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Scene1-3 悪しき噂の流布

「何やってんだよあんたは。推薦狙いなんでしょ? トラブル起こしたらまずいってわかってる?」

「わ、わかってるって」


 昼休み。体育館裏の外階段に腰掛ける璃玖(りく)は、目の前で腕を組んで立ちはだかっている黒髪ボブカットの眼鏡女子──坂東(ばんどう)茉莉(まつり)にめちゃくちゃに怒鳴られていた。彼女は中指で眼鏡の赤いフレームを持ち上げると、レンズ越しの切れ長の瞳から黒曜石の眼光を強烈に放ってくる。そのプレッシャーに、璃玖は(おのの)くばかりだった。


「姉ちゃんの言うことももっともだけどさー、口頭で注意されただけで済んで良かったじゃん」


 璃玖の隣でサンドイッチを頬張りながら、来舞(らいぶ)呑気(のんき)な調子で言った。

 しかし彼が璃玖を止めていなかったら、入間(いるま)に対して本当に手が出てしまっていたかもしれない。そうなれば今頃こうやって落ち着いて弁当など食べられはしなかっただろう。


「いやほんと、来舞には感謝しかないよ」


 現状では璃玖の行いは暴力とはみなされずに済んでいる。

 もちろん先生たちから詳細を問い詰められ、これに正直に白状したのだが、学校側は他人の座席に許可なく座ったことに端を発する口論ということで片付けたのである。

 胸ぐらを掴んだことよりも、他人に迷惑をかけた上に指摘に逆切れした入間の態度の方を重く見ての判断だった。


 他方、ラブホテルの件など夏休み中の素行については璃玖もかなりきつめに叱られた。

 未成年である璃玖をいかがわしい場所に連れて行くレミの行動を問題視する声も上がったが、異性との交遊そのものについては校則にも規定がないし、何より校外での出来事のため璃玖個人については懲罰の対象ではないとされた。

 とはいえギリギリセーフ、といったところだろう。


「……っていうか樫野(かしの)、その……ホテルの件なんだけど」


 茉莉はとても言いづらそうに頬を掻きながら聞いてきた。

 璃玖は彼女がホテルの話題を口にしたことに若干眉を(ひそ)めながら言い返す。


「言っとくが、俺は何もしてないからな」

「ぶっちゃけそんな場所まで行って何もしない男女がいるのかって(はなは)だ疑問なんだけどさ。──って、本題はそうじゃなくて」


 茉莉は手にしていたサンドイッチの袋を強く握った。

 そして今度は璃玖の顔を正面から見つめ、強い眼差(まなざ)しで言う。


「あんたがラブホテルに行ったって噂が、変な形で広まってるの。三股かけてるだとか、ホテルで複数プレイしてるとか!」

「しれっと人数増えてんな」

「冷静に受け取ってんじゃない! あんたの三股相手の一人に()()()()()()ことになってんだ! どうしてくれる!?」


 茉莉は涙目になって訴えた。

 璃玖の身近にいる女子として、おそらく噂の装飾に利用されたに違いない。

 彼女の狼狽(ろうばい)っぷりを見た璃玖は非常に心苦しく思うと共に、噂の流出源に対して沸々(ふつふつ)と怒りが込み上げてくる。やることが幼稚すぎる上に、無関係の人間まで巻き込んでいくなんて。


「おーい、冷静になれよ璃玖。お前、姉ちゃんの怒りが伝染してヤバい顔付きになってるぞー」

「そりゃあ怒るだろ。大切な人が三人も、俺のせいで噂のターゲットにされてるんだ。自分の不甲斐(ふがい)なさと、悪意ある噂のどっちもに腹が立つんだよ」

「大切……樫野って、たまに恥ずかしいこと平然と言うよね」


 茉莉は溜息を()くと、手摺の方に寄りかかってサンドイッチの包装を解き、大口を開けてかぶりついた。地べたに座るのは抵抗があるみたいなのに食べ方は豪快だった。


「そもそもこれってアレだろー。噂を流したのって十中八九、入間じゃん?」


 来舞が言う。タイミングからしてほぼ間違いはないだろう。璃玖を逆恨みして無いこと無いことを言いふらしているに違いない。


「どうでもいいけど、早く噂を止めないと大変なことにならない?」


 茉莉がそう聞いてくるのには理由があった。彼女は一回の悪き噂の流布(るふ)がもたらす影響について、身近な例をひとつ挙げて不安を吐露(とろ)した。


「一学期の時のソラくんの噂だって……」

「バスケ部のあいつの話か」


 『ソラがバスケ部エースの二年男子を(たぶら)かした』なんてありもしない話がどんどん広がって、遂にソラが学校へ来なくなってしまった事件は記憶に新しい。

 噂そのものはいつのまにか消えていたが、【性転換現象】に対する誤解や偏見を浮き彫りにしてしまった影響は今も続いている。今回も同じようなことになったらどうしよう、と茉莉が不安に思うのも無理はない。


「まあ、あそこまでの騒ぎにはならないと思うぞ。ソラと俺らとじゃそもそもの知名度が違うし」

「むしろこれって入間の自滅だよなー。こんなタイミングで璃玖の悪評を言いふらしてるのだとしたら、せっかくお(とが)め無しだった朝の処遇がひっくり返るぞ?」

「じゃあ、私たちはそのまま待ってれば良いってこと?」


 茉莉の問いかけに璃玖は頷く。


「どのみちしばらく様子見すべきだと思う。もちろん、身近な友達には誤解を解いてもらう事も必要だけどな」

「じゃー、飯食ったらとりあえずクラスの連中に釘刺しとくかー。『変な噂を鵜呑(うの)みにしたらマジ許さねぇ』って」

「それじゃ脅しだろうが」


 脅迫まがいのことをして逆効果となったら目も当てられないので、三人は話し合い、なるべく静観していることに決めた。

 噂への対処についてまとまったところで、璃玖が別の懸念(けねん)を口にする。


「……俺的には、噂が出回ると、同学年の評価が落ちるだとか推薦がどうとかよりも困ることがあるんだが」

「受験よりも重いことって何よ」

「姉ちゃん、璃玖にとっての最重要と言ったら一つしかないだろー」


 板東姉弟は顔を見合わせて頷くと、異口同音(いくどうおん)に呟いた。


「ソラくんだな」「ソラくんのことね」


 内緒にしていたレミとのラブホテルの一件をソラに知られてしまうこと。それが璃玖にとって一番の精神的負傷なのだ。

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