Scene3-2 レミが仕掛けた甘い罠
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「りぃくくん♪ おっはよー!」
「わ、びっくりした。おはようございます、橋戸先輩」
四月も残り一週間強となったある日の金曜日。璃玖が自宅の最寄り駅で電車を待っていると、横から見知った顔に肩を叩かれた。
栗色のショートヘア、光の加減によってはグレーにも見えるほど色素の薄い茶系の瞳。彼女の名前は橋戸レミ。璃玖の通う六鹿高校の二年上の先輩だった。
「昨日も思ったけど、『橋戸先輩』ってなんかかたいなぁ。下の名前で呼んでくれても良いんだよぉ」
「じゃあ、レミ先輩で」
璃玖が名前を呼ぶと、レミは満面の笑みを浮かべた。
「すごぉい、ちゃんと名前覚えてくれてたんだ? 体験入部に来てから三日しか経ってないのに。嬉しいなぁ!」
「橋戸……レミ先輩のことは、中学の時から知ってましたから。『隣の中学の美人』って有名でしたよ。まさか六鹿高校にいるとは知りませんでしたけど」
「美人って……やだもう照れるぢゃん♪ でもなるほどね、関わりは無くても元々名前だけは知られてたってワケだ」
レミはドイツ系のクォーターである。髪の色も他の日本人よりもかなり明るい色なので、弟のソラと共に昔から何かと目立つ存在ではあった。
もっとも、地域中に名の知れた有名人というわけではなく、璃玖の学校で話題になっていたのも、単に璃玖の学校の先輩がレミに告白して砕け散ったという事実の拡散から始まっていたものに過ぎない。
「はい。だからアウトドア部に体験に行ってお会いした時はびっくりしました。あの噂の! って感じで。──あ、電車来ましたね」
ホームに赤い電車が滑り込んで来る。こんな辺鄙な郊外の駅で降りる人はほとんどおらず、駅にいた通勤通学の人間達を全て吸い込んで、電車は走り出した。車内はそれなりの人数がいるが、人と肩がぶつかるような混み具合ではない。璃玖とレミはドア近くの手すり付近に陣取って、流れゆく車窓を眺めていた。
「ねえ、璃玖くんは結局アウトドア部に決めたの? 他の部活にも顔を出してるんだよね?」
「クラスメイトに誘われるがままに行動してただけですけどね。運動系の部活だったらどこでも良いかなって考えてます」
「ふぅん?」
レミは意味ありげに目を細める。璃玖は彼女の視線の先に、悪戯心というか小悪魔めいたものを感じ取った。何か企んでいるな、そういう顔だった。
「あのさ。私って今アウトドア部の部長でしょ? でもね、正直言って私山岳競技には興味が無いんだ。だから、部を分けたいと思ってるの」
「え、でも先輩ってクライミングが得意なんですよね? 大会でいい成績だったって、昨日他の先輩から聞かされましたよ」
レミは困ったように眉をハの字にし、耳横の髪の毛を指でくるくると弄りだす。
「いやぁ、それもインターハイレベルには程遠いし、ぶっちゃけ私が好きなのはもっとレジャーっぽいことなんだよね。だから、今のアウトドア部はレジャー寄りに、競技目的の人達は登山部を新設して移ってもらおうかなって画策中なの」
璃玖はなるほどと納得した。
色々と一括りにされてしまっているが、アウトドアという概念がまず広すぎる。部活内にも、レミのようにレジャー感覚で楽しみたいだけの人もいるだろうし、インターハイ目指して山岳競技のトレーニングをしたい人もいるだろう。目的別に部を分割するのは理にかなっている。
「それでね、部を分けるとなると、やっぱりそれなりに人数がいるんだよ。同好会レベルにまで落ちちゃうと部費も申請できなくなるし」
「あー……はは、そういう勧誘の仕方はずるいですよ。断りづらいじゃないですか」
レミは両の手をぱんと打ち鳴らし、合掌した腕を掲げたまま頭を下げた。電車内の周りの人々から注目を浴びてしまうが、彼女はお構いなしだ。
「お願い璃玖くん! 入部してくれたら性的なこととか金銭が絡むこととか体力的倫理的にアカン事以外ならなんでも言うこと聞いてあげるからぁ!」
「それほとんど何も聞いてくれないやつ!」
璃玖はやれやれと溜息を吐くが、彼も男の子。好みの女性からここまでお願いされてはアウトドア部に入る以外の選択肢は無くなるというものだ。
「あの、質問なんですが」
「なんなりと」
「『入部する代わりに付き合って』と言ったら聞いてもらえるんですか」
「『性的なこと』はアウトなので。あ、でも一日デートとかなら良いよ、『性的なこと』は何もしないけど」
「あ、じゃあ結構です」
「チッ、すけべぇさんめ」
璃玖はダメ元で頼んでみたものの、答えはやはりノーであった。無理もない。いくら部に勧誘したいとはいえ、出会って間もない男、しかも二歳も年下の中学生に毛が生えたような少年と付き合うことを了承する美人はこの世のどこにも存在しないのだ。
璃玖は考える。レミにお願いしたいことってなんだろう、と。
この時点で、璃玖はアウトドア部に入ること自体は決めていた。悩んでいるのは願い事の一点のみだ。
しかし、レミからすれば璃玖が入部そのものを躊躇っているように見えたらしい。彼女は悲しそうな顔で璃玖に謝ってくる。
「ごめんね璃玖くん。興味のない部活に入るなんて、やっぱり無理だよね。変なこと言っちゃって、本当にごめん」
璃玖は慌てて掌を左右に振り、その言葉を否定した。
「え、あのっ、違うんです。入るのは良いんですけど、どんなお願い事ならアリなのかなって」
「あー、そっちだったかぁ」
少し迷ったのちに、璃玖は名案を思いついた。これなら性的なことではないし、金銭も絡まなくて体力的、倫理的にも何も問題はない。加えてレミと仲良くなれるチャンスが生まれるかもしれない、そんなアイデアが急に降りてきたのだ。
「先輩、入部特典で『一年間勉強を教えてもらう』のはアリですか? 先輩って頭良さそうですし、俺は誰かが傍にいないと集中できないタイプなので」
「あ、あはは。頭良さそう? べ、勉強は得意ではないんだけどな……でも良いでしょう。手を打ちましょう!」
やった、と璃玖は内心でガッツポーズをした。高校入学から約半月にして、薔薇色の高校生活が約束されたも同然だった。
見れば、レミもなかなかに嬉しそうだ。満面の笑みで璃玖を見つめて来る。
これは脈アリか、と璃玖が思った次の瞬間、レミはこう切り出した。
「じゃあ、学校に着いたら早速入部届に記入してもらおうかな。あ、あと部の分割が叶うまでは地獄の斤量トレーニングとかボルダリングの練習にも付き合ってね。それから部活の分割は確定事項じゃないからそのつもりで! お姉さんとの約束、だぞっ♪」
その瞬間、なんだかヤバい人と関わってしまったのではないかと悟る璃玖なのであった。