Scene1-4 恐ろしいもんだぜ
放課後、璃玖はアウトドア部の部室に顔を出した。
中では女子生徒が一人黙々と勉強をしているだけで他の部員たちはいない。今日はトレーニングルームの使用日なので後輩たちはそちらを利用しているのだ。
他方、部室の秘密基地然とした雰囲気が妙に居心地が良いので、引退後も部室で勉強する三年生は多い。これは璃玖たちの世代に限らず、アウトドア部の伝統みたいなものである。
「よお、フェス太郎」
「おやおや噂の三股お化けじゃないか。あれれ、どうしたのーソラくんに弁明をするんじゃないのー」
璃玖を棒読みで迎え入れた茉莉は黄色いカバーの問題集を解く手を止めず、口頭だけで受け答えをする。
「部活が終わる頃合いに迎えに行くよ。それまで勉強だ」
「はぁ、受験生の辛いところよな」
璃玖は茉莉の隣のパイプ椅子を引き出すと、勉強用具一式を書道机の上に出してから腰を下ろした。ぱきぱきと指を鳴らして数学の教材に取り掛かる。
どんなに噂の標的にされても受験に影響させるわけにはいかない。集中、集中だ。
「ねえ樫野。男同士の恋愛ってアリ? ナシ?」
「どうした急に」
茉莉はいつのまにか手を止めて璃玖の方を向いていた。そんな彼女に話しかけられて初っ端から集中が途切れる璃玖。まだ一問目の途中なのに。
「純粋な興味だよ。ほら、私ってBLとか好きじゃん? リアルではどうなのかなって」
「現実だとなかなか難しいんじゃないかな。同性愛者が異性愛者を好きになっても、成就はしないだろうし」
「……だよねぇ」
意味深な質問をした茉莉は自己解決したのかそれ以上は何も言わず、黙って勉強の続きを始めた。
一方の璃玖には変なモヤモヤが残り、かなりの消化不良である。
「おいおい、妙なことを聞いておいて勝手に満足すんな。さっきのはどういう意味だよ」
「どういう意味って、ソラくんのこと考えてたらふと気になっただけ」
「やっぱり俺とソラの話か」
いくらソラが女の身体に生まれ変わったとはいえ、心の性は男のまま。たとえ璃玖が女であるソラを望んでも、そうそう都合よくはいかないものだ。
茉莉は言う。
「同性愛って意味では私自身の話でもあるよ。ソラくんは優しいし、一緒にいて楽しいし、男性としてすごく好きなんだけど、身体が女の子なのは確かじゃん。もし付き合ったとしても、普通のカップルのようにはいかないんだろうなって思ったんだよ」
「付き合い方って千差万別だろ。お互い好き同士なら身体がどうであっても良いんじゃないか?」
璃玖がそう言うと、茉莉は鼻で笑い飛ばした。
「あんたみたいに据え膳すら食わないようなやつは珍しいんだよ」
「い、言っとくけどラブホに行った時に何もしなかったのは、ちょっと特殊と言うか……」
璃玖だって健康な男子高校生であり、性に対する欲望はゼロじゃない。単に『身体だけの関係』に陥るのが嫌なだけだ。その辺りの解釈違いについて、璃玖は茉莉に抗議をするのだった。
──が、そんな璃玖の発言を影から盗み聞きしている存在がいた。
そいつは部室の引き戸の隙間から、ジト目で中の様子をを凝視し、小さく呟いた。
「……へぇ。『ラブホに行った時』ですか」
「!?」
璃玖が扉へ目をやると、そこ覗くには栗色の髪と灰色の瞳。
蒸し暑い部室の空気が少しでも入れ替わりやすいようにと作っておいた引き戸のほんの少しの隙間から、目下最大の懸案材料たるソラが睨んでいた。
璃玖は慌てて立ち上がり、言った。
「い、いつの間に」
「今来たばかりですけど? 何か聞かれちゃまずい話でもしてましたか? してましたよね、センパイ♡」
語尾の調子を上げ、可愛らしく話してはいるが、どう見ても青筋を立てている雰囲気のソラ。
「え、と」
璃玖が動揺している間に、ソラは扉を開け放って部室内に押し入る。彼の眼前に迫り、腰に手を当てて仁王立した。
ひと夏で身長が少し伸びたソラの目線の高さは璃玖のそれに少し近づいている。故に、真っ直ぐに突き刺すような眼力は、璃玖には相当響いた。
璃玖が言葉を詰まらせていると、ソラは畳み掛けるように追撃をかます。
「だいたい、センパイはレミのことが好きなんじゃなかったんですか! なんで二人でラブホテルに行ってるんですか、この、浮気者!」
「……ん? 好きだったから付いて行ったんだけど」
「す──好きって……同時進行で、二人とも!?」
「はぁ?」
ものすごい剣幕で捲し立てるソラだったが、璃玖はその言動に噛み合わないものを感じていた。でなければ、浮気だなんて表現になるはずがない。即ち、ここで言う『同時進行の二人』とは。
「そ、ソラのことは友人として好きだとは言った覚えがあるけどさ。それで浮気だなんて言われても」
「ちょっと待ってください、なんでぼくの名前が出るんですか!」
ソラは慌てに慌て、璃玖のシャツの襟を掴むと大きく揺さぶった。自分の名前が挙げられたことに純粋に混乱している感じである。
一方の璃玖もまた話が掴めずに狼狽えるばかり。一度状況を整理する必要がありそうだ。
「『お前がレミに嫉妬している話』じゃないの?」
「『センパイが茉莉先輩に誘われてホテルに行ったのに手出ししなかった話』ですよ!」
「「なんでそうなった!?」」
────
──
かくかくしかじか。
「……というわけで、ホテルの一件はレミ先輩との話であって、茉莉とは関係ない」
璃玖はソラへの状況説明をこのように締め括った。
すると神妙な面持ちでソラが言う。
「じゃあ、あの噂は本当なんですね。三股だって聞いていたので、てっきり茉莉先輩とも関係を持ったのかと」
悪しき噂はやはりソラの耳にも届いていたようだ。
恐るべき拡散力。たった一人による一般生徒に対する噂が、それが虚言であれ、少なくとも校内の生徒には瞬く間に広まってしまうのだから。
「でも、大丈夫なんですか。相手の人に逆恨みされてるんじゃ、今後も何をされるかわからないですよ」
「うーん、俺自身は何言われようが平気なんだけどさ、周りが巻き込まれるのはちょっとな……」
ソラや茉莉にとってはとんだとばっちりだ。自分の預かり知らぬところで起きた騒動のせいで自分に関する嘘を吹聴されて良い気分はしないだろう。
「とりあえず明日、入間や先生と話をしてみるよ。二人には迷惑をかけて本当に申し訳ないけど、もう少し待ってもらえるかな」
ソラも茉莉も顔を見合わせ、『仕方ない』と肩を竦めてから璃玖の言葉に頷いた。
「ところで、ソラくんはなんで部室に?」
茉莉がソラに尋ねると、ソラは足を指差しながら答えた。
「捻挫が治りきってないのにトレーニングで無茶するのはダメだと思って、切り上げてきたんです。それでセンパイと放課後デートでもしようかなぁって♡」
「うう……ソラくんの女の子ムーブに磨きがかかってるよ」
目の奥にどこか寂しそうな心境を滲ませる茉莉である。彼女は今でも、ソラには男に戻るのを諦めてほしくないと思っているからだ。
そんな茉莉の想いとは裏腹に、ソラはキラキラした瞳で璃玖に迫り、女子としてのあざとさを前面に押し出していた。ドギマギする璃玖の反応が面白くて、ついつい小悪魔的になってしまう。
しかし、璃玖の反応は拍子抜けするほどにもあっさりしたものであった。璃玖は即答する。
「デートか……。良いぞ、どこに行きたい?」
「う゛ッ」
真顔で返事をされ、逆にソラの方が返事に困ってしまう。璃玖が赤面して恥ずかしがるという予想が外れたからだろう。
「なんかセンパイの反応がどんどんつまらなくなってきたような」
璃玖は窓辺に移動し、壁際に寄りかかると、遠い目をしながら窓の向こうの世界に想いを馳せた。
「なあソラ。慣れってのはよぉ……恐ろしいもんだぜ」
タバコをふかす真似をしながらニヒルに笑う璃玖であった。