Scene3-9 迷い道と道標
「ソラはさ、今すごく悩んでるんだよ。表面上は女の子を受け入れてあざとく振舞っているように見えるけど、本当は今だってどっちつかずのままだと思うんだ。だから……恋愛沙汰にソラを巻き込むのは、少し違うんじゃないか。余計にあいつを追い詰めるだけじゃないのか!」
一度口から感情が漏れ出ると、後は栓を抜いたように言葉が溢れてきた。茉莉の気持ちもわかる、けど今じゃないだろうと本気で訴えかける。
それに対して、茉莉は至極冷静だった。璃玖のように声を張り上げることはせず、淡々と答える。
「樫野。ソラくんはさ、男の子だよ。きっと、これからも。どれだけ可愛くなったって、根っこにあるものが簡単に変えられるわけない。だから私ね、言ったんだよ。『男の子に戻るのを諦めないで』ってさ」
茉莉のスタンスは、璃玖とはあまりに違っていた。同じくソラを想う味方のはずなのに、どうしてこうも噛み合わないのか。
「私はね、性転換しても頑張り続ける彼が好き。だからこそ、問題の根本を解決できるならその手伝いをしてあげたいんだよ。そのために今、勉強もすごく頑張ってるんだ。本当はさ、付き合うとか付き合わないとかは二の次なんだよ。彼の役に立ちたい、それだけ」
茉莉の言い分は璃玖にも理解できる。まさに理想的な解決方法だとも思う。悩みの種ごと消滅したならば万事解決、後に残るはただの思い出。笑い話だ。
だが、璃玖はそれでもソラを縛るようなやり方はしたくなかった。背中を押すのではなく、傍に寄り添ってやりたかった。
ソラにゆっくりと時間をかけて生き方を考えてもらい、自分はどんな結論でも受け入れる。それが璃玖の選択だ。
「俺とは相容れない考え方だな、それは」
「そうだよ。だからこそ、今日は樫野を呼び出したんだ。宣戦布告、ってやつだよ」
本当は茉莉と対立なんてしたくない璃玖だったが、彼女の認識では既に戦らしい。
──ならば、伝えるべきだ。自分の想いを。
深呼吸をしてから、璃玖は口を開く。
「俺はさ、あいつを『男』『女』で決めつけるようなことはしたくない。それは時間をかけてソラ自身が向き合わなきゃいけない問題で、誰かに強制されるのはおかしな話だ。それに万が一、男に戻るのが叶わぬ夢だということになれば……ソラはそれこそ今よりも深い絶望に襲われるんじゃないのか。そう言った意味では、お前の意見は何かしらの解決法があるっていう前提をもとにした危うい考えだよ」
「それは、そう……かもだけど」
茉莉が顔を伏せていく。彼女にも自らの主張の孕む危険性が分かったのだろう。
希望を抱いた人間ほど、絶望の淵に沈みやすい。一度見出した光を忘れることは難しく、それが手の届かぬものだと知ったとしても、かつて見た幻想の光に縋ろうとしてしまうからだ。
それが努力でひっくり返せる類のものなら良い。だが、【性転換現象】は全てが未解明の超常だ。ありもしない解決法を求めて転落していくことになるかもしれない。そんなソラの姿など、璃玖は見たくはなかった。
「これからソラが何を見て、何を感じて、どう言う選択をするのかわからない。けど、進むべき道の選択はあいつ自身に任せたいんだ。一緒に道に迷って、時にはお互いに手を差し伸べあったりして、そうやって生きていきたい。それが、俺が親友としてあいつにできることだと思う」
璃玖は茉莉に向かって、いや、茉莉の心の奥にいる彼女のソラに向かって微笑みかけた。
「俺は信じるよ。あいつがいつかこの『山』を登り切って頂上から来た道を振り返った時、その道のりが素晴らしいものになったって、笑っていられることを」
「……樫野」
茉莉にとってソラとは頑張り屋さんで、繊細な、あくまで年下の男の子だった。時折見せる芯の強さを感じつつも、結局は誰かの支えが必要になると信じていた。
一方で璃玖は、ソラの弱さも強さも、正解も過ちですらも全部を受け入れると決断している。導くのではなく、一緒に道に迷うのが璃玖のスタンスだった。
「(……こりゃ、ソラくんが依存するわけだよね)」
璃玖の主張は、言い換えれば『何もしない』である。しかし、ソラのことを思えば思うほど、その『何もしない』は難しくなってしまう。何かしらのおせっかいを焼きたくなるのが人情というものだ。
璃玖がやろうとしているのは、究極のイエスマンになること。ソラの行動を全肯定し、常に認めてあげることだ。ある意味、とてつもない信頼が無ければ出来ないことだった。
「(それでも私は)」
茉莉はベンチから立ち上がった。璃玖を見下ろし、彼の方へ拳を突き付けながら、彼女は言う。
「あんたの想いはよくわかったよ。だけどね、私だって諦めないんだから。ソラくんが道に迷わないように、先回りして看板を立てておくくらいのことはしてあげたいよ」
せめてソラの道標になりたい。それが茉莉の願い。璃玖の使った山登りの比喩に割り込んだのは、きっと茉莉なりの精一杯の抵抗なのだろう。
しかし彼女の言い分はそれで終わらない。「だけどね」と、茉莉は言葉を紡ぐ。
「もしも、万が一、ソラくんの性別が永久に元に戻らないのだとしたら……その時は樫野、あんたが──」
「俺が?」
茉莉の言葉はそこで途切れた。少しだけ唇を震わせた彼女は、しかし何も言えなくなってしまった。かぶりを振り、口を真一文字に結び直した茉莉は、璃玖に届くギリギリの声量で呟く。
「……いや、何でもない」
そしてそのまま、しばし訪れる沈黙。
やがて茉莉は、璃玖に背を向けたまま告げた。
「私、帰るね」
去り行く背中を、璃玖は追わなかった。
彼女だって璃玖にとっては大切な友人の一人である。その友人と意見を違えたまま、隣を歩くことなんて出来やしないのだから。