Scene1-1 引っ越し準備と女の子の日
金曜の夕方、樫野家の居間にあるソファの上。
璃玖にピタリと密着していたソラは、その頬を彼に擦り付けながら言った。
「りーく♪ えへへー、りくー♡」
さながら、マーキングである。
一方の璃玖も、同じノリでソラの頭をくしゃくしゃにする。
「うっへへー、ソラー♡ って、バカップルか!」
「バカップルですけど何か?」
「……まあ、二人きりの時は良いんだけどさ」
交際初期の頃は、ソラが子供をねだってくるなどしてどこか迷走しているような二人だったが、しばらくするとソラの要求がパタリと止み、以降は健全なお付き合いを続けている。
もちろん健全な高校生らしく、多少のイチャラブがあるのはご愛嬌だ。
「ねえ璃玖、明日からの旅行、楽しみだねぇ」
「旅行……まあ、旅行か。手伝いの方もよろしくな」
「はぁい! ふっふっふ、璃玖の部屋行くのも楽しみなんだぁ」
「楽しみがたくさんあってよろしいことで」
今は三月の初め。
受験を無事に終え、志望校への進学を控えた璃玖は引っ越しの準備を進めている。
明日からの土日を利用して、県境を二つも跨いだ先にある璃玖の新居に細々した荷物を運び入れ、ついでに登山も楽しもうという計画なのだ。
「ねえ、今日はここに泊まっちゃだめー?」
「明日から泊まりで出かけるのにか」
「……だって、旅行中は二人きりじゃないし」
ソラは不満げに口を尖らせる。
それもそのはずで、明日からの行程にはもれなく同行者が付いて来るのだ。
荷運びという第一目的のためには自動車が必須。
入試後すぐに免許取得に動いた璃玖だったが、若葉マークの状態でレンタカーを借り、慣れない長距離運転をすることは親に全力で止められた。
──と、いうことで。
「私が来たよぉ☆」
翌朝の陽も昇らない早朝。
颯爽と現れたのは、ソラの姉、レミであった。
白み始めた空の下、彼女は璃玖の家の前に横付けされた乗用車の助手席から、家の前で待っていた璃玖に向かって手を振った。
そう、彼女がいるのは助手席だ。
車自体はレミの所有する白いステーションワゴンなのだが、運転しているのは璃玖の知らない男性だった。
パーマのかかったアッシュグレーの髪、キリリと吊り上がった眉に睨みつけるような目つき、不敵に笑う口元にはよく目立つ犬歯。
狼みたいな印象の人だ、と璃玖は思った。
レミとその男性は車から降りてくると、二人揃って大きく伸びをした。
「先輩のお友達って聞いてましたけど、男性の方だったんですね」
「そだよぉ。私こんな性格だから女友達少ないし。いたとしてもビッチ友達だしねぇ」
「びっち……」
レミの言葉に唖然とする璃玖。
そこに声を掛けてきたのは灰狼の男性だった。
「ふはは、コイツ大学でも手当たり次第に男に手を出すからさぁ、まともな女は皆引いちゃうんだよ! あ、オレのことはストラって呼んでよ。ヨロシクな、璃玖くん!」
璃玖の肩に力強く手を乗せて、男は笑った。
璃玖は彼を見上げながら、少し緊張した面持ちで挨拶をする。
「はい。今日明日とよろしくお願いします、ストラさん」
璃玖は内心、ストラを苦手なタイプだと思った。
溢れ出る『陽』のオーラがそう思わせたのかもしれない。
大学でいかにも遊んでいそうな感じがするのだ。
「ところで、ソラは?」
「おん? ソラちゃん? そこそこ」
璃玖の質問にストラは親指で後部座席を示す。
璃玖がガラス越しに車内の様子を探ると、ソラは後ろの座席に座ったままドアへと寄りかかり、目を閉じているのがわかった。
眠っているのかもしれない。
するとレミは呆れ顔で言った。
「ソラ、昨日璃玖くん家に泊まれなかったことで機嫌損ねててさぁ」
「まじですか」
昨晩は璃玖の家に泊まりたがっていたソラだったが、結局、両親から許可が貰えずへそを曲げたまま帰っていった。
『土日に泊りがけで出かけるのだから、前日くらいは遠慮しなさい』ということらしい。
そうでなくとも、女の子になってしまって以来、ソラの外泊は色々と制限が厳しくなっているのだ。
レミは璃玖にそっと耳打ちする。
「それに、たぶん今日あれの日だと思う。ナプキン用意してたし」
「え、明日の登山は大丈夫なんですか」
「本人の体調次第じゃない? たぶんそれもあって機嫌が悪いんだよ」
ソラにとってアウトドアは心からの愉しみであり、もしも自分の生理が理由でキャンセルとなればさぞ悔しいだろう。
そうでなくともホルモンバランスが乱れてイライラしているはずなのである。
「だからとにかく今日は優しくしてやってね。キレられても面倒だし」
「心得ました」
いつもは軽口を叩いてしまう場面であっても、今日はうんと優しく接してあげなければ。
肝に銘じる璃玖なのであった。
……およそ五分後。
車のラゲッジルームに璃玖の荷物を運び入れ、いよいよ目的地へ向かって出発することになった。
時刻は間も無く七時、太陽も顔を出す頃合いだ。
黄色い光に導かれるように、車は一路、東を目指す。
「ストラさん。貴重なお休みに車まで出していただき、ありがとうございます」
「良いって良いって。オレはドライブが好きだし、アウトドアってのももっと経験したいし」
「興味があるんですか?」
「んー、ぶっちゃけレミの趣味はちゃんと理解しておきたいって感じかな」
ストラが言うと、レミは鼻で笑い、
「何言ってんのよ、ばか」
そう、呟くのだった。
(なるほどね)
ストラの一言で、璃玖は勘付いた。
彼が興味を抱いているのはアウトドアではなく、レミ個人だと。
その考えに至ってあえて色眼鏡で彼を見てみれば、なるほど、レミと会話している時のストラは少しばかり表情が綻んで、狼というより犬っころのようだった。
対するレミは素っ気ない仕草を見せるも、どこかじゃれて来るペットをあしらう感じに捉えられなくはない。
なんだかお似合いな二人だな、と、璃玖は心からそう感じるのだった。
今の自身にはソラという大切な存在がいるからだろう。
かつての想い人に春の訪れを感じても、璃玖の心が動揺することはなかった。
むしろ彼女を祝福するような気分で、璃玖は前方の席にいる二人の掛け合いを眺めていた。
「ねえ、璃玖」
隣から小さく声が掛かり、璃玖はチラリと横を見た。
先程までだるそうに目を閉じていたソラが、薄く目を開けて璃玖を見つめていた。
「どした? やっぱ調子悪いのか」
璃玖が尋ねると、ソラはゆっくりと体を起こした。
「まあ、少しね。車乗る前に飲んだ薬がやっと効いてきた感じ」
「良かったら、俺の上着使うか?」
「ん。ありがとう」
璃玖は羽織っていたアウトドアジャケットをソラのお腹の上あたりにかけてやった。
彼女は愛おしそうにそれを抱いて、ふっと笑みをこぼす。
それは、今日のソラが初めて見せた表情らしい表情。
璃玖が車に乗り込んでから今まで、ソラはずっと無表情だったのだ。
「ねえ、璃玖。それよりさ」
「ん?」
ソラは璃玖の耳元まで顔を寄せ、手で口元を隠しながら囁いた。
「前の二人のこと、どう思う?」
「前の二人って、レミ先輩とストラさんのこと?」
ソラは少しだけ首の角度を下げた。
肯定、ということらしい。
「どう思うって、質問がざっくりしてるけど、まあ普通なんじゃないか?」
「何とも思わない? 腹が立ったりしない?」
「……うん?」
ソラの意図が全く理解ができず、璃玖はただただ困惑する。
ソラが声をひそめて話しているのは、きっとレミ達本人には聞かれたくない内容を含んでいるからに違いない。
それが故に、この場でソラの真意を尋ねることは憚られた。
璃玖はソラの表情から意図を察するしか無いのだ。
「──何も感じないなら、いい」
璃玖が戸惑っている間に、ついに彼女はそっぽを向いてしまう。
璃玖は一瞬気まずい空気を感じた。
だが、どうもソラは怒っているわけではないらしいことがすぐにわかった。
彼女は膝を抱えるように璃玖のジャケットを抱き込み、とろけきった表情で呟いたのだ。
「へへ、りくのぬくもりー」
「はぅッ」
可愛らしさの不意打ちに思わず身悶える璃玖であった。