前へ次へ
20/126

Scene3-7 諦めないで

 飯盒(はんごう)を熱するのに使ったかまどに、再び(まき)()べられる。

 ソラと茉莉(まつり)はかまどの近くに置かれた折りたたみ椅子に腰掛け、暖を取っていた。茉莉の身体は事故から二十分ほど経過した今になってもまだ震えている。


「転んじゃった時にね、すぐに起きあがろうとしたんだよ。だけど、腕に力が入らなくて、どうすることも、できなくて」


 彼女はまもなく一粒二粒と感情の(しずく)(こぼ)す。

 自分が部活のイベントを台無しにしてしまった。ソラや璃玖(りく)がいなければ命まで無くしていたかもしれなかった。怖くて悲しくて、でも嬉しくて、やっぱり苦しかった。


「溺れようとして溺れる人なんていませんよ。茉莉先輩は何も悪くないです」

「でもさ、私のせいでキャンプを切り上げることになっちゃったし」


 ソラたちがいるこの場所から少し離れたところでは、アウトドア部員たちがテントの解体作業を進めていた。璃玖が指示を飛ばし、骨組みをバラしている様子が見て取れる。本来よりも幾分か早い撤収である。


「先輩のせいとかじゃなくて、川の状況が悪いからですよ。今日の川、やけに滑りやすくなってましたから」

「でも」

「むしろ先輩のおかげで川の状況が危険だって判断できたんですから、気にしないでください」


 ソラは茉莉に微笑みかける。一方の茉莉はまだ浮かない表情だ。仕方がないだろう、自分のせいでイベントを潰したという罪悪感はちょっとやそこらで消えるものではない。


「それに、ぼくだって向こう見ずに飛び出してしまって、結局璃玖センパイやみんなに助けられたじゃないですか。茉莉先輩に非があるというのなら、ぼくもですよ」

「そんな、ソラくんはすごく頑張ってくれたじゃない。カッコ良かったよ」


 茉莉がそう言うと、ソラは何処か遠くの景色を見つめて、自嘲(じちょう)気味に笑う。


「『カッコ良い』……ですか。ぼく的には女の子として、ぜひ『可愛い』を目指したいんですけどね」


 落ち着いた調子で話すソラの声に、茉莉が反応した。唾を飲み込み、彼女は一口発する。


「女の子、として」


 空気を()むようにして呟いた彼女の声は、薪の()ぜる音に掻き消されてソラの耳には届かなかった。


「あ、そうそう。カッコ良いといえば璃玖センパイですよ。今回だってすごく冷静に対処してたじゃないですか。ぼくも見習わないと。ねえ、茉莉先輩もそう思」


 ガタン。ソラの言葉を(さえぎ)るように、茉莉が音を立てて椅子から立ち上がる。彼女はソラの正面に回り込むと、ぐっと顔を近づけた。

 美しい黒曜石のような瞳が、麗しい灰色の瞳に迫る。やがて、ソラは恥ずかしさに目を(そむ)けた。


「ソラくん、私の目を見て」

「まつり、せんぱい」


 ソラが茉莉の顔を視界に捉えると、そこには今にも泣き出しそうな彼女の顔があった。どうしてそんな顔をしているのかはソラにもわからない。ただ、先程の『イベントを台無しにした』という感情とはどこか違ったものに見える。

 茉莉は意を決したように重い口を開いた。


樫野(かしの)は確かにカッコ良かったよ。だけど私は、ソラくんが真っ先に助けに来てくれたことが何より嬉しかった。だって、私は──」


 黒いまなこが、光に揺れる。


「──私は、ソラくんのことが好きなんだ。綺麗で、繊細で、優しくて、他人の気持ちを理解してくれる、時には身を(てい)して助けてくれる……そんなソラくんが、男の子としてのソラくんが、ずっと好きだった……!」

「えッ、ちょっ」


 茉莉は感極まり、とうとう涙を流し始めた。

 彼女からすれば、気になっていた年下の男の子がある日突然性転換してしまった状態な訳だ。今だってきっと、思いを伝えるべきか否かを迷いに迷っての発言だったのだろう。

 【性転換現象】による被害者の中で、元の性を取り戻せた人は今のところ皆無。いくら茉莉が男の子であるソラを好いていたって、彼女の理想通りの付き合いができる可能性はかなり低い。


「だからね、これは私のわがままかもしれないんだけど、ソラくんには男の子であることを諦めて欲しくないんだ。男の子に戻る方法だって……ソラくんが周囲に気を(つか)って女の子であろうとしてることとか、ちゃんと理解してるつもりなんだけどね……ごめん、頭が回らないや。今日はなんかいっぱいいっぱいだ」


 腕で涙を拭いながら、懸命に話す茉莉。溺れかけた直後ともあって、彼女はどうも、想いだけが先走って思考が追いついていない様子であった。

 そんな茉莉の手を、ソラはそっと握った。瞬間、茉莉が我に帰ったように顔を上げる。


「ぼくのことを大切に想ってくれてありがとうございます」


 ソラは照れくさそうに笑うが、ほんの少しの申し訳なさを目元に滲ませていた。そして、続く言葉もまた、申し訳ないという謝罪であった。


「だけど、ごめんなさい。ぼくは茉莉先輩とは付き合えません。……まだ付き合えない、というのが正確かもしれないですけど」

「まだ……?」

「はい。まだ、です」


 そう言って、ソラも目元を指の腹で拭った。


「あはは……なんでぼくは女の子なんだろう。性転換なんて無かったら、今頃飛び上がるくらい喜んでいたはずなのに」

「それって、オーケーしてたってこと?」


 ソラは押し黙る。ほんの(わず)かに首を動かすが、それはイエスともノーとも取れないものだった。

 ソラの中にある迷いを感じたのか、茉莉もそれ以上の追求は避け、再びソラが話し始めるのをただ待っている。ひと呼吸の間を置いて、ソラの唇は言葉の続きを(つむ)ぎ出す。


「まずは自分自身に整理をつけないと、何も決められないです。男と女、どっちつかずでいるぼくに『そのままのソラを受け入れる』──そう言ってくれた人もいますし、もう少し迷っていたいなって」

「……そんなクサい台詞(せりふ)を平気で言う奴がいるんだね」

「ふふ、いるんです」


 ソラは名前を言わなかったが、茉莉はやや離れたところで荷運びをしている黒髪癖毛の男子生徒を(にら)むように見つめるのだった。


「羨ましいな」


 口の中だけで(ささや)くような茉莉の声は、誰の耳にも届かずに風の中に溶けた。

前へ次へ目次