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Scene1-5 諍い

「なんであの人を連れて来るんだよ! 栖虎(すとら)さんは……璃玖(りく)を傷つけた人なんだよ!?」

「そんなの、璃玖くんが勝手に傷付いただけじゃん。むしろそれを言うなら加害者は私だよ」

「……は? 何言ってるの、それは大前提じゃん。自分たちがどれだけ璃玖を苦しめたか分かってんのかよ。ぼくはレミのこと許して──」


 (ふすま)の前で口論を繰り広げるソラとレミ。

 だんだんとソラの口調がきつくなり、やがて耐えきれなくなった璃玖は、行動を起こした。

 部屋の扉を開け放ち、二人の間に割って入ったのだ。


「ストップ。喧嘩はやめてくれよ、二人とも」

「り、璃玖……センパイ」


 まさか璃玖が現れるなんて思っていなかったのだろう。

 ソラはやや混乱気味であった。


 そんな彼女は(よそお)いからしてシャワーを浴びた形跡がない。

 手にしているタオルも未使用であるとひと目でわかる状態だった。


「あーあ、二人とも帰ってきちゃった。どうすんの、ソラ?」

「……ぼ、ぼくは──わたしは……」


 徐々(じょじょ)にトーンダウンしていくソラ。

 涙目になっている彼女に対し、隣にいたレミはやれやれといった表情を浮かべている。

 璃玖が彼女らの姉弟喧嘩を目の当たりにしたことはこれまでにも何度があったが、こんな場所で、しかも自分が原因の(いさか)いとなればいたたまれない気分にもなる。


「いったい、何があったんですか」


 璃玖がレミに尋ねると、彼女は溜息を()きながら顔をしかめた。


「私が栖虎を連れてきたことが気に食わないんだって」

「それは、どうして」

「私と栖虎がホテルに入ったとこ、璃玖くんは見てたんでしょう?」

「……あ」


 璃玖は思い出した。


 レミが男性とホテルへ消えていく場面を目撃したことが一度だけある。

 あれは確か、ソラが性転換する前日のことだった。

 今となってはどこか懐かしい思い出だ。


「そうか……あれは、栖虎さんだったのか」


 当時の璃玖はレミの姿に視点が向いてしまっていたから、相手の男の容姿までは覚えていなかった。

 が、ソラは違ったのだろう。

 ソラは栖虎のことをしっかりと記憶に焼き付けていたのだ。


「あの時の璃玖の悲しみを、わたしは知ってる。だからこそ、そういう相手をこの旅行に連れて来たレミが信じられなくて」

「……だとしても、今の璃玖くんにはあんたがいるんだからもう時効でしょ」

「ッ!? だから、それとこれとは話が別だって──!」

「はいはいそこまで!」


 再びヒートしそうになるソラを止めたのは、栖虎だった。

 彼は大きな音を立てて手を打ち鳴らし、自分の携帯端末の時計表示を見せながら言った。


「あんまり時間ねーんだから喧嘩は後だっつーの。おいレミ、女は風呂の時間なげぇんだから先に行ってろよ。俺らもう上がってるから、どっちの浴室も使えるだろ」

「ん、りょーかい☆」


 栖虎に(うなが)されると、レミはタオルと着替えの入った袋を抱え、さっさと部屋を出て行ってしまった。


「え、ちょっと……」


 姉の切り替えの速さにソラが呆気(あっけ)に取られていると、栖虎は畳の上に腰を下ろしてあぐらをかき、人差し指で下を示してソラに座るよう促した。

 璃玖が座布団を持ってくると、栖虎は『気がきくねぇ』なんて呟きながら満足げに口角を上げる。

 座布団に座り直したところで、彼はもう一度ソラに顔を向けて言う。


「ソラちゃん、いやソラくん。男同士、腰を据えて話し合おうや。な!」

「……」


 バツの悪そうな表情を浮かべ、ソラは渋々座布団に正座をした。


「で、まずソラくんの言い分は?」


 一分ほど黙っていたソラだったが、やがて堪忍(かんにん)したかのように静かに語り出す。


「……あの日の璃玖は、本当に見ていられなかった。落ち込むなんてものじゃない。家に帰ってもずっと吐いてたし、ずっと震えてた」


 あの日、確かに璃玖は精神的に参っていた。

 それも、かつてないほどに。


 思い返せば、例の日の前日、レミが体の関係を迫ってきた時から璃玖はショッキングな気分であった。

 しかしその時点では心のどこかで『自分を選んでくれた』と嬉しくもあったのだ。


 が、日を(また)いでみれば、彼女は別の男性と肉体関係を結んでいた。

 その事実が璃玖に追い打ちをかける。

 昔の誠実でキラキラしたレミを知っている彼だからこそ、彼女の軽薄さに『もうあの日の彼女はいないのだ』と痛感させられたのだ。


 ──もしかすると、璃玖の狼狽(ろうばい)っぷりを見たソラの心理状態が、彼女の性転換に何かしらの影響を与えた可能性もある。


 現に今もソラは、璃玖の代わりにレミや栖虎に怒りの感情を燃やしているわけで。

 先程の喧嘩は、あの日の出来事がソラの精神に与えた衝撃が今もなお(くすぶ)り続けるほどに大きかったという証左(しょうさ)だ。


「璃玖とレミはその後もひと悶着(もんちゃく)あったでしょ。だから余計、今回の付き添いに栖虎さんを選んだレミの考えがわからなかったんだ」


 璃玖は座ったまま身体をソラへと向け、落ち着いた声で言った。


「確かにあの時の俺は精神的に相当やられたけど、あれがきっかけでソラと付き合えたと思うんだ。だから今更(いまさら)栖虎さんとの関係を気にしてもいない。むしろさ、栖虎さんと話している時の先輩はすごく楽しそうで、なんかホッとした感じがするくらいだよ」

「でも……!」


 ソラはそれでも不満がありそうだった。


 璃玖は考える。

 ソラが自分のために怒ってくれるのは嬉しい一方で、これ以上ソラとレミが喧嘩するのも見たくはない。

 しかしソラの機嫌が戻るにはどうすれば良いのかわからない。


 困り果てた璃玖は栖虎に視線を送る。

 彼はこくりと頷いてからソラに告げた。


「だけどさぁソラくん。それでレミにキレるのはお(かど)違いってやつだぜ」

「どうしてですか」

「ソラくんの喧嘩の相手はレミじゃなく、オレだからさ。……っつーかあいつも経緯をちゃんと話せば良いのに、まったく。ぶっちゃけ、今回の行程にわがまま言って首突っ込んだのはオレの方なんだよ」


 きょとんとしたのはソラだけでなく、璃玖もだった。

 彼は栖虎に尋ねる。


「どういうことか、詳しく聞いても良いですか」

「おん? 良いぜ?」


 すると栖虎は今までで一番の笑顔を璃玖に向け、白い歯をにいっと覗かせた。

 やや長い糸切り歯が狼の牙のようだった。


「まあ、アレだ。端的に言うとだな──」


 栖虎はやや間を溜めるような言い回しをしながら、その笑顔を柔らかなものから挑発的なものへと変化させた。

 璃玖の目を射抜くような眼光と共に、彼は告げる。


「──まあ、璃玖くんへの対抗意識ってやつだな!」

「……え、俺?」

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