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Scene2-9 嬉し恥ずかし衣替え

 帰り道。二人は最短経路である馬の背登山道を下っていく。登る時よりも体力は使わないから今のソラでも問題ないと踏んだからなのだが、一方で下りの方が上りよりも怪我(けが)のリスクが高まる。そこで璃玖(りく)が先行する形で前を行き、崖を越える際にソラを支えるなどの補助をする形を取った。ソラは岩を掴みながら慎重に足を運ぶ。璃玖はその背中に手を添えて、万が一ソラが足を踏み外したときに怪我をしないように支えるのだ。


「そう言えばセンパイ。センパイって“学校に来い”って一言も言わないですね。ぼく、強制連行を覚悟してたんですが」

「そーいうのは時間が解決するかなって。俺はとにかくソラに自信を持ってほしかっただけだよ。俺が心配していることと言えば、中間テストのことだな」


 両手を使ってゆっくりと崖を降りたソラは、下に着くなり手の汚れを(はた)いて落とした。顔をを上げたソラは璃玖を見やるが、ソラの顔に貼り付いていたのは、今にも死にそうな勢いの落ち(くぼ)んだ目で、頰を引き()らせ、(うす)ら笑いを浮かべている、悲壮感漂う表情だった。今朝璃玖が迎えに行った時よりも深刻そうな面持(おもも)ちである。


「中間テスト……忘れてました。いつでしたっけ?」

「週明けからだけど」

「あと三日くらいしかない!? あう、何にも手を付けてないです」


 がっくりと肩を落とすソラ。ちょうどテスト週間に入るくらいのタイミングで学校に行かなくなったため、日程の把握が曖昧(あいまい)になってしまったらしい。そもそも勉強嫌いなのも中間テストの存在が記憶から抹消(まっしょう)された原因に違いないのだが。

 璃玖は今から家に帰って勉強を教えることを提案した。ソラはしぶしぶ了承する。


「じゃあどのみち明日からは学校に行かないとですね」

「来れるのか?」


 今日の登山がきっかけでソラの精神状態は(いく)らか回復したが、根本的な原因は何も変わっていない。他の生徒たちからどのような扱いを受けるのか、今も怖くて仕方ないはずだ。心配する璃玖の問いかけに、ソラは苦笑いで答えた。


「行くしかないですもん。ま、何かあったらセンパイが何とかしてくれます♪」

「ははは、そうだ。もっと頼れよな……おっと」


 ソラとの会話に夢中になっていた璃玖は、木の根に(つまず)いてよろめいてしまった。銀河山(ぎんがざん)はチャートという固い岩石でできた山であり、木の根が地面に潜りきれずに地表を()うようになっているのが特徴だ。気を付けていないと平坦な場所でも転倒してしまう。


「まったく、センパイは気を付けてくだ────」


 その時だった。


「……危ない!」

「わぁッ!?」


 今度はソラが木の根に躓いた。だが場所が問題だった。

 平坦地から急な坂道に変わるその場所は、木の根が毛細血管の如く張り巡らされた難所。登りの際には足掛かりになる一面もある一方、下りでは人を崖下に転落させるトラップに他ならない。

 慌てて璃玖が腕を伸ばし、かろうじてソラの服を掴む。力を入れて彼を引っ張り上げ、しっかりとその体を抱きとめる。危うく頭から崖に落ちていくところだった。

 咄嗟(とっさ)の行動で自分でも頭の整理がついておらず、息を切らせた状態で璃玖は立ち尽くしていた。ソラもまた、璃玖の腕に抱かれたまま呆然(ぼうぜん)崖下(がいか)を見つめている。


「大丈夫か」


 ソラは無言でこくこくと(うなず)く。よほど怖かったのか、ソラの体は細かく震えていた。経験者だろうと低山だろうと、どれほど勝手知ったる山であろうと、登山においては油断は禁物。彼らは身をもって自分の甘さを思い知ったのだった。


「し、心臓がバクバクしてます。センパイがいてくれてよかった」

「お、俺も油断してた。良かった、ソラが無事で──って、あッ」


 璃玖はソラから慌てて飛び退()いた。その際に再び転びそうになるが、なんとか踏み(とど)まる。璃玖は胸を押さえ、ソラからわざとらしく目線を外した。


「どうしたんですか、センパイ」


 急にあたふたし始める璃玖の様子が気になり、ソラは不安に駆られた。心配になって璃玖に一歩近づくが、彼の紅潮した顔を見て、なんとなく事情を察する。ソラは璃玖に助けられたあとの十数秒間、彼と抱き合っていた時の感触を思い出した。


「……そういえばセンパイ、思いっきり胸触ってましたね」

「う゛」


 バツの悪い顔をする璃玖。一方のソラは小悪魔的笑顔を浮かべた。


「あれあれー? さっき、ぼくをぼくとして受け入れるーみたいなこと言ってませんでしたっけ? あーあ、センパイも結局ぼくが女になった事実に縛られるんだー?」

「だ、だってさ……」


 璃玖は過去最高に顔を赤く染めながら、(うつむ)きがちに答えた。


「お前が……可愛いのが悪い」

「──!」


 ソラの胸の奥で、何かがとくんと跳ねた。璃玖に可愛いと言われたことは今までにもある。その時は彼が口を滑らせただけだったのだが、しかし今回は違う。彼は今、自分の意思でソラの容姿が魅力的であると告げたのだ。もはやこれは愛の告白に近い性質のものだ。


「(あれ。なんだろう、嬉しい……)」


 二年の先輩に交際を申し込まれた時は、どこか不快感のようなものを感じていた。それは自身の心の性別(ジェンダー)や性的嗜好(しこう)から来るものだとソラは考えていたが、今の璃玖に対する心持ちを考えると、それは間違っていたようだった。


「(これが恋愛感情に結びつくかはわからない……けど)」


 ソラは心の中で微笑(ほほえ)んだ。それは彼の中で、一つの想いが芽生えた瞬間だったのだ。


「何を馬鹿なことを言ってるんですか。ははーん、わかりましたよ。ぼくの顔がレミに似てるから、余計に意識しちゃうんでしょう?」

「そ、それもある……のか?」

「そのうちレミの代わりにぼくのこともいやらしい目で見るようになっちゃうかもですねー。今だって、この(つつ)ましやかな胸で興奮してたみたいですしー」


 ソラはからかいの言葉を(まく)し立てた。それは彼なりの照れ隠し。本当は自分もドキドキしていたくせに、それを悟られないよう全責任を相手にぶつけるべく小悪魔ぶるのだ。

 ところが璃玖は真面目(まじめ)くさった表情で、照れをも包み隠さずはっきり言った。


「しないよ。確かに女になってからのお前は可愛いと思うし、さっきはちょっとドキドキもしたけど、お前は男友達なんだ。そういう目で見たりは決してしない」


 その瞬間、ソラの心の中にあった感情がより強いものになった。璃玖との接触を機に芽生えた想いが徐々に色濃くなっていく。やがてそれは、“覚悟”となって結実する。


「わかりましたセンパイ。すみませんでした。助けてもらったのに、からかったりして」

「う、うん……?」


 頭に疑問符を浮かべる璃玖をそのままにして、ソラは下山を再開した。今度は璃玖が後をついてくる側になる。前をゆくソラは璃玖を振り返ることなく、口を真一文字に結び、真っ直ぐに前だけを見つめていた。左目から流れた一筋の感情の跡を彼に気づかれないように、ソラは前を向くのだ。


 ***


 翌朝、ソラが学校を早退し、休み始めてからちょうど一週間が過ぎた。璃玖がソラの家の前に迎えに行くと、果たしてそこには、()()がいた。


「おはようございます、センパイ! 今日は良い天気ですね!」

「そ、ら」

「いやぁ、昨日は登山に勉強に、充実した一日でした。今日も午後から勉強に付き合ってくださいね、センパイ♡」

「いやあの、ソラ……お前」


 璃玖の戸惑(とまど)っている表情に気が付くと、ソラは可愛らしく微笑んでみせた。それからその場でくるりとターンを決める。遠心力に任せ、彼女のリボンやスカートがふわりと広がった。ターンが終わると、もう一度彼女は璃玖を見て笑顔を作る。(まぶ)し過ぎて直視できない太陽の笑顔を。


「似合ってますか? 似合ってますよね? レミのお下がりの制服です。ほぉら、もっと近寄ってみてくださいよ。レミの残り()がするかもですよ?」

「どうして……」


 ソラが身に付けているのは女子用の制服。姉から貰った、少しだけサイズの小さい、白い夏服。


「どうしてって、センパイ、今日から六月ですよ。衣替(ころもが)えです、こ・ろ・も・が・え」

「スカートに?」


 ソラは頷いた。


「だってセンパイ言ったじゃないですか。“俺はお前がどんな性別になろうと全部受け入れる。ソラはソラだ”って。だったら……ぼくの、女の子として生きていくって決めたのも、受け入れてくれますよね」


 ソラはあの時。璃玖に抱き止められた時、そして璃玖に可愛いと言ってもらえた時、思ったのだ。璃玖と一緒ならば、これから女として生きていくのも悪くないのではないかと。男の人を好きになって、お付き合いをして、結婚をして……。そんな未来を選ぶこともできるのではないかと。だから決めたのだ。今日この日、自分は女になると。

 ソラはそんな内心を璃玖には直接伝えない。ただ、自分は本気であることを目で(うった)えかける。璃玖もまた、ソラの本意を眼差(まなざ)しから受け取った。軽く頷いた後、彼はこう言った。


「わかったよ。それがお前の選択なら、俺はきちんと受け入れる。────少し時間はかかるかもしれないけど、お前のこと、ちゃんと女の子として見られるようにするから」

「ありがとうございます。そう言ってくれると思ってました」


 ソラは照れた表情で鼻の頭を()く。その後、一歩踏み出しかけて、少し迷った素振りを見せた後、璃玖の腕に飛びついた。驚きを隠せない璃玖は、目を丸くして狼狽(うろた)える。


「ちょちょちょ、おま、何を!?」


 ソラは上目遣いで璃玖の顔を(のぞ)き込み、


「えへへ、センパイには一刻も早くぼくを女の子として意識してもらわないと、ですから♡」


 舌をチラリと出してから、少しして満面の笑みに変わった。

 璃玖は頭を掻きながら、その腕にソラの温もりと柔らかさを実感しつつ、こう思う。



 ────女になった後輩があざとすぎてつらい。



次回よりScene2に移ります。

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