らし、腰に手を当て、胸を張った。


「あれは札だけ()げておいたフェイクだよ。私ははじめからここにいたのでしたー☆」


 てへぺろ。


「チッ」


 ソラは苦々しく舌を鳴らした。


「ま、良いじゃん? 私たち『姉妹』なんだし。一緒にお風呂はいろーよ」

「……もう、ここまできたら諦めるけどさ。あとぼく今生理中なんで入浴無理でーす」

「そうだったわ。今日ずっとイラついてるもんね、ソラ」

「……」


 イライラの原因の一つはレミが栖虎の同行を認めたことであり、先程までそのことで口喧嘩をしていたはずなのだが、どうもレミは深く気に()めていない様子である。


 本当に適当に生きているな、と姉の態度に(あき)れつつ、ソラはシャワーを浴び始める。

 姉とはいえ年頃の女性の裸を前にしたままでは、精神衛生上よろしくない。

 体を流すだけ流して、さっさと部屋に戻るのが得策だろう。


「ねぇ、無視しないでよぉ」

「ねぇ、ウザ絡みしないでよ」


 ぶっきらぼうな言い方になったのは先刻の口喧嘩の熱量が下がり切っていなかったからである。

 ソラはレミに背を向け、丁寧に髪をシャンプーしていく。

 レミは浴槽の端に腰を掛けて足湯状態になって、ソラの洗髪姿をぼんやりと眺めていた。


「うんうん、ちゃんと痛まないように洗えてるね。女の子にも慣れてきた感じがするよ」

「まあ、もう一年くらい女の子やってるからね」


 そう言ってソラは髪のラインを撫でるようにしてすすぎ洗いをはじめる。

 五月にはショートボブくらいだった髪の毛は、すでに鎖骨下ほどの長さになっていた。


 伸ばし始めたくらいの時期にはアウトドア部の先輩女子たちから髪のケアの重要性について散々聞かされたし、最近だと動画配信中に視聴者から色々とアドバイスをもらうことも多い。

 今では化粧品メーカーからシャンプーやトリートメントの試供品が送られてくることもあって、知識の面では本当の女性よりも詳しいと言えるかもしれないレベルになっていた。


「そっかぁ、もうすぐ一年かぁ。なんかあっという間だね」

「うん。あっという間だった」


 ソラはトリートメント剤まで済ませて髪を流し終えると、顔を上げ、ふうと息を吐いた。

 目の前にある鏡に、自身と姉の姿が映る。

 髪が長くなったことで、ソラは自分の容姿がより一層姉に似通っていくように感じていた。

 だからこそ、複雑な気分になる。


「ねえ、レミは今でも璃玖のこと好きなの?」

「なに『今でも』って。まるで前は好きだったみたいじゃん」

「だって、実際そうでしょ。栖虎(すとら)さんともさっきその話をしてたんだ」

「……全く。あんたらは人の気持ちを勝手に想像で語りやがって」


 レミは呆れた様子だが、対するソラの方は真剣な面持ちだった。

 ソラは体を洗う手を止めて浴槽へと振り返る。


「レミ、璃玖と付き合う気はない?」

「は!? あんたのカレシでしょうが!」


 レミは驚いて思わず腰を浮かしかける。

 ばしゃりと湯が波を立て、その音でハッとする。

 ソラの表情は、とてもじゃないが冗談で言っているとは思えないほどに悲しみを内包していたのだ。


「何が、あったの」


 レミは小さく尋ねることしかできなかった。

 ソラは言う。


「女の子としてのぼくは、多分四月まで持たないんだ」

「うそ。確証は、あるの?」

「うん。それを話そうとすると、すごくオカルトじみた話になっちゃうけど」


 ソラは姉に打ち明けた。


 夏休みを過ぎた頃に、時折夢の中に魔女が現れるようになったこと。

 魔女は自分がただの夢幻(ゆめまぼろし)でないことを証明するために、ちょっとした予言をして未来の事件を言い当てたこと。

 そして、ソラの体の性が不安定になっていて、四月の時点では男に戻っていると告げられたこと。


「いつ男に戻ってもおかしくないっていうのは九月ごろには聞かされてたんだ。だから璃玖とは一緒になれないと思ったし、一時は諦めようとも思った。だけどぼくはやっぱり璃玖が好きで……思い出を作りたくなっちゃった。でも、いざ付き合ったらただの思い出で終わらせるのが悔しくなって」


 【性転換現象】が因果律の乱れによるものだと聞かされていたソラは、ついに逆転の発想に至る。


「それで、子供を作れば因果が固定されるんじゃないかって思い付いた。現に、子供がいる人が性転換した例は一つもないらしいから、ぼくも妊娠すればきっと女の子のままでいられる。ずっと璃玖の(そば)にいられる、って、思った……けどッ」


 姉に本心を打ち明けるべく、必死でソラは言葉を(つむ)ぐ。

 しかし徐々に感情が上振れてきて、言葉が詰まり、ついには嗚咽(おえつ)となっていく。

 顔が濡れてしまっているため判りづらいが、彼女の目は既に充血して真っ赤になっていた。


 レミは湯船から上がり、洗い場のソラへと駆け寄ると、彼女の震える肩を優しく抱き締めた。

 レミは少し前に璃玖から『ソラが子供を欲しがるけれど、そもそも心の性差のせいで行為ができない』と相談を受けたことがある。

 妹になった弟の秘めたる思いを聞いたことで、過去の出来事が一本の線で繋がっていく感じがした。


「ぼくは……、初め、から、今回の旅行が……ぼくが璃玖と恋人として過ごす最後の時間だって……決めてたんだ」


 一通りの話を聞いて、レミが口を開いた。


「でもソラ。あんたそれ、璃玖くんに言ってないでしょう」


 図星を突かれたソラは黙り込む。

 指摘された瞬間にレミの言わんとしていることがわかったのだ。

 いや、初めからわかっていた──その事実を璃玖に言わずに恋人関係になるのは卑怯だ、と。


「で、自分が男に戻ったら私が璃玖くんを貰ってくれる、そう考えてたってこと?」

「そうなったら良いな、ってだけだよ」

「同じだよ。あんたそれは、人を馬鹿にしすぎ」


 レミはやれやれと肩を(すく)める。


「まあ私は頼まれても璃玖くんとは付き合わないけどねぇ」

「……どうして」

「相性が悪すぎるからだよ。お互いを思いやるほど、自分を傷つけていく。そんな気がするんだ」


 性格が合わないわけでも、趣味が合わないわけでもない。

 だが、深すぎる想いは時に心の傷を(えぐ)る結果をもたらすことを、今のレミは知っているのだ。


「つーかさ、ソラはもう少し璃玖くんのこと信じてあげなよ。基本こっちから突き放さない限り、どこまでも一途だからねぇあの子」

「……うん」


 ソラが頷くのを確認すると、レミは再び浴槽へ向かった。

 それを見たソラは疑問を抱く。


「さっき、のぼせるって言ってなかった?」

「ふっふっふ。だってぇ、ラブホ以外で足伸ばせるお風呂にしばらく入ってなかったんだもん☆」

「うわぁ……」


 その裸体を隠すこともなく浴槽いっぱいに手足を広げてぷかぷか浮かび始める姉の姿を見て、『お風呂で遊ぶなんて、子供でもあるまいし』と、ドン引きするソラ。

 彼女は身体を洗ったあと、絞ったタオルで軽く身体の水分を拭き取り、脱衣場へと歩き出した。


「レミ、先上がってるからね。本当にのぼせないでよ?」

「はいほー」


 こうしてソラは一人、脱衣場に戻る。

 バスタオルで髪の水気を吸い取りながら、先程のレミの言葉を反芻する。



 ── 基本こっちから突き放さない限り、どこまでも一途だからねぇあの子。



「……わかってるよ。だからこそ、これで最後にしないといけないんだ」


 小さく呟き、ソラは腕で目元を(ぬぐ)った。

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