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幕間 『繋がれる』相手

「ねえ璃玖(りく)

「なんだよソラ」

「わたし赤ちゃんが欲しい」

「……はぁぁああ!?」


────

──


「……なんてことがあったんですよ」


 年も明けた一月十三日の日曜日。

 共通テストまで残り一週間弱という追い込みの時期にも関わらず、璃玖の姿は遊技場にあった。


 (さび)れたゲームセンターの片隅(かたすみ)、薄暗い区画にひっそりと置かれたダーツマシン。

 マシンの手前に置かれた円形のカウンターテーブルに寄りかかりながら、璃玖は缶コーヒーに口をつける。


 彼の見つめる先には栗色の長い髪。

 璃玖に背を向けたその人物は、半身になって前脚に荷重(かじゅう)をかけ、紙飛行機を投げる要領でダーツを構えている。

 真っ直ぐに伸びた背中と、地面と平行になるまで持ち上げられた上腕が美しいフォームを形づくり、細い指先から放たれたダーツは緩い放物線を描き、明後日(あさって)の方向へと吸い込まれていく。


「相変わらず姿勢は綺麗なのにノーコンですよね、レミ先輩」

「うっさいなぁ。君が相談したいっていうから付き合ってあげてるのに、もう聞いてあげないぞぉ?」

「ぐぬぬ」


 栗色の髪と灰色の瞳が特徴の麗人──橋戸(はしど)レミは枠外に落ちた三本のダーツを回収すると、カウンターテーブルまで戻ってきた。


「で、何だって? うちのソラが赤ちゃんをねだってくるって?」


 璃玖は首肯(しゅこう)した。


 璃玖とソラの交際は始まったばかり。

 だというのに正月の初詣(はつもうで)を終えて璃玖の家まで帰ってきた時、ソラは突然子供が欲しいと言い出したのだ。


 いくらなんでも早すぎである。

 色々な意味で。


「作っちゃえばいいんじゃないの? 今すぐにっていうのは急ぎすぎだとは思うけどさぁ。あ、それちょーだい」


 レミは璃玖の返事を待たずに缶コーヒーを奪うと、迷わず一口分を飲んでしまった。

 返すときにわざわざ「間接キスぅ♡」なんておどけて見せるレミに、璃玖は溜息をもらす。


「俺カノジョいるんでそういうのはちょっと」

「カノジョいる人間が女の子と二人で出かけてる時点でアウトだっつーの♪」

「……他に相談できる人がいなかったんですよ」


 性に関わるデリケートな相談を、レミ以外の誰にできようか。

 ソラの性格を熟知していて、それなりの返答が期待できそうな人物を、璃玖は他に知らない。

 ちなみに璃玖が電話口で相談を持ち掛けようとしたら、レミによって(なか)ば強引に連れ出されたというのがこの場所にいることの真相である。


「俺だって将来的には子供も良いなって思いますけど、あいつは何故か今すぐに欲しいって言うんですよ」

「えっちしたくて、その口実とか?」

「うーん、違うと思います」


 璃玖はテーブルの上のダーツを掴み、ダーツボードの手前のラインに立って構えた。

 トン、トン、トン。

 テンポ良く三投を決めると、彼はボードに刺さったダーツを片手で一度に引き抜く。


「おお、百点超え(ロウトン)

中心(ブル)狙うだけなら割と得意ですからね」


 テーブルまで戻ってきた璃玖は缶コーヒーの残りを飲み干した。

 その時レミがニヤリと笑ったのを見て、しまったと思う。

 この缶は先程レミが口を付けたのだった。


「ねえ、さっき『違う』って言い切ったのは何故かな?」

「何がです?」

「ほら、子供をねだるのはえっちの口実じゃないって」

「……ああ」


 璃玖はソフトダーツの針先の(ゆが)みを指で直しながら、レミの目を見ずに答える。


「できないんです。俺ら。最後までしようとしても、どうしてもできない」

「え、璃玖くん──まさか」


 レミが口元を抑えて目を丸くするのを、璃玖は見逃さなかった。

 人を憐れむような目で見つめるレミの視線に、何か誤解されているのではないかと璃玖は心配になる。


「言っときますけど、俺は何も問題ないですからね。問題があるのは、たぶん」

「ソラの方?」

「だと、思います」


 璃玖はやや迷ったが、レミに事情を打ち明けることにした。

 もしかするとソラが子供を欲しがる理由もそこにあるかもしれないからだ。


「しよう、とはなるんですよ。実際に直前まではいきますし。でもいざとなるとソラの体が酷く強張(こわば)って、ガタガタ震え始めちゃって」

「初めてが痛いっていうのを知ってるから、怖くなっちゃってるとか」

「……それならまだ良かったんですけど」


 璃玖は天井を見上げて大きく息を吐いた。

 どこまでをレミに話すべきかを少し悩む。

 二回ほど深呼吸を繰り返し、彼は結局全部を伝えることにした。


「ソラの内面が男の子のままだってのはわかってますよね?」


 レミは真顔になると、やや顔を伏せた。

 どうやら心当たりがあるらしい。


「最近は一人称も変えて、より女の子として振舞(ふるま)ってますし、実際随分(ずいぶん)慣れてきたと思うんです。だけど、本番となるとどうしても本当の性別が邪魔をする。自分が男であることを嫌でも認識してしまうから、それで全部を閉ざしてしまうのではないかと、俺はそう考えてます」


 璃玖の言葉に、レミは何も言い返さない。

 それは彼女の考えが璃玖の見立てと同じであることを暗に示唆(しさ)していた。


「それなのに『赤ちゃんが欲しい』って言うのは、やっぱりソラの不安定さの現れなんですかね。心だけじゃなくて身体でも結ばれたい、けど心がブレーキをかけるからそれもできない、その歪みが極端な考えを産んでしまったのかも」


 璃玖の話を一通り聞いたレミは、テーブルに腕を乗せて体重を預け、髪を(いじ)りながら言った。


「私はソラの気持ちもなんとなくわかるなぁ。ソラはさぁ、自信がないのかもね。璃玖くんと結ばれたはいいけど、そうやってセックス一つできない自分がこれからも愛してもらえるか不安なんじゃないかな」


 彼女は床のタイルを見つめ、自嘲(じちょう)的に口角を上げる。


「……それで身体を求めて、ドツボにハマっていくんだ。ハマり方は私とソラとでは違うみたいだけど」

「俺はどうしたらいいですか」


 低く、小さい声で迷いを口にする璃玖の、長く伸びてきた癖毛(くせげ)をわしわしと掌で(さす)りながら、レミは優しい顔つきで言った。


「単純だよぉ。目一杯、愛してあげればいいんだ。ヤラシイ意味でも、ちゃんとね」

「でも、それが難しいって話で──あいたッ!?」


 不意にレミからデコピンを食らった璃玖は大きく()()った。

 長く伸ばしていた彼女の爪が眉間にクリーンヒットし、いきなりの痛みに軽く涙が出るほどだった。

 レミはクライミング経験者。

 何気に指の力はそれなりに強いのである。


「バカ。何も肉体的に繋がるだけがセックスじゃないでしょぉ?」

「……ええと?」


 戸惑(とまど)う璃玖に、レミは溜息を漏らす。


「はぁ。璃玖くんも、たぶんソラもだけど、発想がやっぱり男性的なんだよねぇ」

「と、言うと……?」

「いれて、気持ちよくなって、だすだけがセックスだと思ってる。だからうまく出来ないと焦って余計にうまくいかなくなるんだよ」


 レミはカウンターテーブルを離れ、璃玖に背を向ける。

 天井の方を見上げて、彼女は続けた。


「『繋がる』って、そういうことじゃないと思うんだよね。…… 私はね、ずーっと『繋がれる』人を求めてたよ。いろんな人に手を出して、それをずっと捜してた。だけど、どの男もみんな同じ。肉体的に気持ちよくなって、それで終わりなんだ。心が気持ちよくなれるように導いてくれなかった。私の心は、ずっと乾いたまんまなんだよ」


 気が付けば、レミは自らのシャツの(すそ)を握りしめていた。

 璃玖からは彼女の表情を窺い知ることはできない。

 しかしきっと、その視線の先には今は亡き男性の姿が映っているのだろうと、璃玖は思った。


「二人にはさ、目の前にいるじゃん。『繋がれる』相手が。入れられない、濡れない、どうだっていいよ。裸になって、抱き合って、愛を囁き合って、キスをして、それで終わる。それで十分なはずでしょ?」

「それで、ソラの不安は取り除けるでしょうか」


 その問いかけに、レミは軽く首を横に振ってから璃玖へと見返る。

 どこか寂しそうな目つきは、彼女もまたソラの心情をはかりかねていることの表れか。


「あの子の抱えている問題がそれで解決するかはわからないよ。だけど、そうやって身体を重ねていくことで、いずれちゃんと最後までできるようになるかもね」

「あとは俺の覚悟次第、ってことですね」

「そ♪ 頑張ってねぇカレシくん?」


 レミはペン立て中のハウスダーツを手に取ると、ラインに立ってボードへ投擲(とうてき)をする。

 相変わらず明後日の方向に飛んでいく中で、一本だけが二十のトリプルに突き刺さった。

 ボード上の一本と、床に転がった二本のダーツを拾いながら、彼女は自分だけに聞こえるくらいの声で呟いた。


「……何を焦っているんだよ。ソラも、私も」

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