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Scene3-3 璃玖くんと茉莉ちゃん

「あ、あのね璃玖(りく)くん。できれば私と付き合ってほしいんだけど」

「え」


 六月某日。六鹿(むじか)駅より南へ下ったところにある運動公園。部活帰りの夕暮れ時、天気はやや曇り。初夏の気配が色濃くなってきて、風の中には湿った土の匂いが混じっている。衣替え直後のこの時期なので、陽が傾くと、肌寒いような生ぬるいようななんともいえない感覚に襲われる。


 そんな中、璃玖は同級生の女子から告白を受けていた。


「付き合うって、彼氏彼女って意味で?」

「そう。……好きなんだ、私、璃玖くんのこと。だから──」


 彼女の名前は板東(ばんどう)茉莉(まつり)。璃玖とはアウトドア部で共に活動する仲間同士である。

 茉莉の顔は、夕暮れ色に染まっていた。いや、それよりも少しだけ赤みが増しているようだ。はっきりと言えるのは、彼女の目は充血していて、今にも泣きそうな表情だということだ。


 しかし、璃玖は申し訳なさそうに目を伏せると、勢いよく頭を下げた。


「ごめん。俺、茉莉ちゃんのことはすごく良い子だと思うし、可愛いなって思うけど……でも、俺には好きな人がいるんだ。こんな中途半端な気持ちで恋人になることなんてできないから、だから、ごめん」


 茉莉の瞳から涙が(あふ)れる。はじめから半泣きだった彼女の感情の(せき)は限界を迎えていた。


「……あのね、璃玖くんに好きな人がいることくらい、わかってたの。レミ先輩、なんだよね」

「うん」

「やっぱりね。知ってた」


 茉莉だってアウトドア部の一員。璃玖やレミとは毎日のように一緒にいるのだ。璃玖の恋心など最初から全部承知の上だった。これは玉砕(ぎょくさい)覚悟での告白だったのだ。


 仮入部の時には既にレミのことが気になっていた璃玖だったが、実は、本気になったのはもっと後だ。

 トレーニングの一環でボルダリングのジムを借りていた時、誰もが諦めた難しいコースにレミだけが挑戦し続けた。その姿を見た時、その瞬間に恋は確定したのだ。


「わかるよ、璃玖くんの気持ち。レミ先輩はカッコいい。それでいて明るくて、部のムードメーカーで。運動が苦手な子たちのために、部活の再編までやろうと頑張ってる。凄いんだよね、あの人。──勝てるはずがないよね。璃玖くんの心、あの人から奪うなんて……絶対に無理……」


 眼鏡を取って涙を(ぬぐ)う仕草をする茉莉に、璃玖は言う。


「茉莉ちゃんだって、毎日練習頑張ってるじゃん。俺は知ってるよ。毎日、誰よりも早くにトレーニングルームに来て、誰よりも熱心にストレッチをして。だから、絶対なんてさ、」

「じゃあ、頑張ったら璃玖くんは私と付き合ってくれるの? 恋人に、なってくれるの?」

「それは……」


 茉莉の問いに、璃玖は言い淀んでしまう。

 彼女に対して璃玖が評価を与える事と、実際に付き合えるかどうかは全くの別問題である。レミへの想いが消えない限り、璃玖は他の誰とも付き合う気は無いのだから。


「あはは。私なんかが、絶対、勝てるわけないじゃん……レミ先輩みたいな人に、私なんか……」

「『なんか』って」

「頑張りやカッコよさだけじゃないよ。そもそもレミ先輩、物凄く綺麗じゃない。私みたいなオタクなんか勝負になんないよ」


 彼らの身の回りの人たちの中に、レミ以上に容姿を評価されている人物はいなかった。それこそモデル級の人を引っ張ってこない限りはビジュアルでレミに勝てる人間はいないとさえ言う者も存在する。璃玖もまた、同様のことを考えていた。

 しかしそれは茉莉が醜いだとか、劣っているという話ではない。その辺りははっきりさせておきたいと、璃玖は声を大にした。


「茉莉ちゃんはすごく綺麗な子だと思うよ。オタクっていうのはよくわからないけど、趣味嗜好とルックスは関係ないしさ」

「口ばっかり」


 茉莉はジト目になって口を尖らせた。

 彼女を怒らせてしまったのではないかと璃玖は焦る。単純に見た目を褒めるだけでは駄目だったのか。茉莉の言うレミの美しさも認めたうえで、それでも、と表現したほうが良かったのだろうか。

 ──璃玖は軽くパニックに陥っていた。恋愛経験に乏しいからこそ、こういう時に女の子をどう慰めるべきなのかが分からない。


「え、えっとね。確かに俺もレミ先輩は一番綺麗だと思う。だけどさ、その、なんていうか……茉莉ちゃんは二番に綺麗だ! 二番目に可愛い!」


 既に自分が何を口走っているのか分からなくなっている璃玖である。冷や汗をかきすぎてわきの下までぐちょぐちょだった。

 一方、璃玖の意図しない言葉の暴力で茉莉の心はどんどん(えぐ)られていく。彼が取り(つくろ)えば取り繕うほどに、感情にダメージが重ねられていく。


「あのさ、二番って言い切られるのはムカつくんですけど!?」

「えと。いや、ほんとごめん」

「……もう!」


 ぷんすかと怒り始める茉莉は、既に泣いてなどいなかった。ある意味、璃玖の言葉に茉莉の心はいくらか晴れたらしい。言ってしまえば怒りの感情で悲しみが多少塗り潰された状態であった。


「なんかもう、おかしいな」

「何が?」

「今の一瞬で璃玖くんのこと嫌いになった」

「……えぇッ!? な、なんで!」


 茉莉はハンカチで目の端を拭うと、鼻をすすって歩き始めた。慌てて璃玖も後に続く。

 璃玖は焦っていた。自分でもとんでもないことを口走っていた気はするのだが、一方でそれは璃玖の、茉莉に対する最大限の気遣いでもあった。ここまで怒られるなんて、彼は思ってもみなかったのである。


「えっとね、キザなとことか」

「きざ?」

「そ。キザってね、気に(さわ)るって書くんだよ。それに────」


 茉莉は立ち止まる。彼女は璃玖を振り返ると、真顔に少しだけ馬鹿にしたような表情を付け加えて言った。


「あとは……勝ち目のない恋に、躍起(やっき)になっているところとか、嫌いだな」

「……」


 璃玖は何も言えなくなる。

 勝ち目がない。そんなこと、璃玖にだってとうに分かっていることだったからだ。事実を突きつけられること、それは人間の心にとって最大級のストレートパンチを食らったのと同じだ。


「知ってるでしょ? レミ先輩には高校に入って二年間片想いを続けてる人がいるって」


 ……そう、これこそがファクト。璃玖が逆立ちしたってレミの心を捕らえられない理由である。


「聞いたことはあるよ。確か、一年生の時からずっと同じクラスだったって人だろ。何度かレミ先輩と一緒にいるのを見たこともある」


 人づてに聞いた、レミに関する恋の噂。彼女は自分のクラスメイトと絶賛片想い中なのだそうだ。

 レミが一年生の頃からその男子とは仲が良く、いつもふざけてじゃれ合っているような関係だったという。『もう付き合っちゃいなよ』、そう言われることは日常茶飯事であるが、本人たちは恋愛感情を否定しているのだという。


 璃玖にはよくわからない関係性だった。だけど璃玖にはチャンスがないことだけは明白だ。だって、レミが彼を見る目はどう考えたって恋する乙女のそれなのだから。


「私は璃玖くんみたいに勝てない戦いに縛られたくないな。だってさ、辛いじゃん。いつまでも痛みを引きずるのって」

「茉莉ちゃんが俺に告白したのって、もしかして想いを断ち切るため? 痛みを引きずらないように、決着を付けるため?」

「……璃玖くんって鈍いのか鋭いのかよくわかんないね」


 茉莉は何を思ったか、璃玖に肩パンチを食らわせた。

 彼女からの急な攻撃を受けてふらつく璃玖。呆然と目を見開いている璃玖を置いて、茉莉は早足で駅の方面へと歩いていく。


「未練なら、あるに決まってるじゃん。ついさっき振られたんだよ、私。今日は帰ったらひとしきり泣いて、全部吐き出したら……そしたら璃玖くんのこと、ちゃんと嫌いになるんだから」

「お、おう」


 わざとらしく肩で歩く茉莉の後ろ姿に、璃玖は少しばかり羨ましさを感じた。

 きっと彼女は言葉通り、家に帰って大泣きするのだろう。そして明日にはきっと今日の痛みを乗り越えて、一回り大きくなった茉莉が誕生しているのだろう。そんな生き方ができるだなんて。


「じゃあね、()()()()。また学校で」

「ああ」


 自分もレミとの恋に決着を付けるべきなのかと、灰色の空を眺めながら璃玖は考え込む。

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