Scene2-3 その右手に、柔らかな感触
「うう……ッ」
「大丈夫ですか、センパイ」
夕方。自宅のトイレから部屋に戻った璃玖のあまりの顔色の悪さに、ソラは心配で声をかけた。背中をさすろうとするソラを手で制した璃玖は、ベッドの端に腰を下ろした。
「大丈夫。あのさ、下に行って母さんからお茶をもらってきてくれないか」
「お茶ですか? わかりました。待っててくださいね、センパイ」
部屋を出ていくソラを見送ると、璃玖は大きく息を吐いてベッドに身を預けた。
とんでもないものを見てしまった。ソラとワオンモールに寄った帰り道、自分の想い人であるソラの姉に偶然遭遇した。遭遇したと言っても、向こうはおそらく璃玖達に気付いてはいない。一方的な目撃だった。背の高い男性と連れ立って歩く彼女の姿を、そして、ラブホテルに仲良さげに入っていく姿を。
衝撃を受けた璃玖は、その場で激しく嘔吐した。ソラに支えられながら帰宅し、さっきトイレでもう一度吐いた。
「……そ、だろ」
昨日まで、彼女は璃玖に気のある素振りを見せていたのだ。「彼氏にフラれたから慰めて」と璃玖を自宅に呼びつけ、酔った勢いに任せて性的な行為に及んだ。それなのに、今日は別の男と。しかも今度は場所が場所なだけに、間違いなく一線を越えているだろう。
もちろん、ソラの姉の行動は倫理的に正しくはないものの、絶対的に許されざる行動というわけではない。璃玖とは正式に付き合っているわけではなく、一連の行動は彼女の自由恋愛の範疇である。だが高校三年になったばかりの璃玖にとっては、到底納得のできない恋愛の仕方だった。
「(俺の、せいなのか……? 俺が昨日最後までするのを拒んだから……)」
相手の悪意を信じたくないのもあって、璃玖はひたすらに自己嫌悪の沼に落ちていく。ありもしない反省点を探るのに、彼の心は一杯一杯になる。そのうちにオーバーフローした嫌悪感は、吐き気となって璃玖に襲い掛かるのだ。
「おぇ……ッ」
もう、胃の内容物は何も残っていない。だから彼はひたすらに嘔吐くだけだ。
「お待たせしました、センパイ。……大丈夫、ではないですね」
部屋に戻ってきたソラは、すぐさまタンブラーに入ったお茶を璃玖に差し出した。璃玖は体を起こしてそれを受け取ると、ほんの一口だけ飲み下した。お茶は、どうしてか少しぬるかった。
「冷たい方がよかったですか? お腹がびっくりしちゃうと思って、少しだけ温めたんですけど」
「いや、これで良い。ありがとうな、ソラ」
璃玖は礼を言う。先程まで何も喉を通る気がしないほどの絶不調だったのに、どうしてか一口のお茶だけで気力が戻ってきた。一気にタンブラー内の液体を喉へ流し込むと、空っぽのお腹いっぱいに温かなものが染み渡っていくような気分になる。無言で全てを飲み干して、ようやく璃玖は冷静に物事を考えられるようになった。
「センパイ」
ソラは顔をくしゃくしゃに歪め、まるで空気を食むように口を動かし、熱の篭った眼差しで璃玖を見つめた。璃玖にかける言葉が見つからない。それが悔しくて、でも、気持ちだけがとめどなく溢れてしまい、結果口だけをぱくぱくとさせることしかできないのだ。自分の姉の所業によって先輩が、いや親友が傷ついた。ソラもまた、自分自身に怒りの矛先を向けている。
璃玖は、唇を噛み、肩を震わせるソラに自分と同じ感情を見た。
────ダメだ。これではいけない、歳上の自分がしっかりしないと。
璃玖はベッドから腰を上げるとソラの肩に手を置いた。
「心配かけたな。もう大丈夫だから、気にするな」
気にするなと言われて、はいそうですかとあっさり受け入れるソラではない。璃玖も、そんなソラの性格など理解している。だから、こう続けた。
「いいかソラ。全部、レミ先輩が悪い」
「ふぇ?」
「あの人の事情も、俺たちは知っている。だから口に出すのを躊躇ってしまうけど、でも、間違いなく俺たちは悪くない。全部、男を取っ替え引っ替えしているレミ先輩のせいだ」
「……はは。まあ、そうですよね。すいません、うちの姉が」
落ち込んでいるときは、誰かのせいにしたほうが気持ちが楽だ。いつまでも悲しんでいるよりも、怒りに身を任せた方が立ち直りは早い……と、璃玖は考えている。だから個々人の事情は置いておいて、責任をこの場にいない人間に押し付けてしまうことにしたのだ。
「よぉしソラ! 今日はうちで夕飯食べていけよ。今夜はやけ酒じゃぁ!」
「センパイ未成年ですし、ご飯だってまずは親に聞いてみないと。まあでも、ぼくもご飯をご一緒できたら嬉しいですね。それから」
ソラは璃玖の髪の毛に手を伸ばし、優しい力で撫でた。少しだけ口元に笑みを浮かべて、ソラは言う。
「強がって無理をしなくていいんですよ。涙、拭いてください」
璃玖は、自分が涙を流していることに気がついていなかった。右目の側だけ、嘘を付けなかった感情が頬を伝い、顎先へと流れ落ちていく。左腕でそれを拭い取った璃玖は、自分の情けなさに胸が張り裂ける想いがした。
「悪い、ソラ」
「なんですか、センパイ」
「ちょっと、泣く」
ソラが大きく息を吸った。
「良いですよ。胸、貸しましょうか。頼りない後輩ですけど、それくらいは」
「馬鹿野郎、気持ちだけ受け取っとくよ」
璃玖はまたも強がって見せるが、そのうちに結局堪えきれなくなって、ソラの肩にしがみついて、泣いた。
✳︎✳︎✳︎
翌朝。近所で飼われている犬がやけにうるさくて、璃玖は目を覚ました。外はやや明るくなっているようだが、今は一年でも一番日の出ている時間が長い時期。目を擦りつつ時計に目をやると、案の定、時刻は五時を過ぎた程度だった。
「うわ、起きて損した……」
璃玖は寝返りを打とうとして、自分の隣にやわらかな感触があることに気が付いた。見れば栗色の髪をした人物がすやすやと眠っている。璃玖は寝ぼけながらも状況を整理しようと考えた。
「確か、昨日はソラに話を聞いてもらって、今度は逆にソラの愚痴を聞いたりして……そうだ、母さんが夜も遅いからソラに泊っていくように言って……」
と、璃玖はここまで記憶をたどって、ソラが隣で眠っていることに違和感を覚えた。
ベッドの下に目をやれば、そこには来客用に敷かれた布団がある。きっと夜中に寝ぼけて一緒のベッドに入ったのだろう。
璃玖は溜息を吐いた。
「起こすのも悪いし、俺が下に降りようか」
璃玖はのそのそと上体を起こし、体を捻って体勢を変える。
と、その時。璃玖の右手の上にやわらかな感触が覆い被さった。ソラが寝返りを打ち、今まさに体を支えようと突っ張ったばかりの璃玖の手の上にのしかかったのだ。
「むにゃ……センパイ……それはぼくのですよぉ……」
「こいつ、何の夢を見てるんだ?」
苦笑する璃玖。だが、ここで更なる違和感に脳が焼かれ、眠気もどこへやら、一気に思考が覚醒する。
何かがおかしい、気のせいではない。
確実に、何かが。
「なんだ、これ」
璃玖は違和感の正体を確かめるよりも前に、半ばパニックのような状態に陥っていた。何故ならば。
「ソラって、こんなに可愛かったっけ……?」
心臓が高鳴り、血管という血管が脈打つのが分かる。
右手に感じる柔らかな肌触り、目の前で眠る可憐な表情。微かに漏れる寝息の中に混じるのはソプラノの声。
よくよく見れば、目の前の栗色の存在はソラではない……否、ソラであるとは信じたくなかった。
璃玖は右手を見た。手の甲に触れるのは、ささやかだが確実に存在する、目の前で眠る存在の胸の膨らみ。
「う、うわあああッ!?」
悲鳴を上げ、跳び退く璃玖。慌てていたせいで足がもつれ、盛大に尻もちをついた。痛みを感じている余裕はない。璃玖はそこからさらに後方の壁面まで一気に後ずさった。
璃玖の声と、床に響いた衝撃音。
これには流石にベッドの上の“彼女”も目を覚ました。目を擦りながらゆっくりと起き上がり、透き通るようなグレーの瞳で璃玖を見通す。
「んん? センパイ、どうかしたんですか……?」
口調は完全にソラのものだが、顔も、声も、微妙に違う。そもそも性別がまるで違う。
明らかな異常事態に、璃玖は言葉を失った。
「おッ、お」
“ソラに似た何か”を震える手で指さしながら、璃玖がやっと絞り出した一言は、こうだった。
「お、お前は誰だ!?」
家中に響き渡る大絶叫。それは即ち、璃玖の混乱度合いに比例したものである。これだけ大パニックになっている璃玖を目の前にしているにも関わらず、当の本人はきょとんとした様子でこう言った。
「誰って、ソラですけど……あれ、声が変だな」
栗色の髪をした、天使のような美少女が小首を傾げている。
その顔は、璃玖の想い人にどこか似ていた────。