Scene1-2 目撃者と暴露
「おーっす璃玖、おはよう!」
九月最初の登校日の朝。
六鹿高校三年男子の樫野璃玖が上履きに履き替えて教室へ向かおうとしていたところ、同級生の坂東来舞が声を掛けてきた。
「おお! おはよう来舞」
璃玖も明るい声色で挨拶を返す。
今日の来舞は黒髪のポニーテール姿。彼は女子っぽい髪型をいたく気に入っているようで、髪色は元に戻したもののヘアスタイルは継続させるようだ。なお、実際に女子ウケはいいらしい。
璃玖は廊下の端の壁に置かれた鏡にチラリと目をやる。癖のある黒髪に、涙袋と左目の下の黒子が特徴の中背男子の姿がそこにあった。
少しは髪型に気を使った方が良いのかと璃玖はふと思う。あまり無頓着ではいつも隣にいる栗色の存在とまるで釣り合わないのではないか、と。
「本当は通学路のところから璃玖たちに気付いてたんだけどさー。ソラくんとの時間を邪魔しちゃ悪いから、今声掛けたった!」
どうやら例の存在と一緒に登校する姿を来舞にばっちり見られていたらしい。
「邪魔って、友達と歩いてるだけなんだし」
「ほぉん。トモダチ、ねー?」
「くっそ、含みのある笑いをやめろっ!」
どうも来舞からは璃玖とソラとの間に恋愛関係があるとみなされているようだ。昨日、前日の水族館デートの話を来舞に電話で話すんじゃなかったと璃玖はちょっとだけ後悔した。
二人はたわいない会話をしながら教室まで上がっていく。
「おはよーっす!」
来舞が元気よく教室の扉を開けて中に入り、璃玖も後に続く。自分の席に荷物を置いたら、適当な男子の机に集合してチャイムが鳴るまでくだらない会話をするのがお決まりのパターンである。
今日も一学期と変わらない日常に準じよう、そう思っていた璃玖にアクシデントが発生したのはこの直後だった。
「……でさー、あいつマジでトんでさ。ウケるってマジで」
「えーちょっとやだー!」
赤く染めた髪にピアスがいくつも開いた耳。学年の中でも割とガラの悪いことで有名な男子生徒が、クラスが違うにも関わらず、他人の机に腰を下ろして席を占領していたのである。それも──。
「(うわ、あれ俺の席じゃん)」
そう、よりにもよって璃玖の席を。
彼は璃玖の真隣の席にいる女子と親しげに話している。話ぶりからして二人は交際関係なのだろう。
内心で溜息を吐きつつ、赤髪の占領者に対して璃玖は声を掛けた。
「おい」
「でさぁ、俺らも今度──」
「おい、入間。聞いてるのか」
「チッ、なんだようっせーな……って、おお、樫野じゃん」
二たび声を掛けてようやく、彼──入間美都は璃玖の存在を認識したようだ。
あまりに人種が違いすぎてほとんど関わりは無いが、昨年度までは同じクラスだったので互いに面識はある。
「そこ、俺の席なんだけど」
「ハハッ、わりぃな」
入間は璃玖の求めに素直に応じて腰を上げる。内心ほっとした璃玖だったが、問題はその後だった。
入間は立ち上がった直後に今度は璃玖の斜め前の座席から椅子を奪い、恋人との会話を継続したのだ。その場所は今まさに席の主が座ろうとしていたのに。本来の席の主である男子は、自分から入間に話しかけるのが怖いのか、おろおろとしているだけで行動に移せないでいた。
「ちょっと、ヨシヒロ。どいたげなって」
「はあー? いいんだよそんなデブほっとけば!」
これには入間の彼女も注意をするのだが、入間は動こうとしない。終いには「あっち行けデブ」と本来の席の主を威圧する始末。これには彼女も閉口してしまっていた。
そして、璃玖という男はクラスメイトが困っているのを黙っておけないタチなのだ。
「おい入間。お前少し横暴が過ぎるぞ」
「は?」
「だから、勝手に他人の席を横取りすんなって。あいつ困ってるじゃん」
璃玖は着席したまま入間に向かって言い放つ。語気が強くなってしまったのは、机の上に残る奴の尻の温もりが不快だったからだ。
だが璃玖の言い方に神経が逆撫でされたのか、怒りの感情を滲ませた入間は前のめりになると片眉を上げて璃玖を睨んだ。
「あん? なんだテメェ。良い子ちゃん気取りかよ」
「別に気取ってるわけじゃない」
「ああそうか、お前推薦狙いだもんな。態度でもいいとこ見せとこうって感じか!」
「んなわけあるかよ。なんでもいいから早くどけよ。邪魔になってるって言ってるだろ」
「……あァ?」
話せば話すほどに険悪になっていく二人。貼り詰める空気に、教室内の他の生徒達も声のトーンを落とし始めた。一触即発といった雰囲気が漂うが、そこに割り込んで来たのは来舞だった。
「ちょちょちょー、すとーっぷ。何で睨み合ってんだよ二人共。あ、つーか入間久しぶりー。何があったん?」
「チッ、樫野が俺に文句言ってくんだよ。俺はちょっと椅子を借りだだけなのに」
入間は身を乗り出して、本来の席の主に威圧するように問いかける。
「なァ、そこのデブ。俺お前に席借りるっつったよなぁ!?」
当然、内気な性格である席の主は何も言い返すことが出来ない。すっかり萎縮してしまうだけだ。
「やめろって、あいつも困ってるだろ!」
「はいはい出ました、樫野くんは良い子ちゃんでちゅねぇ。お前ほんと、マジうぜぇわ」
「こらこらこらー。ガキじゃないんだから喧嘩すんなってー!」
来舞が止めに入ってくれるおかげで、入間は導火線に火がつくギリギリ手前で収まっている感じだ。
璃玖もまた無性に腹が立っていたが、来舞の乱入により冷静さを取り戻しつつあった。それでなんとなく、『この状況に割って入れる来舞は凄いな』なんて考えていた。
ところが。入間の次に放った言葉が璃玖の心情をめちゃくちゃにかき回すことになる。
入間は左右で形の異なる歪な笑みを作ると、見下すような視線で言った。
「あのさぁ樫野。お前真面目ぶってるけど、俺知ってんだかんな。お前こないだやけにイイ女連れてラブホに入ってったろ!」
璃玖は耳を疑った。入間の言う内容に思い当たる出来事が一つだけある。それは親友である来舞にも、ソラにさえ言っていない彼の秘密。
「とぼけんじゃねーぞ。あそこって入口のパネルの前が精算機のとこからちょっと見えるんだぜ? ──にしてもお前もやるよなぁ、いつも一緒にいるオトコオンナだけじゃなくてあんな美人とも二股掛けてさァ!」
入間が叫ぶように暴露したものだから、クラス中の視線が璃玖に集まった。凍り付いたような空気の中に、ほんの少しの興味と困惑が混じる。
遠巻きに見ている連中からはひそひそと声が上がり始めた。
『あの樫野が女とホテルに?』『しかも二股?』
教室内の、特に女子からは嫌悪の視線が璃玖へと注がれていく。
「二股じゃねぇよ。そもそも、どちらとも付き合ってないし」
咄嗟に言い訳をする璃玖だったが、これが裏目に出る。
「付き合っても無いのにホテルでヤッたのか! ハハッ、ごめん俺お前見直したわ! とんだクズ野郎じゃんか!」
「そういう意味じゃない!」
璃玖は焦っていた。まさかあの時、自分たちが同級生に目撃されていたなんて。それも割と最悪に近い奴に。
最後までイタしてないなんて本当のことを言ったとしても信じるような奴ではない。逆に尾鰭を付けて話を盛り、言葉で殴り返してくるだろう。だがこのまま黙っていることもできない。
「俺はあの人と二人きりで話し合いをするためにあそこに行っただけだ! やましいことは無いし、仮にそうだとしてもお前には関係ないだろ!」
「話し合いー? ラブホで? んなわけあるかよ、ばかじゃねえの!」
「ちょっと、ヨシヒロ! もうやめなって!」
入間のすぐそばにいる彼の恋人も止めに入った。彼女の顔は羞恥に青ざめている。
無理もない。入間の煽りには、『当時自分達もそこにいてやることをやりました』という宣言が内包されているからだ。
ところがそんな彼女を入間は舌打ちと共に睨みつける。
彼女は肩をびくっと震わせ、そして俯いて黙ってしまった。
「つーかよォ、思い出したけどあの時の女ってウチの先輩じゃね? しかも、ヤリマンって噂のさァ!」
「──ッ!」
瞬間。璃玖の腹の底から胸の上までザワザワした何かが一気に立ち昇る。
「わかった! お前もしかしてセービョー感染されたんじゃね? だから恥ずかしくて何も言えねーんだ!」
刹那。璃玖の中のザワザワが、怒りに変わる瞬間を、璃玖自身がハッキリと自覚する。
「──ッ!? やめろ!! 璃玖!!」
来舞の叫び声を耳にした時には既に、璃玖の拳は入間の胸ぐらを掴み上げていた。ハッとなって握る力を弱めると、入間の身体が数センチ分椅子の上に落ちた。
「はぁ……はぁ……クソッ」
「……」
ちょうどその時。時刻は八時三十分、ホームルームの開始を予告する予鈴が校内に響き渡る。喧嘩の終わりを強制するチャイムのはずだが、璃玖の教室内は誰もがまるで動けないでいた。
誰が呼んだか、先生が数人やってくる。璃玖と入間はそろって指導室へと連行されるのだった。