Scene1-1 予兆
その日、ソラは変な夢を見た。真っ暗闇の中に自分一人が立っている。怖くなって辺りを見回しても、そこには誰もいない。ただ無限の闇が広がっているだけだった。
……いや、違う。よくよく目を凝らしてみれば、黒一面の風景の中に、うっすらと何かの輪郭が浮かんで見えた。注視していないと気付けないような、微妙な黒のコントラスト。
「 」
声が聞こえた気がした。目の前にある、何かの輪郭から。
「 」
やはり、何か聞こえる。
ソラは恐る恐る手を伸ばしてみた。この暗闇の中では、自分の身体でさえ認識が難しくなる。はたして今の自分は男の姿なのか、女の姿なのか。
「あっ」
指先に、何かが触れた気がする。柔らかくて、ひんやりと冷たい何かに。
そっと輪郭をなぞってみる。頬から首、鎖骨から、乳房へと。そいつは、見えないそいつは人の姿をしていた。
不意に、ソレが近づいてくるのがわかった。
ニタリと笑いながら、 見えていないのに、 表情がわかる、
笑いながら、 顔を寄せて、
ソラの、
耳元に────。
「 ミ ツ ケ タ 」
***
「!!」
ソラは慌てて飛び起きた。上体を起こすや否や、辺りを見回し、両手で自分の身体を確認した。
腕は、ある。脚もある。腰も、胸も、首も、あった。その瞬間、ソラはほっと胸を撫で下ろした。良かった、無事だったと生還を喜んだ。
……しかし、はて、何から生還したというのだろう。
目覚める前の記憶はすでに曖昧で、どんな夢を見ていたのかさえわからない。夢を見ていたかどうかですらあやふやだった。
「まあ、いいや」
覚えていないことを気にしていても仕方がない。ソラは朝のルーティンを始めることにした。と、言っても、先程身体を触った時には結果がわかってしまったのだが。
ソラはベッドから起き上がると、徐にパジャマを脱ぐ。下着姿になった自分を姿見に写し、容姿を確認する。
ほんのりと日焼けの赤みが残る白い肌。ドイツの血が混じるが故の明るい栗色の髪に、グレーの瞳。長いまつ毛に柔らかな唇、細い首筋にささやかに膨らんだ胸。本来あるべきものが無くなってしまった下半身。
「やっぱり、戻ってないよな」
日課になってしまった朝の確認作業。【性転換現象】なんてものに巻き込まれて以降、毎日欠かさず続けている祈りの行為だ。
女の身体には随分慣れたけれど、やはり本来のあるべき姿に戻りたいという願望は消えて無くならない。
心の性|が初めから女だったらば、この変異はむしろ喜ばしいことのはずだが、性自認が男性、恋愛の対象は女性であるソラにとって、体の性の変化は絶望でしかなかった。
「本当だったら、今頃茉莉先輩と付き合ってたのかな、ぼくは」
一か月半前にアウトドア部の先輩である坂東茉莉から告白をされたソラだったが、曖昧な態度で誤魔化して、結局は何事もなかったように振舞っている。
だが未練も残っていた。もしも【性転換現象】なんてものが無かったら、あの告白は即座にオーケーしていたに違いないからだ。
今だって、例えばお友達の延長のような付き合い方なら可能だろう。一緒に買い物に行って、時々手を繋いだりキスをしたりして、夜はちょっと抱き合って眠る。女の子同士のお付き合いとは、そういうものだとソラは考えている。
でも、ソラにだって欲がある。身体が火照る事だって、満たしたくなることだって、ちゃんとある。そういう時に、茉莉は受け入れてくれるだろうか。……きっと、難しいだろう。
「センパイとだって、同じだろうな」
ソラは同じくアウトドア部の先輩である樫野璃玖についても考えてみた。
ソラの知り得る男性の中で、唯一恋愛感情に結び付けられそうな人物だ。趣味から性格まで合わないところがないくらいの二人である。交際をしたらさぞかし楽しいに違いない。幸せに違いないのだ。
だけど、その先は? 二人で欲を満たし合うことなんて、おそらく出来るはずもない。
『男同士』での行為など、今のソラでは絶対に無理と思えるのだった。
「大丈夫。センパイはレミが好きなんだから、ぼくのことなんて妹くらいにしか思ってないさ」
昔は弟で、今は妹で。これから先も、きっとそう。
これ以上の関係を望んでも苦しみしかないのなら、ずっとこのままの繋がりの方が何倍も良い。
ソラは制服の袖に腕を通した。
九月最初の土日が明けて、いよいよ本格的に新学期が始まる。性の違和感と偏見、差別に立ち向かう時間の、再開だ。