Scene2-4 “可愛い”
土日が明け、再びいつもの日常が始まった。
璃玖はいつも通りに授業を受け、いつも通りに友達と談笑をして、いつもよりも心持ち早くに帰宅した。
家に着いた彼は着替えもそこそこに電話をかけ始める。ディスプレイに表示される名は橋戸ソラ。璃玖にとっては大事な後輩男子……だった存在だ。相手が応答すると、璃玖はスピーカー通話に切り替えて、制服を脱ぎつつソラに声をかけた。
「検査結果、どうだった?」
『【性転換現象】、聞いていた通りです。何も、わからないって』
電話越しに聞こえるソラの声色は彼の酷く落ち込んでいる様をはっきりと感じ取れるほどだった。
女性の姿になってしまったソラはその日のうちに病院へ行ったが、案の定なんの解決もできぬまま一週間の検査期間を無駄に過ごした。
しかも、検査が終わるまでは外部との接触もできない面会謝絶状態のため、こうして電話越しに話すことしかできない。家族ですら同じ対応であるらしいので、つい最近まで中学生だったソラが不安がるのも無理はない。先の見えない恐怖と孤独に耐えられるほどソラの精神は出来上がっていない。
『センパイ。ぼく、どうなるんですか。もうずっとこのまま……』
その問いの答えは、ソラ本人がとうにわかっているだろう。だが、聞かずにはいられない。誰かに優しい言葉をかけてもらわなければすぐにでも発狂してしまいそうなほどに、精神が疲弊しているのは明白だった。
「医者はなんて?」
『性別が戻った事例は一つもないんだ、ってことしか言ってくれなくて……。はぁ、どうしてぼくが、こんな目に』
ソラは焦りと不安、そして怒りを抑えることが難しくなっていた。それは、自分の運命に対する怒りであり、“性転換現象”という理不尽に対する憤りである。
「俺、あれから少し調べたんだけどさ。性転換ってのが目立つからよく言われるだけで、体格が変わったり、血液型が変わったりしてる人もいるらしい」
『そうらしいですね。どれも結局元には戻らないみたいです』
「……みたいだな」
一度体が変化してしまったら、もう手の施しようがない。変化後の状態を受け入れることを強制される、これはそのような恐ろしい呪いのようなものだった。
故に、ソラはこれから女として生きていくしかない。ソラ自身もそのことは理解しているし、仕方のないことだと思っている。
だが、厄介なのはこの現象によってもたらされる変化は肉体面に限定されることだ。つまり、体の性は変異するのに、心の性はそのままなのだ。これは人間関係に大きな影響を及ぼすに違いない。
「……あのさ、こういうことを軽々しく口にするなって思うかもだけどさ」
『はい』
「いつか、元に戻る方法が確立されたら良いな」
『ふふ、同感です』
ソラ声に少しだけ安堵が混じる。自分が電話したことでソラの気が紛れたなら良かったと璃玖もほっとした。
「来週から学校、来れそうか?」
『頑張って、みます。だけど……登校の時、一緒にいてくれると有難いです』
「ああ。わかったよ」
その後、二、三言交わしてから通話を終えた。璃玖は制服のネクタイを外すと上を向き、大きく息を吐いた。
一つだけ、ソラに言わなかった事実がある。実は既に、学校でソラの性転換が噂されているのだ。
はじめにその話をしてきたのはアウトドア部の後輩だった。廊下ですれ違った時、興奮した様子で聞いてきたのだ。「先輩。ソラが女になったって話、本当ですか」と。もちろん、璃玖は周りに吹聴するような真似はしていない。そこで噂の出所を探ってみたところ、誰かが職員室内での教師たちの会話を盗み聞きしたらしいことが判明した。
「つまり、先生の中でもソラの扱いをどうするかって話になってるってことだよな」
璃玖は頭を抱えた。ソラが女になってしまったことはいずれバレる。だから、事前に噂が蔓延ってしまったことは仕方がないことで、それはどうでも良い。しかし、このことがいらぬ偏見や差別を生むことになりはしないかと、璃玖は一抹の不安を拭いきれないでいた。
***
さらに一週間が経過し、また月曜日はやってきた。五月も後半、空は生憎の雨模様。
ソラの家の前まで迎えに行くと、玄関先には既に彼──いや、彼女が立っていた。今まで通りの男子の制服を着て、遠目からは何も変化がないように思える。だが近くで見れば、女性の顔つきになっているのは明らかだった。元が美少年だったからか、女になった今では、すれ違ったら振り返らない男はいないだろうと思われるほどの可憐な姿に変貌していた。
「おはよう、ソラ」
「おはようございます、璃玖センパイ」
ペコリと頭を下げるソラに、璃玖は一瞬どきりとしてしまう。何故なら、彼の想い人であるソラの姉の面影が、女になったことで以前より一層濃くなっているからだ。璃玖は、心の中で両頬を叩くイメージをした。切り替えなければ。彼を彼女として扱ってしまえば、余計にソラを傷付けてしまうだろう。
するとその時、ソラの家の玄関の扉が開いた。中から出てきたのは明らかに白人系の血の入った一人の中年女性、ソラの母親だった。
「あんたこれ、午後から降るって」
そう言ってソラに雨傘を手渡した彼女は、璃玖を見留めると優しい笑みを浮かべた。璃玖が会釈をすると、彼女は言う。
「璃玖くん、ソラをお願いね」
「はい。任されました」
親御さんに託されたのだから責任は重大だ。璃玖はソラの方に向き直り、目が合うと、力強い眼差しで頷いて見せた。
「行こう、ソラ」
「はい」
こうして曇り空の下、二人は並んで歩いた。会話も無く、どことなく寂しい通学路だった。
────
──
混雑気味の電車を降りると、ソラの機嫌がどうしてか少し上向いていた。ソラは璃玖に白い歯を見せると目を細めた。
「センパイ、ぼくが押しつぶされないように電車の中で腕を突っ張ってくれてましたよね。あれ評価高いですよ」
「お、おう……そうか?」
璃玖はただ、今のソラはあまり他人に体を触れられたくないのではないかと思っただけだ。いくら男子の制服を着ていても、接触すれば誰もがその柔らかさに気が付くはず。女の体というだけで痴漢の被害に遭うかもしれないのだ。
「ぼく、性転換してから一番気になったのは、やっぱり筋力の無さなんですよね。トレーニングすればある程度復活できるかもしれませんけど、現状は駄目です」
「ああ、さっきも俺にしがみついてたしな」
「へへ、やっぱりセンパイと一緒に登校して良かったです!」
瞬間。笑うソラの横顔に璃玖の目線は自然と吸い寄せられる。どことなく儚さを感じさせるような、同時にとても眩しい表情。華麗さの中にすぐにでも弾けてしまいそうな不安定さがあって、目を離すことが出来ない。璃玖の心の中を駆け巡るのは、そんな不思議な感覚だった。
「……センパイ?」
見つめられていることに気が付いたソラは、璃玖の方へと顔を向けた。慌てて正面に向き直る璃玖。彼の視界の端に、首を傾げるソラの様子が見え隠れする。ごく僅かの視覚情報でさえ、璃玖の胸をざわつかせるのには十分だった。
「(な、なんだ、これ……?)」
心臓と肺の間の空間がまるごと疼く様な、奇妙な感覚。名前もよくわからない感情が、璃玖を戸惑わせる。この気持ちは何だろう。この衝動は何だろう。璃玖の思考はソラでいっぱいになっていた。
「(いや、何を考えているんだ俺は。ソラは俺の後輩で、男友達だぞ。妙な気分になっては、だめだ)」
喉まで出かかった言葉をぐっと飲みこみ、璃玖は学校への道を急いだ。緩やかな坂道を、足早に歩く。璃玖の歩みがあまりに速いので、ソラは付いて行くのがやっとなほどだった。だがそうやって誤魔化していかないと、零れてしまいそうになるのだ。璃玖の想いが。あの言葉が。
「ちょ、ちょっとセンパイ! おいてかないでくださいよ!」
ニ、三歩、小走り気味に璃玖を追いかけたソラ。璃玖のシャツの裾を掴むと、上目で彼を見つめながら言った。
「もう、早いです。センパイ」
「!!」
少し上気したようなソラの表情に、璃玖は再び先刻の感情に襲われた。脳を焼き焦がすほどの、ソラに対する衝動。ぴしっ、と、心のどこかが決壊したような感じがして、璃玖はついに口を滑らせてしまう。
「──可愛い」
刹那。びゅうと強い風が吹き、街路樹をガサガサと揺らした。前兆なく吹いた風に、ソラは身を竦ませている。璃玖が漏らしてしまった言の葉はほとんどがかき消され、吹きちぎられた木の葉と共に空中へ溶けていく。
風が凪いだ。音が止んだ。ソラは何も言わすに璃玖の顔をじっと見つめたまま。璃玖が何も話さずにいると、ソラは小さく首を捻った。
良かった、さっきの発言は聞かれていないみたいだ……璃玖はそう考えることにして、校門への歩みを再開した。ソラの顔が心なしか赤くなっているのも、きっと気のせいだろう。
「センパイ。ぼくって可愛いんですか」
「────聞き間違いだろ」
ソラが今、意地の悪い微笑みを浮かべているのも、きっと気のせいに違いないのだ。