幕間 どこかの世界にいるキミへ
そこは、シックなデザインの落ち着いたカフェバーであった。
コンクリートの打ちっぱなしの空間に木目調のカウンターを設え、琥珀色の照明と観葉植物がこれらを彩っている。
立ちこめるは焙煎されたコーヒー豆の香り。
一方でカウンターの上には逆さまになったワイングラスがいくつも吊られ、奥にはウイスキーやブランデー、リキュールの瓶がずらりと並んでいる。
昼と夜とで業態を変える店らしい。
細いスリットのような曇りガラスの彩光窓から差してくるのは白い光。
そのスリットの前を一瞬人影が過った次の瞬間、カランという音がして店の扉が開いた。
ステンドグラスのような色ガラスのあしらわれた木製の扉から現れたのは一人の女性。
栗色の長い髪。
物憂げな灰色の瞳だ。
「あれ、橋戸ちゃん。今日はバイト入れてなかったはずだけど、どした」
カウンター内にいた四十代そこそこの男性が、驚いた調子で声を掛ける。
レミは疲れを吐き出すように大きく呼吸をしつつ、カウンター席へ腰を下ろした。
「なんか飲まないとやってられなくて。店長、なんでもいいから一杯ください」
「今の時間帯は喫茶店だよ。ココアでも出そうか」
「コーヒーが良いです。おもいっきり苦いの」
「じゃあ、深めに淹れよう」
しばらくして差し出された一杯のコーヒーを、レミは口に含んだ。
小さく「美味しい」とだけ呟くと、彼女は肘をついてカップの柄を見つめ始める。
覇気のない表情を黒い液面に映す彼女を見て、店長は尋ねた。
「明日は二十歳の集いだってのに辛気臭いねぇ。橋戸ちゃん、何かあったの」
レミはふっと笑みを溢す。
鼻で笑うような、自嘲的な笑みを。
「ありましたよ。この二年半で、色々と」
二年半と聞いて、店長の顔色が変わる。
少し寂しそうな視線を、彼は彩光窓に投げかけた。
遠くを見つめる瞳だった。
「私、実は少し前から気になる男の子がいたんですよ。その子は拓人にどこか似ていて、超が付くほどの真面目人間でした。だけど私は素直になれずに、その子にウザ絡みしたり、体で迫ったりと無茶苦茶やってしまいました」
「それで落ち込んでいると」
レミは首を横に振る。
「私と彼とは、きっとはじめから結ばれない運命だったんですよ。『俺は四季島先輩の代わりじゃない、ちゃんと自分を見て欲しい』って、怒られちゃいました。私が自分を四季島拓人の代用品にしているって、彼にそう思われてたみたいです」
「あいつの代わりねぇ」
「……否定はできませんでした。実際、私は拓人のことを今でも好きですから」
レミは二口目のコーヒーを飲もうとカップを持ち上げ、そして動きを止めると、何もせずに元に戻した。
液面が丸く波紋を作り出し、そこに反射する彼女の表情も背景に溶かされていく。
「つい最近、その男の子は別の子と付き合い始めました。はは、それはもうお似合いですよ。ああ、運命ってこんな感じか、って思えるくらいには。……だけど二人して悩みをうじうじと抱え続けてるというか。それでさっき口出ししちゃったんですよねぇ」
「そう言う君だって一人で抱え込むタイプじゃないか」
店長の指摘に、レミは目を細め、舌を出す。
とぼけたように「えぇ~? そう見えますぅ?」なんておどけて見せるも、すぐに目を伏せ喉をすぼめてクク、と笑った。
「なぁんてね。わかってますよ。私なんかうじうじ系の最も拗らせたタイプ、割り切ったつもりで自暴自棄に走るダメ人間ですから……だから、ちょっとだけ、自己嫌悪ですね。まともな人間じゃないはずの自分が、何を偉そうなことを言ってるんだって」
「まともな人間じゃないとは、自分を卑下しすぎやしないかい」
「ははは、だって私、世間一般で言うところのビッチですよ。もっと下品な言い方をすれば、ヤリマンってやつです。まともな人間なはずがないでしょう」
肩を竦めて苦笑いするレミに、店長は呆れ声で呟いた。
「まあ、そう思い込むのは自由だがね」
彼はカウンターの奥からもう一つカップを取り出すと、自分にもコーヒーを注ぐ。
そのままカウンターに体重を預けるように寄りかかり、カップを口へ運んだ。
数口飲み下し、彼はレミへは目を向けずに言った。
「俺には橋戸ちゃんが積極的に『まとも』から逃げているように見えるよ」
「あー、わかりますか」
レミは気まずそうに顔を歪めた後、もう一度苦笑した。
そうして再びコーヒーを口に含む。
何故か先ほどより少し苦く感じたため、彼女は角砂糖を一つカップへ落とした。
「罪の意識から逃げたかった、んだと思います。それで、心の繋がりを探して、安易に体の関係に走った。そんな私が、はは、お説教だなんて」
ティースプーンでカップをゆっくりとかき混ぜる、レミの指の動きが、止まる。
「……どの口が言ってんだ、ほんっと、気持ち悪い」
──どうせなら初めから薄っぺらい人間に生まれてきたかった。
──心からのヤリマンビッチでありたかった。
妙なところでレミは、真面目だ。
「橋戸ちゃんさ、過去という『枷』はもう外して良い頃合いなんじゃないかな。君がこんなカオをしているところなんて、あいつも見たくないだろうしな」
「私のせいで拓人は死んだのに、忘れる事なんてできませんよ。店長だって、本当は嫌でしょう? 息子の死の原因を作った女が幸せそうにのうのうと暮らしているなんて」
店長──四季島拓人の父は小さく笑った。
「なぁに、俺は橋戸ちゃんが拓人の死の原因だなんて思っちゃいないし、あいつの死に縛られ続けているのを見ているほうが悲しいよ。こっちが加害者みたいに思っちまう」
「そういう、もんですか」
「そうだとも」
二人は同時にコーヒーを煽った。
一気に飲み干した店長と、味わうようにゆっくりと喉を動かすレミ。
飲み方は違えど、顔を上げた時にはもう、二人は少しだけ明るい顔付きになっていた。
「そういえば最近、変な夢を見たんだよ。真っ暗な空間にやけに綺麗な女が立っていてな」
「店長も欲求不満ですねぇ」
「しかも、目が三つもある」
「何それ、気持ち悪」
「とにかく、その夢の中の三つ目女が妙なことを言うんだ。うちの拓人が、どこか別の世界で生まれ変わって琴音ちゃんと暮らしているってさ」
「ふふふ、何ですかそれ」
店長は困ったように頬を掻いた。
「俺も馬鹿げた夢だと思うけどね。でも、そう考えるのも良いじゃないか。あの子たちは、今も幸せなんだって。そしていつかどこかでまた巡り合うことがあったなら……俺はちゃんと胸を張って生きている姿を見せてあげたい」
「胸を張って……ですか。そう、ですね。そうですよね」
ちょうどその時、店の扉が開いて数名の客が入ってくる。
店長は接客モードへ切り替わって、レミの前から去っていった。
扉から流れ込んでくる冬の冷たい空気がレミの背中を包む。
しかしレミはカップに触れる指先からじんわりと伝わる温もりに、言いようのない安心感のようなものを覚えた。
コーヒーの香りと店の雰囲気が、落ち込む彼女の気をうまく紛らせてくれたのだろう。
「生まれ変わり……か」
レミは心の中で彼に語り掛ける。
──ねえ拓人、キミは今、どこかの世界で琴音さんと幸せに生きているのかな。
最近ね、思うんだ。
ソラと璃玖くんの関係って、キミ達の夢の続きを見ているみたいだなってさ。
だからこそ応援したくなっちゃうんだよね。
馬鹿な私だけど、今度は道を間違えずにあの子たちの助けになってあげようと思う。
いつの日か、どこかでキミと巡り合うことが出来たなら。
その時は成長した私を見てほしいな──。
カラン。
また一人、店に客が入ってくる。
寒い寒いと手を擦りながら。
レミは振り返り、開いた扉から外の景色を垣間見る。
白い雪が、ちょうど街路樹の根元に薄化粧を施したところだった。