Scene1-3 頑張るソラと戦略的誘惑
「はいはい、そこッ! 止まらない! 別にゆっくりでいいから歩き続けて! あと五分ね、ふぁいおー!」
ここは本校舎の中央階段。
ジャージ姿の生徒たちが十数名、ひたすら昇降を繰り返している。おもりを背負ったりだとかダッシュしたりだとかの激しいものではなく、ただ歩くだけという地味な動きだが、これを彼らは三十分近くも続けていた。
体力のある三年男子などは一段飛ばしで進み続けているし、一年生は男女ともにへばり気味である。三年の眼鏡女子が自らも階段を昇り降りしながら全員に声を掛け、ペース管理を行っていた。
「ソラ、大丈夫か? アウトドア部のトレーニングなんか久しぶりだろ。無理そうだったら平地を歩くだけでも良いぞ」
「璃玖センパイ。大丈夫です。もう少し頑張れます!」
璃玖もまた部員たちのペース管理の役目を担っているのだが、今はもっぱらソラに付きっきりの状態に近い。
「まだ体の調子が戻り切ってないんだろ。無茶だけはするなよ」
「はい……」
【性転換現象】以降、ソラの体力は万全とは言えない状態だった。男から女に変わったことで単純に筋力が落ちたというだけでなく、全体的にスタミナが少なくなってしまっているのだ。
璃玖がこうしてソラの近くにいるのは、心配だからという心理的な面だけでなく、万が一足を滑らせるなどの事態になった時にすぐにサポートに入れるようにという安全対策の面も大きい。
「何かあったらすぐに言ってくれ。俺はずっと傍にいるから」
璃玖がそう言うと、ソラはハッとなって踊り場で立ち止まった。ソラは数段下にいる璃玖へと振り向き、にやけ面してみせた。なんだか嫌な予感がする、と璃玖が身構える間も無くソラが囁く。
「今の台詞、なんか愛の告白っぽいですね♡」
「ばッ……どんな曲解だよ!」
思わず大声でツッコミを入れる璃玖。心が男の後輩に告白なんてするはずがない。よりにもよってこんな場所で。
ソラは吹き出しそうになる口元を手で押さえながら目を細めた。
「やだなぁ、ぽいって言っただけじゃないですか。それともあれですか、本当にそう言う気があるとか?」
「あーりーまーせん! 妙なことを言ってないで、こんなところでサボっていると────」
「こら樫野、部長のくせにサボるな! つか、こんなところでいちゃついてんじゃない!」
ちょうど階段を降りてきた眼鏡女子が璃玖の言葉に被せるように言った。彼女は璃玖に向かってチラッと舌を出し、そのまま階段を降りていく。
「ふふっ、怒られちゃいましたね、センパイ」
「……なんで俺だけ?」
首を傾げる璃玖なのであった。
────
──
四十分後。二セット目の階段トレーニングでヘトヘトになったソラは、階段の一階付近に腰を下ろして少し休んでいた。もうすっかり脚が上がらない様子で、壁にもたれかかり、水筒のお茶を口へ運ぶ。
「うう……トータル一時間も無いのに、もう限界なんて」
「他の一年生なんか一セット目でヒーヒー言ってただろ。十分すぎるくらい体力が戻ってるよ」
「うーん」
ソラの腰掛ける階段のすぐ下。一階部分で立っていた璃玖は、悩めるソラの頭を乱暴に撫でた。璃玖が手を動かすたびに、ソラの頭がぐわんぐわんと揺れる。
「あーーあーー。センパぁイ、撫で方が雑ですよぉ」
「別に良いだろ。恋人とのスキンシップでもあるまいし」
「……そのうち彼女になるかもしれない女の子が相手なのに?」
「誰がだよ!」
璃玖はソラへの頭撫でをデコピンでフィニッシュした。ソラは額を押さえ、口を尖らせて上目遣いで璃玖を睨む。
璃玖の感性から言って、今のソラは可愛い以外の何者でもない。心が男の子だという事実を知らなければ、あるいは璃玖の心に『ある人物』の縛りが無ければ、本当に恋をしていたかもしれない。
「しかしお前は男の子だと言ったり女の子だと言ったり……そんな態度だと、五月の時の二の舞になるぞ」
「うう……」
璃玖が忠告すると、ソラは途端に表情を曇らせる。
悲しげに揺れるソラの瞳に、璃玖は今の指摘が己の失言に他ならないことに気付いた。
「ごめん。気にしてることだったよな。……考え無しだった。本当に申し訳ない」
璃玖はソラの前に跪いて、軽く頭を下げる。
するとソラは両手をわたわたと振って慌て、
「あわわ、謝らないでくださいセンパイ。こないだ女の子として生きるって決めたばかりのに、曖昧な態度を取ってたのが悪いんですから」
と、謝る璃玖を落ち着かせた。
しかし、そこで終われば良かったものの、ソラは璃玖の手を取ると満面の笑みを浮かべてこう続けた。
「だから、これからは女の子として見てもらえるよう、一生懸命センパイを誘惑しますね☆」
いや、どうしてそうなった。璃玖は心の中でのツッコミを禁じ得ないのであった。
はあ、と璃玖は大きく息をつく。
璃玖を誘惑するとソラは言うけれど、本当は男である自分など恋愛対象にならないのはわかりきっている。ソラ自身が『無理だ』と言っていたのが証拠である。
故にこれはきっとソラの自衛策なのだ。五月から始まった受難に対して、周囲に『女の子』として受け入れてもらうために自分を利用しているのだ────璃玖はそう解釈した。
「わかったよ。ただ、その顔は反則だって。……お前、似過ぎてるから」
「誰に……って、一人しかいませんねー♡」
ニヤニヤと笑うその顔に少々ムカついた璃玖は、ソラの跳ねっ毛を軽く引っ張って攻撃する。笑いながら痛がるソラ。こういうのも、傍から見ればいちゃついているように見えるのだろうかと璃玖は内心苦笑した。
「さ、もう少し休んだらみんなの所に戻るぞ。次はプランクと腕立て────って、誰か来たな」
璃玖たちが階段トレーニングをしていた本校舎の中央階段は一階部分で来客用の応接室と隣接している。その部屋から、先生を含む複数人の大人たちがゾロゾロと出てきた。そのような人たちの前で地べたに座ったままでいるわけにもいかず、璃玖とソラは立ち上がって会釈する。が、そこに璃玖たちがいるとわかった瞬間、先生の何人かがギョッとした表情になるのだった。
「あ、あなたたち、どうしてここに」
「え……?」
先生一人がそう言った瞬間、やけに着飾った化粧の濃い女性が璃玖たちの方へ振り向き、途端に険しい表情になると、大きな声で叫んだ。
「こ、コイツよコイツ! コイツが元オトコっていう子でしょ!? 気持ち悪い!」