Scene1-4 君の味方
突然現れた女性のあんまりな物言いに、ソラは萎縮したように背を丸くした。
気持ち悪い、だって? どこの誰かもわからない人に、どうしてソラが非難されなければならないのか。璃玖は激しく憤った。
「どうしてこんな子とうちの子が一緒に体育の授業を受けるのよ。ネットで調べましたけどね、性転換した人って心の性別まで変わるわけじゃないんでしょう? この子、絶対にうちの子をいやらしい目で見てるわよ!」
「……このッ、」
飛び出しかけた璃玖の腕を、ソラが掴んで止めた。振り返れば、ソラは首を横に振っている。泣きそうな顔で、ことを荒立てまいと耐えている。
どうして酷いことを言われている本人が我慢をしなければならないのか、と璃玖は余計に理不尽さを覚えた。だけどもソラの意向は無視できず、すんでのところで踏みとどまる。
「何よぉ、文句あるの!?」
女性は服でも隠しきれていない贅肉を揺らしながら、ソラに迫ってくる。璃玖が咄嗟に間に入ってソラを庇い、同時に女性を教師陣が止めた。
「お母さん、先程も申し上げましたが、彼については更衣室も分けていますし、接触系のスポーツは見学してもらう予定です。どうかご理解いただけませんか」
学校側の説明を聞いても、彼女は仏頂面を崩しはしない。本人を目の前にしたことでより嫌悪感を露わにした様子だった。
「まるで本当の女の子みたいに男に守ってもらちゃって、白々しい。アンタは所詮男なの。性欲に塗れた薄汚い存在なのよ!」
璃玖を掴む白い手に力が籠められる。小さく震えるその手に気付いた璃玖は、遂に我慢が出来なくなった。
「────何がわかる」
「はぁ?」
「あんたにソラの何がわかるって言うんだ! こいつだって女になりたくてなったんじゃない。原因も分からないまま突然性別がバグったんだ。何にも悪いことなんてしてないのに、こんな理不尽があるかよ!」
璃玖は制止しようとするソラの手を払って、宥めようとする先生を押し退け、女性の目の前に歩み出た。嫌悪に歪む女性の顔を頭一つ分上から見下ろし、鋭い視線で威圧する。
「な、なによ!」
思わず怯み、女性は後ろへよろめいた。彼女を追ってさらに一歩前に出た璃玖は、思いの丈を言葉に乗せる。
「あんたが自分の子供を想って抗議しに来てるのはわかる。でも、ソラだって子供なんだ。性転換に巻き込まれて、妙な噂を流されて、苦しんで苦しんで……一週間も学校を休むほど繊細な子供なんだ! だから……どうか、酷いことを言わないでください」
そこまで一気に話して、璃玖はその場に正座をした。女性を見上げ、真剣な眼差しで訴える。
「こいつ、ルックスが良いから昔からモテるんです。でも、誰とも付き合ったことがないんですよ。大好きな登山に時間とお金を割きたいからって、誰とも。────訂正してください。ソラは確かに心は男の子のままかもしれない。でも! 性欲に塗れて薄汚れた存在なんかじゃ決してないんだ……訂正して、謝罪してください!」
お願いします、と叫びながら、璃玖は廊下に頭を擦り付ける。璃玖に迷いなんてなかった。ソラの尊厳を守るためならば、土下座だってなんだって平気だった。
女性は激しく狼狽えた。自分の子供と同じくらいの年齢の少年にこんな真似をさせてしまったのだから、平然とはしていられないだろう。
「お母さん、私たちからもお願いします」
教師たちの中で一際良いスーツを着た初老の男性が、璃玖の隣で膝をついた。彼もまた、女性に対して強い目をして訴える。ソラに謝罪をしてください、と。彼はそのまま深々と頭を下げた。
「校長先生……そんな、ぼくなんかのために」
焦った様子を見せるソラだったが、その場にいた先生たちが全員正座をし始めるとそれ以上何も言えなくなってしまった。固唾を呑んで成り行きを見守る。
気が付けば、階段の上の方からアウトドア部員たちもぞろぞろと降りてきていた。彼らもまた怒り心頭といった表情で女性を睨みつけている。────ここにいる全員が、ソラの味方だった。
「お願いします、ソラに、一言謝っていただけませんか」
璃玖が駄目押しに言うと、観念したのか、女性は鼻を鳴らして踵を返した。
「……なによッ、もう! これだから男は嫌だわ。寄って集って私を虐めてッ! もういいわ! 教育委員会に訴えてやるんだから!」
吐き捨てるように叫び、彼女はスリッパを脱ぎ捨て、中途半端にヒールを履いて来客用の玄関から外に出ていった。結局、一言の謝罪もなく、嵐のように立ち去ってしまった。
「せん、ぱい」
緊張から解放され、安堵したからか、ソラはへなへなと膝から崩れ落ちそうになる。たまたますぐ近くにいたアウトドア部の眼鏡女子が、ソラの身体を抱き留めた。璃玖もすぐにソラの元へと駆け寄る。
「大丈夫か、ソラ」
「せんぱい……ううっ、ぜんばい゛……!!」
璃玖の胸にしがみつき、泣きじゃくるソラ。そこにいつも見せるようなあざとさは無い。そこにいたのは心をズタズタにされた、若干十五歳の子供だった。
「辛かったな。よく耐えた」
璃玖はソラの背中を擦ってやった。
きっと、ソラの流している涙は今までに溜めてきたストレスが爆発した結果だ。今日の出来事だけじゃない。性転換以降、ソラはずっと周囲の悪意に晒されてきたのだ。
だからこそ、璃玖は今くらいは泣かせてやっても良いんじゃないかと考えた。その一方で、ソラには笑っていてほしいという想いもある。だから────。
「今は沢山泣いて良い……って、言ってやりたいところなんだけどさ。あえて言うぞ」
目を閉じて一呼吸。その間にソラも、顔を上げて璃玖の方を見た。
「────泣くな、ソラ。男の子だろ」
優しい笑みを、ソラに。
ソラはそんな璃玖の微笑みに応えるように……小さく頬を動かした。
「やだなぁセンパイ。……ぼく、女の子ですよ♡」
その瞬間、ほっと胸をなでおろす空気感がその場に広がった。何人かのアウトドア部員たちがソラを取り囲み、それぞれが優しい言葉をかけ始める。女の先生なんか、涙ぐんでいたりもした。
璃玖の方へ、黒髪ボブの眼鏡女子が歩み寄って来る。彼女は拳を突き出すと、璃玖の胸にどんと突き立てた。
「お疲れ、樫野。カッコよかったぞ」
「……あざす!」
突発的なトラブルを乗り越え、ほっと一息つく璃玖。階段に置いてあった自分の水筒を手に取り、こくりと喉を動かした。
見上げた踊り場の窓から覗くは夏の青空。寄り添うように二つ並んで流れていく雲を見つめながら、こう思う。
女になった後輩を。きっとこれからも偏見と闘い続けるであろう親友を。
守るのが自分の役目なんだ────と。