Scene3-11 受諾宣言
「あん、んッ、ん、ああーっ♡」
夏休みも終盤、橋戸家の二階。そこにはベッドで重なり合う男女の姿があった。
「あっ、そこ……良いです……センパイ、きもちい……!」
「声、抑えろよ。隣の部屋にレミ先輩もいるんだぞ」
「だっ、だってッ。ぉんッ♡ こえ、出ちゃうん、だもぉんんっ♡」
カーテンで遮光された薄暗い部屋の中、一人の人間がもう一人に馬乗りになっている。腰を揺らすようにして、女は快感に身を委ねて悶えていた。
「ああ゛ーー!! だ、めぇえーー!!」
「バッ……声が大きい!」
その瞬間。廊下からバタバタと足音が響いてくる。刹那、ばん、という大きな音を立てて女が一人、部屋に飛び込んできた。
「ちょっと、あんたたち! ヤるなら私も混ぜ……て?」
「「あ」」
ベッドの上で栗色の髪の少女に跨っていた璃玖は、いきなりの侵入者────すなわちレミを見て『しまった』と左手で頭を掻く。彼の危惧していたことが起きてしまったからだ。
璃玖の下にはうつ伏せの姿勢で恍惚の表情を浮かべるソラの姿があった。
レミが問う。
「なにしてんの?」
「マッサージですけど」
「えっちは?」
「してません!」
ソラが変な声を出すものだからレミに勘違いをされてしまったのだと、璃玖は溜息を吐いた。
そもそも、璃玖が今ここにいるのは、ソラから『夏休みの宿題を一緒にやろう』と誘われたからだ。
しかしソラのやる気はゼロに近く、勉強は思うように進まない。ついには肩と腰をほぐして欲しいとベッドに横たわってしまった。松葉杖生活も二週間目に突入し、色々なところが凝るのだとソラは言う。
流れで仕方なく、璃玖が揉みほぐしを始めたところで冒頭に戻るというわけである。
「ソラが変な声を出すからレミ先輩が目を輝かせながら来ちゃっただろ! この人エロには敏感なんだぞ!」
「えー、だって気持ちよかったんですもん♡ 先輩だって女の子の体いっぱい触れて嬉しくなかったですか?」
「やましい気持ちでマッサージしたんじゃありません!」
「またまたぁ♪」
二人のやり取りを見たレミはジト目になり、呟いた。
「……しっかりいちゃついてるじゃん」
***
一階に降りてきた璃玖とソラは、ダイニングのテーブルに宿題や教材を並べて学習を始めた。
すぐ側にあるリビングのソファではレミがラップトップを広げて何やら作業をしている。ソラと璃玖を二人きりにすると勉強が捗らないということで、年長者のレミが監視役というわけだ。
「ううー、勉強したくない」
「お前が宿題一緒にやろうって言い出したんだろ? ま、俺は宿題はお盆前には終わってたけどな」
「うー、センパイの裏切り者ぉ」
ソラは左足で立ち上がると、テーブルに身を乗り出して璃玖の腕をペチペチと叩いた。璃玖は手を引っ込めたり差し出したりして、猫でもじゃらすかのようにソラを弄ぶ。
「はいそこ、いちゃつかない。全く、気を抜くとこれだ」
「いちゃついてないし。ただのスキンシップだし」
「あんたたちのは完全にバカップルのそれなんだよ。見せつけないでよね。私、最近失恋して傷心なんだからさ」
そう言うレミに視線を向けられていることに気が付いた璃玖は、彼女の意図が分からずに頭に疑問符を浮かべる。対するレミは溜息混じりに笑みをこぼした。
「レミの失恋って、随分前じゃないの?」
と、ソラ。
「元カレとは別の話。ラブホで濃厚なキスをしてすっかりその気になってたのに、そのあと生殺しの目に遭わされたんだよ」
「先輩ほどの美人を弄ぶなんて、酷い男もいたもんですね」
「全くだよ」
璃玖の自虐的なツッコミに、レミはあっさりとした返事を返した。
「レミはその人のこと好きだったの?」
ソラが尋ねる。まさか目の前にいる二人の情事の話だとは微塵も思っていない様子だ。
「さぁて、どうだか。……ただね」
レミは璃玖のいる方向へと首を傾け、遠方を見つめるような眼差しを向けてきた。
璃玖にしてみれば、なんだか自分の脳内を透かされて覗き見られている気分だった。そしてその感覚はおそらく正しい。
レミは語る。
「その人は私のことを好きだと言ってくれたけど、きっと、私は彼にとっての一番じゃないと思うんだ」
「えっ」
璃玖は思わず声を上げた。
彼のレミへの想いは本物だ。少なくとも璃玖自身はそう思っている。どれほどの気持ちでいるのかは例の日に打ち明けたつもりだったのに、それを『一番ではない』と断じられるとは。
「その人はね、多分、私の幻影を愛していたんだと思う。理想とする私を思い描いて、そのイメージにずっと縛られて。もちろん、今の私のこともちゃんと気にかけてくれていたと思うんだけど……どちらかといえば彼の想いの強さは、呪い、みたいなものかな」
「呪い、ですか」
「情に縛られている感じがまさにそう。恋というより愛、愛というより……うん、やっぱり呪いだ」
大好きな人を失う前の、キラキラしたレミの面影。璃玖はその幻影を追いかけ続け、時に今のレミとのギャップに苦しんだ。
しかし苦しんでなお彼女の心情に寄り添おうとし、結果、底無し沼に呑まれていった。
「それで……彼は目の前にある本当の一番に気付けていなかったと思うんだ。今の彼が一番大切に思っているのは誰なのかってことに。もしかすると、その子の中にも私と重なる部分を見出して、『この想いは偽物だ。ただあの人の幻を見ているんだ』って思い込んでいるのかもしれないね」
「だからレミが一番じゃないってこと? なんだか、よくわからないな」
具体名を伏せられていることもあって、ソラには何が何やらといった様子だった。
しかしたとえ誰のことを指しているのか察していたとしても、たかだか高校一年生には難しい話だったかもしれない。
「ふふ、ソラはきっと一番に愛してもらえると思うから、深く考えなくても済むかもね。璃玖くんもそう思うでしょう?」
「……」
レミに名指しされるが、璃玖には答えることができない。
彼は今、レミに答えを半ば強制されているのと同じだった。
璃玖はここにきてようやくレミの意図に気がついた。
レミは知っていたのだ。璃玖の中でソラがどんどん大きな存在になっていることを。そのために彼が迷いの中にあったことも。
あるいはあの日、彼がラブホテルまで着いていったのは、その迷いに区切りをつけるためだったことすらも……。
だからこそ彼女は璃玖に道を示す。彼の心から橋戸レミという名の枷を外し、ちゃんと目の前の存在に向き合えるように。
つまり、璃玖はたった今、この瞬間に、フラれたのだ。
璃玖は迷いに迷った挙句、こう言葉を返すことにした。
「俺は、いつかレミ先輩にも一番が現れることを願っています」
イエスでもノーでもない。それはレミの思いを理解して受け入れたことを暗に示す、璃玖なりの精一杯の受諾宣言だった。
「そっか。じゃあ私はそれに期待して待っていることにしよう」
璃玖の言葉にレミは満足げに頷いた。
これが彼ら彼女らの恋の結末。二人はこれから先、ずっとただの先輩と後輩として生きていく。
「────ねえ、なんで二人だけわかり合ってる感じ出してるの!」
璃玖やレミの横で、置いてけぼりにされているソラが口を尖らせた。
「……ねぇ?」
「……はい!」
「だからそれはなんなのさー!」
アイコンタクトで語り合う璃玖とレミに嫉妬心を露わにするソラなのであった。