Scene2-6 宵闇の楔
車は高速道路をひた走り、約一時間後、坂東姉弟は最寄り駅のロータリーにて下車をした。自宅前まで送り届けなかったのは、彼らが駅前に駐輪してあったからだ。
「レミ先輩、私たちまで送っていただきありがとうございます。あの……ソラくんの怪我、私たちが一緒にいながら申し訳ありませんでした」
「いーよいーよ、性別変わって筋力落ちてるのに無茶したソラが悪いんだから。それより茉莉ちゃんも体調とかに気を付けて、頑張ってね。もちろん来舞くんも」
「はい! 一生懸命頑張ります!」
茉莉は助手席のソラ、後部座席の璃玖にも声をかける。
「ソラくん、足が治ったらまたお出かけしようね。それから樫野。……今日は誘ってくれてありがとう。とっても楽しかったよ」
「お、おう」
「ぼくも楽しかったですよ。また遊びましょうね、先輩♪」
こうして双子が見送る中、車は再び走り出す。
そして訪れた、いつぞやの電車内と同じく気まずい空間。
しかし璃玖が危惧していたようなレミのウザ絡みは今日に限っては一切無かった。レミはソラの足を心配したり、璃玖の夢、地質学者について色々と質問をしたりと、いつになく真面目な態度を見せたのだ。
普段の飄々とした態度に覆い隠されてわかりづらいが、家族が大怪我を負ったことは彼女にとっても不安でしかなかったのかもしれない。特に問題なく、気が付けば車は橋戸家の前へと到着していた。
「ごめん璃玖くん。早く休ませてあげたいから、先にソラを家に帰すね」
「あ、はい。わかりました」
璃玖の家はもう少し先だ。彼を送り届けてから自宅の戻るのが普通だろうが、怪我をしたソラを先に降ろしたいというレミの気持ちは理解できるため、璃玖も特に違和感は覚えなかった。レミに余計な手間をかけさせてしまうのではないかと心配する気持ちの方が大きい。
「レミ先輩。俺、歩いて帰りますよ。いつも通学で歩いてる距離ですし」
「遠慮しなくていいんだよ。私も後で寄りたいところあるからどのみち車出すし」
そう言われれば断る理由はない。璃玖はレミの厚意に甘えることにした。
とはいえ何もせずに待機は申し訳ないため、璃玖はソラの介助を申し出る。
車から降りた璃玖はラゲッジルームから松葉杖を取り出し、ソラのいる助手席側のドアを開けてやった。ソラが足を車外へ下ろし、シートから腰を浮かせると、璃玖はすぐさまその手を取って外に出るのを助ける。松葉杖を手渡すと今度はソラの背に軽く手を当ててサポートの体勢を取った。
「へへ。エスコートありがとうございます、センパイ」
可愛らしく微笑んだソラにドキリとした璃玖は、照れを隠すように頬を掻く。にやけそうになるのを必死に堪えながら、彼は言った。
「別に、大したことはしてねえよ。それより今日はありがとな。色々と大変だったけど、お前と遊べて本当に楽しかったよ」
「ぼくも楽しかったです。なんだか幸せでした。性別のこと、今日は気にせずに過ごせた気がして。ありがとうございます、璃玖センパイ」
心の底から満足げな顔をするソラを見て、同時に璃玖の表情も綻んだ。笑みを交わし合うだけで本当に暖かな気持ちになれる。璃玖もまた、ソラと同じように幸せを噛み締めていた。
「それじゃあセンパイ、おやすみなさい」
「ああ。お休み、ソラ」
家の中へと消えていくソラの背中を見送る。扉が閉まる直前、振り返ったソラがにこやかに手を振った。こちらも手を振り返そうと璃玖が腕を持ち上げたところでドアはソラの姿を隠してしまう。なんとなく気恥ずかしく思って、彼は上げた腕をズボンのポケットに突っ込み、ごしごしと擦る。
車の中に戻ろう。璃玖はそう考えて、今度は助手席側に乗り込んだ。
シートが暖かい。そこにはまだ、ソラの温もりがあった。背中を包む、むず痒くも幸せな感覚。
「ああ。俺は、あいつのことを……」
もう、隠しきれない。自分を騙すことは出来ない。璃玖はソラを完全に意識してしまっている。異性として、好きになりかけている。それは璃玖の中で否定の出来ない事実になっていた。
しかし彼の中にはレミに対する未練も燻る。今だって彼女が好き、誰が何と言おうと間違いなく好きなのだ。
今日は割とぎくしゃくせず、彼女と普通の会話が出来ていたように璃玖は思う。なんだか昔に戻ったみたいで嬉しかった。アウトドア部に入ったばかりの頃の、あの時のような関係に……。
「お待たせ、璃玖くん」
璃玖が思考の檻に囚われている間に、レミは家から戻ってきた。運転席に乗り込み、シートベルトを締める。
だが彼女はなかなか発車しようとしなかった。璃玖をじっと見つめ、いつもと変わらぬ笑顔を差し向けるだけだ。
そのうちに璃玖とレミの目が合う。戸惑う璃玖。一層の笑顔になるレミ。それも、優しさを湛えたような、そんな笑顔に。
「ねぇ璃玖くん。少し、お話ししない?」
「良いですけど、俺の家までそんなに距離は無いですよ?」
璃玖が尋ねると、レミは首を横に振る。
「そうじゃないんだよ。ねぇ、璃玖くん」
レミは身を乗り出し、璃玖と額を突き合わせるくらいにまで接近した。璃玖の目を覗き込むようにしながら、表情は崩さないまま。
璃玖の鼻腔をほのかに香水の匂いがくすぐる。この香りは、いつだったか、璃玖が好きだと言った香水のものではなかったか。
レミは璃玖に届くか届かないかの小さな囁き声で、彼に尋ねた。
「今から私と、二人きりになれる場所、行かない?」
ああ、そうか。
────璃玖は悟ってしまう。これは、分岐点だと。
レミが車を発車させないのは、選択権を璃玖に委ねているからだ。
今ここでレミを拒絶すれば何も事は起きない。今日も、そしてきっと、これから先も。
一方、ここでレミの誘いを受けたのなら。これから起きることに対する十字架は、レミでなく、彼自身が背負うことになる。選択したのは璃玖なのだから。
「先輩は、卑怯です。今日は初めから、俺が目当てだったんですね」
「さぁて、何のことぉ?」
璃玖は考えた。
レミとの馴れ初め。
彼女と共に過ごした日々。
あの日、変わってしまったレミに対する後悔。
レミに性的に迫られ、拒んだ。
彼女が他の男性と関係を持っている事実を知った。
それに、ソラの性転換。
二人の関係性に変化が生じ、今ではソラに対してただならぬ感情を抱き始めている。
しかし、踏み出せない。何故なら、レミという名の楔が、彼の胸に突き刺さったまま抜けないのだから。
決着を付けなければ。この想いに、決着を。
もう一度レミに想いを打ち明け、そして彼女の深層に潜るのだ。
でなければ、自分は前に進めない。
────璃玖は覚悟を決めた。
「良いですよ、レミ先輩。俺も、先輩に聞きたいことが色々とあるので」
「……そ。じゃあ、いこっか♡」
レミは宵闇に向かってアクセルを踏んだ。
次回よりScene3に移ります。
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