Scene2-1 もしもお前が
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ことの始まりは遡ること約二ヶ月。五月の大型連休が明けて最初に迎えた土曜日のこと。
時刻はちょうど午後に差し掛かった頃合。自室の勉強机に向かっていた高校三年生の青年、樫野璃玖は振り向きざまに問いかけた。
「性転換現象? なんだよそれ」
彼の視線の先にはベッドにてうつ伏せの姿勢でタブレット端末を操作する、栗色の髪の少年がいた。彼は足をぱたぱたと動かしながら、上機嫌な様子でニュース記事を読んでいる。
目鼻立ちの整った中性的な見た目の少年であった。どちらかと言えば華奢な体格に白い肌、長いまつ毛に柔らかな唇。実は女性と言われれば一瞬判断に迷う程の美少年。
ベッド脇に置かれた折りたたみの簡易テーブルには、無造作に伏せられた数Ⅰ・Aの教科書と手付かずの副教材。右手の小指側面が薄黒く汚れるほどに勉強熱心な璃玖とは反対に、少年は完全にサボりの様相である。
彼は先程の璃玖の質問に答えて言った。
「知らないんですかセンパイ。最近頻発しているらしいですよ、急に性別が変わっちゃうっていう怪現象」
「んな馬鹿な」
「嘘じゃないですって。ちゃんとしたニュースサイトの記事です!」
少年は璃玖に不満げな視線を向け、タブレットの画面を示す。どうやら彼の言うことは本当らしい。璃玖は首の動きで少年に謝った。
「頻発といっても、百万人に一人くらいの割合らしいですけど」
「それって、少ないようで、実は多くないか? 日本に百人は被害者がいるってことだろ。前置きなく急に性別が変わるのは嫌だな」
「センパイが女の子って、似合わなそうですね」
「逆にソラが女の子なら絶対に似合うと思うけどな」
璃玖は座った姿勢のまま脚を伸ばし、ベッドにうつ伏せで横たわる美少年────橋戸ソラの脇腹あたりをつま先で突いた。
ソラは大笑いしながらくすぐったそうに身を捩り、璃玖から遠ざかるように身体の位置をずらす。しかしベッドから離れる気は無いらしく、タブレットを手にしたまま、今度は腹を上にして寝転んだ。
「でも何で性別が変わっちゃうんだ。病気なのか、それとも先天性の異常なのかな」
璃玖が尋ねると、ソラは仰向け姿勢のままタブレットを操作し始める。
「よくわかってないみたいなんですよねー。ほら、『病原体も発見されず、遺伝的な異常でもない。今のところ他人に伝染する可能性はないと思われる』だって」
璃玖はソラからタブレットを受け取り、件の記事に目を通す。
一晩のうちに肉体が変異しまうこと。現象の報告は二年前から急増し始めたこと。元の性別に戻った者は現時点で一人もいないということ。
判明しているのはこのくらいのようだ。
「原因不明って、一段と怖いじゃん」
「ですです。もし自分の身に起きたらとかんはえ、ふぁぁ……考えると、恐ろしいですね」
喋りながら大欠伸をかましたソラは、涙を拭いながら足先でタオルケットを手繰り寄せ、そのまま自らの身体を包み込んだ。数度左右に転がるようにして体にタオルケットを巻き付け、『繭』を作り上げると完全に寝る体勢に入ってしまう。
璃玖はそんなソラを見て、呆れた調子で言う。
「つーか早く勉強しろ。お前が一緒に勉強しようって言ってきたんだろうが」
「えー、だって眠いし」
「……おいコラ」
「ちぇっ、わかりましたよぅ」
ソラは渋々と言った具合でベッドの上でくるりと身を反転させ、起き上がる素振りを見せた。かと思いきやそれはフェイントに過ぎず、彼はそのまま仰向けになって目を閉じる。
「この、サボり魔め」
「うぐっ、センパイ、足で小突かないでくだ……ガハッ」
璃玖は溜息混じりに言った。
「お前さ、ルックスの良さにかまけて努力を怠ったら、そりゃただのクズ人間だぞ」
「……ぼくは、ヒモになりたい」
「既に手遅れだったか」
璃玖にはこの年下の友人の将来が不安で仕方が無かった。今はまだ自分が勉強に付き合ってやれば何とかなるかもしれないが、ずっと一緒にいるわけじゃない。いつかはそれぞれの道を自らの力で歩まねばならないのだ。
にやけ面のソラに呆れつつ、璃玖は自分の勉強の続きを始めた。
「あ、そう言えばセンパイ」
「今度はなんだ?」
ソラが何かを思いついたように悪戯な笑みを浮かべ、ベッドから跳ねるように起き上がる。ベッドの縁に腰掛けて璃玖に正面から向かい合ったソラは、満面の笑みでこう言った。
「最近、うちの姉となんかあったらしいですね♪」
「う゛」
いきなり痛い所を突かれた。
璃玖は現在ソラの姉に絶賛片想い中である。というより璃玖が高一の頃からずっと好意を抱いており、ソラと知り合ったのもその過程であった。
しかも現時点において、彼女とは少々ややこしい状態となってしまっている。璃玖にとってはあまり触れてほしくない話題だった。
「お前はどこまで知ってるんだ」
恐る恐る尋ねる璃玖。
ソラは緩みまくっている口を手で覆い、目を細めた。
「えっと、昨日ウチに来て二人きりであんなことやこんなことを……」
「はぅ」
「具体的にいうとセックス未遂?」
「ぐあッ」
璃玖は肺の中身を全部空気中に解き放ち、椅子の背もたれに崩れ落ちた。
なんということでしょう。ソラは全部を知っていたのです。
「穴があったら入りたい」
「あはは。ドンマイです! それにしてもなんで未遂なんですか。完全に据え膳だったんでしょう?」
璃玖は目を伏せる。
「正直、凄く興奮はした。けど、悲しみの方が勝っちゃったんだ。彼氏と別れた直後なのに恋人でもない相手にすぐにそういうことを求めるんだって思うと少しショックだった」
璃玖とソラの姉との拗れた関係。その要因の一つが彼女の尻の軽さである。
以前より特定の相手と長続きしない性格であったが、昨年度に大学生になったことで、より歯止めが効かなくなっていた。
純情たる男子高校生の璃玖には色々と持て余す存在である。
「だって、それは」
「わかってるよ、あの人の事情くらい。でも、俺には無理だったんだ。今でもあの人のことは好きだけど、いつまで経っても俺は代替品に過ぎないのかなって、泣けてくるんだ」
「センパイ……」
彼らには、彼らにしかわからぬ複雑な事情があった。いわば、心に爆弾を抱えた状態なのだ。
ソラはベッドの縁から立ち上がると、璃玖に歩み寄り、項垂れる彼の頭をそっと撫でた。まるでペットのことを慈しむような眼差しで、ほんのちょっとニヤつきながら。
「まったく、センパイは色々と考えすぎなんですよ。レミの心情はともかく、やれそうな時にやらないなんて本当に男子高校生ですか」
「うるせー。その、よしよしするのをやめろ」
璃玖が手の甲でそっとソラの手を払い除けるも、ソラはめげずに手を差し向けてくる。
「えー、良いじゃないですかぼくとセンパイの仲なんだし」
「うーん……良いの、か?」
璃玖は少し考えたのち、まあ良いかと思い直した。しばらくソラの好きにさせてやろう、と、いっそうのこと頭を差し出してやるのだった。
璃玖とソラは同じ高校の先輩後輩の間柄ではあるが、同時に親友でもある。ソラが中学生の頃から仲良く接していて、アウトドア趣味が共通していることからもプライベートで遊ぶ機会は非常に多かった。
そんな彼らだから部活内でもかなり距離感が近い。一部の部員からは同性愛を噂されることもしばしばである。だが璃玖やソラにそういった嗜好はない。一緒にいるのは、単純に波長がとてつもなく合っているからだ。
その一方で、璃玖はこうも思う。
「ソラが女だったらなぁ」
「……ふぇ?」
「──あ」
思いっきり、声に出ていた。