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Scene3-1 ハグ・∠45°

 七月十日、火曜日。天気は晴れ。


 エアコンも無い古いプレハブの小部屋。お世辞にも快適とは言えない場所だが、窓を全開にして扇風機を全力で回すと多少はマシになる、そんな場所。部屋の端には書道机とパイプ椅子が置かれ、現在は二人の利用者が存在した。


「なあソラ、お前トレーニングサボってて大丈夫なのか?」


 涙袋と泣き黒子(ぼくろ)がチャームポイントの黒髪癖毛男子──樫野(かしの)璃玖(りく)がそう尋ねた先には、窓から新鮮な空気を全力で取り入れる栗色の髪の美少女がいた。美少女もとい橋戸ソラはパイプ椅子に膝立ちをし、腕を組むような姿勢で窓枠に肘を置いて外を眺めている。


 椅子に腰かけている璃玖のすぐ隣でそれをやるので、彼の視界の端には常にスカートから覗く生足がちらついており、ラップトップで作業中の璃玖の集中はごりごりと削ぎ取られていく。時折扇風機に吹かれてスカートが揺らめくので余計に、である。


「センパイこそ練習に参加してないじゃないですか」

「俺は夏のキャンプのしおり作ってんの。部長だから雑務もあるんだよ」

「ぶー、いいなぁ合法的にサボれて」


 膨れっ面を見せるソラは、以前にも増して女の子らしくなってきていた。栗色の髪は性転換直後と比べるとかなり長くなり、既に襟足(えりあし)まで届いているし、初めは恥ずかしがっていたスカートも、今では自然に着こなしている。どんどん綺麗になっていくソラの姿に、璃玖はいつしか想い人の姿を重ね見ていた。


 『ねえ、璃玖くん。見て見て、こうやってやると涼しいんだよ、ここ』

 『椅子の上に膝立ちとか、行儀悪いですよレミ先輩』

 『ぶー、璃玖くんってばつれないなぁ』


「──センパイ? 璃玖センパイ?」


 自分の名を呼ぶソプラノの声に、璃玖は我に帰る。

 二年前の同じ時期に同じ場所で風を浴びていたあの人の記憶が、璃玖の心にいまだに居座り続けている。それを自覚して、璃玖は胸を締め付けられる思いがした。


「どうしたんですか、そんなに見つめて。もう、照れるぢゃないですか♡」

「べ、べ、別にお前を見つめていたっていうか、考え事をしてただけだし」


 ソラは口に手を当てにへらーと笑う。何か(たくら)み事をしている時の顔だ。


「またまたぁ。どうせぼくの生足でも眺めてドキドキしてたんでしょう? スカートからチラ見えする素足って、男の人は好きですからねー♪」


 ぐぬぬ、と璃玖は何も言えなくなる。流石(さすが)は元々男だっただけはあり、よくツボを心得ているものだ。


「ほぉら、センパイ。よぉく見ててくださいね♡」

「!?」


 ソラはスカートをたくし上げ、下着が見えるか見えないか、限界ギリギリのラインを攻める。目を細め、舌なめずりをして妖艶(ようえん)に璃玖を誘う。


「ふ、フン。どうせ中に何か履いてるんだろ」

「どう思います? な・か・み──見てみたいですか?」

「(くッ……コイツ!)」


 ソラは完全に璃玖を玩具(おもちゃ)にしていた。初心(うぶ)な反応を見て楽しんでいるのだ。


 もしもソラが『こうしている間は自身に降りかかった災難だとか偏見だとかを忘れられる』というのなら、気の済むまで付き合ってやりたい。璃玖はそう考えるが、一方でこの絵面(えづら)は非常にマズい。万が一、今この瞬間に誰かが部室に入ってきてしまったら。


「やめろ、馬鹿。誰かに見られたらどうするんだ!」


 璃玖はソラの手を掴み、強制的にスカートの(すそ)を下げさせた。途端(とたん)にソラの太ももは青い制服のスカートで覆い隠される。これで安心、とほっと一息ついたのも束の間。


「わ、わーっ! いきなり何するんですか、って、おっと!?」


 いきなりスカートを下げられたことで腰骨の位置で布が突っ張り、ソラは大きくバランスを崩した。腕を広げて羽ばたく様な動きをするが、一度乱れた体勢は元には戻らない。ソラは目の前にいた璃玖の方へと思いっきり倒れ込んでいった。


「ちょッ……はぁ!?」

「せ、センパイ! 止め────」


 咄嗟(とっさ)に椅子から立ち上がった璃玖が、斜めに傾いたソラの上半身を受け止めた。……というより、抱き留めた。

 ソラの脇の下あたりから腕を差し入れ、背中に手をやった形になった璃玖と、璃玖の肩から首の後ろへ腕を回した形になったソラ。瞬時に首を傾けたのは幸いだった。でなければ、二人はキスをしてしまう位置関係になっていた。


「おい……大丈夫か、ソラ」

「は、はい。センパイこそ……大丈夫ですか」


 抱きしめ合った姿勢のまま、互いの身体を心配する二人。さっさと離れれば良いものを、頭がいっぱいになってしまって身動きに結びつかない。

 璃玖は、ソラの柔らかな感触と柑橘(かんきつ)のような香りに脳を焼かれる気分だった。同時に味わうのはとてつもない羞恥心と、究極の心地よさ。どうしてか、このままソラを離したくない、そう思えるのだ。


「あ、あの……恥ずかしいです」

「ん、ああ、ごめん……気持ち良くて、つい」

「な、なぁッ!?」


 ソラは瞬時に頬を赤く染め、瞬間的にパイプ椅子から飛び退()いた。そのまま足をもつれさせるとプレハブの壁面にもたれかかる様にして尻餅をつく。わなわなと震えながら、璃玖を指さしソラは叫んだ。


「ひ、卑怯だ! センパイのくせに、精神攻撃なんて!」

「何の話だよ。俺は素直な感想を言ったまでだ!」

「そ、それを精神攻撃というんですよぉお!」


 普段とは逆で璃玖に赤面させられたソラは、壁際にへたり込んで、思わず顔を手で覆うのであった。





 そんな騒がしい部室の外。プレハブの引き戸の(そば)に、一人の女子生徒が立っている。彼女は手すりに寄りかかりながら、ボブの黒髪をかき上げ、眼鏡をくいと持ち上げた。

 階下を見つめ、苦笑いしながら彼女は呟く。


「ばーか、部室の外までいちゃついてるのが聞こえてるっつーの」

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