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Scene1-2 センパイですよ♡

 樫野(かしの)璃玖(りく)には大切な友人がいる。

 そいつは憧れの先輩の実弟であり、璃玖にとってもまた弟分みたいな存在であった。


 期間にして(わず)か二年弱の付き合いであるが、妙にウマが合うので気がついたら隣にいるのが当たり前であった。

 璃玖がいるからという理由で同じ高校に進学してくる程度には気に入られているし、璃玖もその点はまんざらでもなく思っている。


 しかし、その仲の良さがまさか璃玖の悩みの種になる日が来ようとは。


「ねえ樫野、あんたってソラくんと付き合ってるの?」


 ……ほら来た。

 通算何度目だろうか。


 同じアウトドア部の眼鏡女子が興味津々といった感じで質問してきた内容は、ここ一ヶ月弱何人もの知人友人から繰り返し問われ続けているモノだった。いい加減食傷気味なのである。


 璃玖はプレハブの部室を開錠し、薄暗い部屋に照明を灯しながら溜息混じりに答えた。


「付き合ってないって。お前、この間も聞いて来なかったか?」


 璃玖がうんざりしながら眼鏡女子へと目を向けると、彼女は黒髪ボブの前髪を(いじ)って顔を()らし、少しはにかんだ。


「ええー、だって気になるんだもん」

「あのなぁ」


 璃玖は項垂(うなだ)れる。


 彼と友人とはいくら仲が良いと言っても同性同士。

 同性愛の気質もないから恋人になんてなるはずがない。


 ──と、少し前までならはっきりと宣言できたのだが。


「いくらソラが女の子の身体になったとはいえ、心は男のままなんだからさ、変な勘違いはやめろよな」


 そう、璃玖の大切な親友であり部活の後輩である橋戸ソラは、ある日突然女になってしまった。

 (ちまた)で話題になっている超常に巻き込まれて。


「【性転換現象】って、精神面にはなんの影響もしないとは聞くよね」

「現象そのものはな。だけどあいつの場合は……」


 璃玖が何かを言いかけたところ、部室の方へと駆けてくる足音に気がついた。

 プレハブ小屋の鉄階段から元気の良い音が聞こえてくる。


 音の調子から、璃玖にはそれが誰なのかを瞬時に察することができた。

 もうあと二秒もすれば、栗色の髪をしたそいつが引き戸を開けて飛び込んでくるに違いない。



「せんぱぁぁぁい! テスト終わりましたぁぁぁ♡」



 その存在は璃玖の予想を遥かに超えた勢いをもって、部室へ来るなり璃玖の胸へと勢いよく飛び込んできた。

 半径三十センチ以内に綺麗な灰色の瞳が迫り、くすぐったさと、柔らかさと、レモンのようないい香りが一気に襲いかかってくる。


「ぎやあああ!? お、お前……そういうところだぞ!」

「なにがですかぁ?」

「みんなが寄ってたかって『付き合ってるのか』って聞いてくる原因だよ!」


 女になった後輩は人差し指を唇に置き、跳ねっ毛をぴょこりと揺らしながら首を(かし)げる。

 そういう仕草がいちいち可愛いからつらい。

 こいつの心は本当に男のままなのかと、璃玖は疑いたくなるのだ。


「お前のスキンシップが過剰って話。茉莉(まつり)もそう思うだろ?」


 自分以外の意見もソラに聞かせてやりたくて、璃玖は眼鏡女子にも話を振った。

 すると彼女は苦笑いし、気まずそうに答える。


「二人きりの時にくっついて甘える分には良いんじゃない? 人前でイチャイチャはムカつくけどさ」

「だ、そうですよセンパイ。二人きりなら良いそうです!」

「そもそもボディタッチを控えるという流れにはならないのか……」


 璃玖が(あき)れてソラを見やると、向こうは猫の口のような笑い方で、瞳をうるうるさせ、上目がちに見つめ返してくる。


 ソラは女になったばかりの時より髪が少し長くなった。

 もう、どこからどう見ても美少女にしか思えない。

 男だった時と顔のパーツはあまり変わっていないはずなのに、『本当は男です』と第三者に言ったって信じてもらえる容姿ではもはやない。


 さらに言えば、璃玖はソラの顔立ちに、別の誰かの面影を重ねていた。


 それは、彼が憧れてやまない存在。

 栗色の髪をなびかせて、灰色の瞳で不敵に微笑(ほほえ)む彼女は、ソラの────。


「どうしたんですか、ぼくの顔を真剣に見つめて。もう、照れちゃうじゃないですか♡」

「いや、あの……なんでもねーよ!」


 璃玖はソラを押し退けると部屋の奥まで歩いて行き、小さな窓を開放した。

 新鮮な空気を取り込み、両頬をピシャリとやって雑念を振り払う。


 一旦意識の外に追いやろう、あの人のことは。

 今のソラにあの人の面影を見てしまうことも……今は忘れないと。


 しかし璃玖がせっかくソラから離れたというのに、ソラはその隙間を埋めるように距離を詰めてくる。

 まるで糸で繋がれた(たこ)のように。

 片時も離れたくない恋人のように。


「ねえセンパイ。いっそ、本当に付き合っちゃいます? そうすれば、逆にみんな何も言ってこないかもですよー?」

「ばか、お前からすれば身も心も男のやつと付き合うってことになるんだぞ。無理だろ、そんなの」


 ソラは少し思案して、すぐに苦笑した。


「あー……無理ですね」


 ソラにとって男性と恋人関係になることは同性愛に等しい。

 元々そちらの気質が無い者が簡単に恋愛志向を変えられるだろうか、いや、ない。


 いっそソラが心まで女の子になってしまっているなら、話はもっとシンプルだったろう。

 周りから奇異の目で見られることもなかったはずだ。


「女の子として生きるって決めたのに、こればかりは。……あ、でも」


 でも、と言ったソラは突然ジト目になってニヤリと笑う。


 企みの妖精、悪戯の天使。

 この顔をしたソラに相対した時、璃玖は大抵一撃でのされてしまう。

 どうせまたよからぬことを考えついたに違いない。

 璃玖は不意打ちに備え、身構えた。


 璃玖の警戒も意に介さず、ソラは少し背伸びをして彼の耳元に(ささや)きかける。

 小悪魔の魅惑を存分に織り込んだ、璃玖の脳を液体(トロトロ)に変える程の魅力的なウィスパーヴォイス。

 璃玖の上唇から泣きボクロのあたりまでを瞬時に赤く染め上げる、ソラの必殺技。


「男の人の中で一番可能性があるのはセンパイですよ♡」


「あふんッ」


 妙な声を発して璃玖は書道机の上に倒れ込んだ。

 今のソラを前にしてはいくつ心臓があっても足りない。


 先程の囁き声が脳内でいつまでも反響する感覚から抜け出せない璃玖であった。

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