前へ次へ
90/126

Scene1-2 恋人の聖地

「へぇ、ストラって変わった名前だと思ったら、下の名前なんですね」

「そ。木へんに西と書いて『す』、それからタイガーの虎。ウチの親、野球やらせたかったらしくてさぁ」

「ストライクってことですか」


 栖虎(すとら)は右手でハンドルを握ったまま、左耳の後ろをボリボリと()いた。

 銀のリングのピアスが揺れる。

 璃玖(りく)の周囲にピアスを開けているような男子はほとんどいないから、栖虎の耳で揺れるリングが璃玖には新鮮に映った。


「ぶっちゃけ野球よりバスケの方が好きだしストライクとかボウリングでしかとったことねーけどな!」


 うはは、と彼は豪快に笑う。

 やはりどこか狼っぽい、と璃玖は思った。


 するとレミがこんなことを言い出す。


「璃玖くん、そいつ苗字で呼ぶと怒るから気を付けてねー」

「苗字?」


 璃玖が首を(かし)げるのと同時に、運転席の栖虎が慌て始めた。


「おいレミ、お前絶対教えんじゃねーぞ!」


 レミはそんな彼に小悪魔的な笑みを浮かべると、くく、と喉をすぼめて笑う。

 ソラが璃玖に対して見せる表情に似ているが、レミのはもっと悪意を含んでいるのが一目瞭然である。


「えー、良いじゃん。私は好きだよぉ、『唐桶(からおけ)』って苗字」


 わざとらしく栖虎の()み嫌う苗字を口にしてから、レミは車内に響く程の大笑いを始めた。

 栖虎の舌打ちをも掻き消すほどの声量で。


「か、からおけ……」

「何かなぁ? 璃玖くん?」

「い、いえ、何でもないです栖虎さん」


 触らぬ狼に(たた)り無し。

 璃玖はそれ以上の言及(げんきゅう)を避けるのであった。


「ったくよォ、そんなにオレの苗字が好きなら『唐桶レミ』にでもなってみたらどうだ?」

「え、いやだよぉ恥ずかしいし。つか、何? 今のもしかしてプロポーズ?」

「……ち、ちげぇし! あとサラッと恥ずかしいって言うな!」


 再び耳の後ろをボリボリと掻く栖虎を見て、璃玖は気がついた。

 あ、これ、ちょろい感じの人だ……と。



 そんな他愛も無い会話を小一時間ほど続けていると、高速道路のジャンクションの看板が目に入った。


 すると妙なことに、今まで調子よく会話を弾ませていたレミが急に大人しくなる。


(先輩……もしかして)


 璃玖にはレミの態度の原因に思い当たる節があった。

 そこで、運転席の栖虎に声を掛ける。


「栖虎さん、俺、湖の見えるサービスエリアに行ってみたいです。東名なんで、少し遠回りになりますけど」


 道も遠回りだが、言い方も遠回し。

 本当は、璃玖には栖虎に避けてほしい道があったのだ。

 最短ルートを選択するとそちらを通ってしまうから、迂回(うかい)の提案をしたのだ。


 しかし。


「璃玖くん、もしかして私に気を使ってくれてる?」


 レミは勘付いていた。

 璃玖が自分を(おもんぱか)って迂回の提案をしたことに。


「大丈夫だよ。もう、吹っ切れてるからさ」

「レミ先輩……」


 レミの真後ろの席に座っている璃玖には彼女の表情を読み取ることは出来ない。

 だがその声色は明らかに先刻よりも一段暗い雰囲気を帯びていた。

 きっと本心では、あの道を通ることは嫌な記憶を思い出してしまうトリガーに違いない。


 すると栖虎が言った。


「バッカ、お前、全然吹っ切れてねぇじゃん。泣きそうな顔しやがって、全く」

「──別に、大丈夫だし。つかさ、栖虎は何の話か分かって言ってるの?」


 レミもそう言い返す。

 栖虎は真っすぐに前だけを見つめ、呟いた。


「知ってるよ。新東名って、例の事件の現場だろ?」

「……なんで知ってんのよ」

「前にお前がベロンベロンに酔っぱらったときに号泣しながら語ってたからな」

「うわ、最悪。覚えて無いわ」


 レミが盛大な溜息を吐いた。


 ここから目的地へ向かう最短ルートである新東名高速道路、その道こそ二年半前にレミの想い人が殺害されたバスジャック事件の現場なのである。

 厳密にいえば今走っている道もジャックされたバスが走ったコースではあるのだが、やはり命を奪われた直接の現場には特別に抱く感情があるのだろう。


「で、どうする? オレは別にどっちでもいーけど」

「……わ、私は」


 レミが何かを言いかけた時、璃玖の隣から声が掛かる。


「ねえ、湖って、もしかして浜名湖?」


 ソラが前のめりになって尋ねてきたのだ。


「う、うん。そうだけど」


 璃玖が問いに答えると、ソラは言った。


「わたし、行ってみたいな。今調べたんだけど、そのサービスエリアって恋人の聖地があるんでしょ? 璃玖と一緒に写真を撮りたい!」

「恋人の聖地?」

「そ。ねえ、折角(せっかく)だから行ってみようよ。レミ、良いでしょ? わたし、璃玖との思い出を一つでも多く作りたいんだよ」


 ソラはどうしてか必死に訴えかけていた。

 璃玖との思い出、大切な恋人との思い出を、より沢山作っておきたいという彼女の願い。


「──だ、そうだけど。どーする?」


 栖虎が意地悪くにやけながら尋ねるのに、レミは苦笑しつつ応える。


「仕方ないね、可愛い妹の頼みだし」

「オーケー。じゃあ、このまま行くぜ」




 こうして車はジャンクションの分岐を無視し、直進方向を取った。


 左へ別れた連絡道路が、対向車線から伸びてきた道を飲み込みつつ、やがて交差する高架に吸い込まれていく。

 璃玖たちの乗る車は、その高架の下を緩やかなカーブを描きながら通り抜けていった。


 新東名との交差の瞬間。

 璃玖は後部座席から目撃してしまった。

 レミが、高架の先に向かって小さく左手を振る様を。

 ──ばいばい。

 ガラスに映り込んだレミの口元が、別れの言葉をなぞるのを。


 璃玖は考える。

 本当は、レミはあの道を通りたかったのではないだろうか。

 かつて想い人が散った場所に行くことは、もう一度彼に出会うことに等しい。

 そんな気分だったのではないだろうか。


「ねぇ栖虎、見て見てぇ。恋人の聖地ってハート形の南京錠が売ってるんだって。願い事を書いてフェンスに掛けると良いらしいよぉ」

「バカ、運転中に端末見せられてもよそ見できねぇって!」


 璃玖の心配とは裏腹に、レミはいつもの明るい調子に戻り、にこやかにドライブを楽しんでいる様子だった。

 璃玖はひと安心してシートに深く体重を預ける。


(願い事、か)


 璃玖はソラの顔を見た。

 彼女は璃玖の視線に気付くと、小首を(かし)げて微笑んだ。

 ……可愛い。


(ま、俺の願うことなんて一つしかないか)



 ──およそ一時間後。


 璃玖はソラと共にハートの南京錠にメッセージを書いた。

 何の相談もしなかったが、二人の想いは同じだった。



「ずっと一緒にいられますように」

前へ次へ目次