前へ次へ
59/126

Scene2-4 優しい君への依存心

 翌朝。ソラの顔色はすこぶる悪かった。


「なんかずっとお腹痛いし、気持ち悪いし。周期でも狂ったのかな」


 力なく笑うソラだったが、体の不調は生理的なものではなくストレスからのものだということは璃玖(りく)には察しがついていた。昨夜もまた、自身についての罵詈雑言(ばりぞうごん)が書かれたSNSの呟きを見てしまったからだ。


 結局今日はソラは学校へ着くなり保健室へ直行し、一日中をベッドの上で横になって過ごした。数日寝付けなかったせいか、保健室では死んだように眠りに落ちる。

 昼休みにソラの様子を見舞いに訪れた璃玖もまた、不眠から午後の授業でダウンし、保健室送りとなった。二人共、散々な一日だったのだ。


「今日は俺らが色々と調べるからさー、お前らは帰って休めよ」


 来舞たちの気遣いもあり、璃玖たちは授業時間が終わるとすぐに帰路に就いた。

 最寄り駅を降りて橋戸家の前に辿り着いた時、ソラは璃玖のシャツを引っ張り、呟いた。


「もう少し、一緒にいてくれませんか」


 ああ、と頷きかけた璃玖だったが、はたと動きを止める。


 ……本当にこれで良いのだろうか。ソラの(そば)にいてやりたい、だけど、俺たちは一緒にいるべきではないのではないか。──そんな考えが脳裏を(よぎ)った。


 しかしそんなことを口にすれば、ソラは支えを失ってしまう。きっと、壊れてしまう。だから璃玖は先程の思考を自らの両頬を叩くことで排除し、ソラの家の敷居を(また)ぐのだった。

 ソラの家族はまだ誰も帰ってきていないようだった。「ただいま」が(むな)しく響く広い空間。日が傾き始めているせいか北側の部屋が暗い。階段を上がり、自室に入った瞬間、ソラが嗚咽(おえつ)を漏らし始めた。


「うう……ッ、どう、して」


 ソラはドアの近くで立ち尽くしたまま、頬を伝い落ちた感情によって床に一粒の染みを作った。肩を、指を、唇を震わせて、ソラは言う。


「ネットの人たちって、勝手だよね。僕がどれだけ悩んだのかも知らないでさ……」


 手にした携帯端末の画面を璃玖に示す。璃玖はそこに映し出された画像を見て、腹の底からせり上がる強烈な殺意を覚えた。

 ──二人の男性の裸に、自分たちの顔が雑に切り貼りされた画像。おそらく同性愛者向けのアダルトビデオの一場面をコラージュした、悪質な悪戯(いたずら)


「なんだよ……これ……」


 怒りで顔が真っ赤になった璃玖の目の前で、ソラは携帯端末を指から取りこぼして落下させた。ガラスのカバーにひびが入る。が、ソラは拾い上げようともせず、その場で顔を押さえ、しゃがみこんだ。


「部員の子が教えてくれました。SNS以外の、こういう掲示板にも色々書かれてるって」

「許せ、ないだろ……こんなの」


 ソラの瞳に涙が(にじ)む。たちまち(あふ)れて川になる。


「本当に、勝手だよね。ホモだなんだって、原因も何もわからない、元に戻れるかもわからない、女の子として生きていくって覚悟するしかないのに! ()()()()()()()()()()()()()()()()って言うのにさぁ!」


 ソラは自分の胸を鷲掴(わしづか)みにした。引き千切(ちぎ)れるんじゃないかという勢いで、無茶苦茶な力を込めて。


「ソラ、お前やっぱり無理してたんだな」


 当然だった。ソラの心は男のままなのだ。女の体になってしまったから、璃玖に心配をかけたくないから、必死に演技をした。姉をイメージしながらあざとく振る舞って、心優しい璃玖に甘えさせてもらっていたのだ。

 『状況を受け入れて前に進む』のだと思い込むことで、自己暗示をかけることでソラは何とか平常心を保っていたのだ。


「ぼくは……ぼくは男だ! ふざけるなよ、なんなんだよ、なんだってこんな体!」

「ソラ!」


 璃玖は(ひざまず)き、ソラの両肩をがっしりと掴んだ。ソラは驚いて慟哭(どうこく)をやめ、彼の顔を見つめる。


「ごめん、ごめんよソラ。お前が女を演じていることだって、薄々わかってはいたんだ。だけど俺は何もできなかった。全部を受け止めるなんて都合の良いことを、耳障(みみざわ)りの良いことばかりを言って……お前を導こうとしてこなかった。だから、ごめん」


 璃玖はソラに目を合わせられなかった。いつの間にか、ソラのことを女の子として見るのが当たり前になっていた。そのバックグラウンドに潜んでいる感情にも察しがついていたというのに、璃玖は自分の恋心としか向き合っていなかったのである。

 ソラは笑った。泣き腫らした顔で、ぐちゃぐちゃな顔で、細かく首を横に振りながら、泣きそうな目をして笑った。


「センパイは悪くない。全部、ぼくのせいなのに……巻き込んでしまって、ごめんなさい」


 ソラは膝歩きで璃玖に近づくと、彼の肩から首、背中に向かって両腕を回し、しがみつく。

 はじめは遠慮がちに。だけど徐々に力を込めて、璃玖を抱く。璃玖もまたぎこちない挙動でソラの身体を抱き返すと、柔らかな栗色の髪に顔を埋めた。


「ソラ、どうしよう、安心する」


 それが素直な感想だった。体に(じか)に伝わる体温がこんなに心地いいなんて。ソラが男の子であることも忘れて、璃玖はより深く、より近くにソラを抱き寄せる。


「ふふ、どうしてでしょうね。ぼく、男の子なのに」


 その台詞(せりふ)はかつてソラが璃玖をからかう時に使った言葉に酷似していたが、どうしてか今はもの悲しく、そして暖かかった。


「別にハグくらい、友達同士でしたっていいだろ。そういう行為でもあるまいし、性別なんて関係ないよ」

「そう、なのかな」


 小さくぼやいたソラはゆっくりと身体を起こし、璃玖と見つめ合う姿勢を作った。その腕は、まだ璃玖の肩に絡みついたままだ。


「むしろ……そういうこと、したら、心から女の子になれるのかな」


 ソラは(おもむろ)に立ち上がる。数歩後退して、璃玖を見下ろしながら、ワイシャツのボタンに指を掛けた。上から順番に一つ一つを外していき、やがてシャツを床に落とした。肌着の下に、うっすらと浮かぶブラのライン。ソラの耽美(たんび)な所作に見惚(みと)れていた璃玖は、ここでハッと我に返る。


「……お前、それは自暴自棄になりすぎだって」

「わかってます……だけど」


 ソラは動きを止めなかった。肌着を脱ぎ捨て、ブラのホックを外し、真白な上半身をさらけ出し──涙の粒をいくつも顎先まで伝わせながら、ソラは笑った。


「ぼく、センパイが好きです。この気持ちは、体が女の子になったから自然と抱いた恋心なんじゃないかと、さっきまで思っていました。ううん、思い込もうとしてた」


 留め具を外したスカートが重力に任せて床に広がる。ショーツにまで指を掛けようとしたソラだったが、少し躊躇(ためら)い、結局その指は空を切った。行き場を無くした指先を自分の肩にまで引き上げて、今更ながらに胸を隠したソラは、眉をひそめて言葉を続ける。


「……今ならわかります。この気持ちは恋心じゃなくて、優しいセンパイへの、ただの依存心なんです」

「ソラ」


 ソラの拳が、キュッと握られる。その覚悟を、象徴するかの如く。


「センパイ、ぼくを、女の子にしてくれませんか……ッ、そ、れで、ぼくのこの気持ちを、本物の、好きに……変えてくれませんかッ」

前へ次へ目次