Scene2-3 雨に溶ける
それから二日が過ぎた木曜日の正午過ぎ。
昼時だというのに、生憎の曇り空である。
璃玖は銀河山のロープウェーの中にいた。
山頂へ向かうゴンドラの中には、璃玖以外に大学生っぽいカップルが一組と、三人組の老人グループだけ。
休日の賑わいと比較すると随分とゆったり乗っていられるものだ。
だが璃玖は一人、緊張の面持ちである。
彼は麓の駅でゴンドラに乗り込んでからずっと、携帯端末を気にしていた。
手にした端末の画面には、ソラからのメッセージ。
『今からデートしましょう。待ち合わせ場所は、ここです』
そう言って添えられた写真には、見覚えのある展望台からの遠景があった。
どう見ても銀河山の山頂である。
しかし、今は平日も平日。
この時点で璃玖には嫌な予感しかしなかった。
ソラが学校をサボるからには、それなりの理由があるはず。
しかも璃玖を呼び出したのは『はじまりの場所』、二人の恋を象徴する場所である。
何も無いと考えるほうが不自然だ。
(ソラ、お前、何を考えているんだよ)
展望を売りにしているロープウェーの中、璃玖は一人、壁に背を付けて、近づいて来る山頂駅の方を見ていた。
────
──
駅に辿り着く頃には、ポツリポツリと雨粒の冷たさを感じるようになった。
予報では雨マークはついていなかったのに、運が無い。
山頂広場を駆け、璃玖は展望台へと急ぐ。
こんな冷たい空の下、彼女はずっと彼を待っているのだ。
雨のせいか、展望台から降りてくる人はいても、登っていく人間は見当たらない。
一階の売店スペースへ雨宿りに駆け込む人を尻目に、璃玖は外階段を駆け上がった。
そうして目的の場所に辿り着くと、そこには──。
「待ってたよ、璃玖」
「そ、ら……」
肩まで伸びた栗色の髪を風になびかせ、今日の空と同じ灰色の瞳を璃玖へと向ける。
身に付けている衣装は、デートの際によく来ていたゆるふわなファッションではなく、ソラの好きなアウトドアブランドのジャージである。
悲しげに微笑むソラ。
その姿は、中性的な印象を与える、青年のそれだった。
「へへ。びっくりした? 元に、戻っちゃった」
「声も、男の子だな」
「うん。なんか前より声変わりしたみたい」
ソラの容姿は璃玖の記憶の中にある少年のものとも少しだけ違っている。
揺れる長髪に垣間見える精悍な顔立ちは、美少年と呼ぶのがやや躊躇われるほどに大人びていた。
「お前、どうして」
璃玖はフラフラとソラに近づく。
ソラは璃玖に背を向けて、展望台の手すりに体重を預け、遠くの景色に目を細めた。
「【性転換現象】って、因果の乱れ……その人個人の持っている『可能性』のバグなんだって。ぼくの場合、女として生まれてくる可能性もあったみたい。隠れた『もしも』が現れちゃった人っていうのが【バグリー】になるんだよ」
「そんな話、聞いたことないぞ」
ソラは顔だけを璃玖へとむけて、くすりと笑う。
「えー? たまに番組に出てるでしょ? 黒の魔女がどうとか~って騒いでる自称専門家。あの人の言うことが真実なのに、オカルト扱いされちゃって誰も聞いてないんだって、皮肉だよね」
「魔女」
璃玖にも確かに聞き覚えのあるフレーズだった。
璃玖自身、その人物が出ていた番組を「くだらない」と切り捨てたことがある。
「そう。黒の魔女。ぼくも会ったことがあるよ。夢の中で、何度も……」
魔女というのはこの世全ての観測者なのだとソラは言う。
時間に囚われない不思議な空間で、様々な事件を俯瞰して悦に浸っている性格の悪い女。
時には個人の魂に干渉して、夢のお告げのようなことをする。
「そうか。それでお前は自分が男に戻ることを知ってたんだな」
ソラが学校で茉莉に話をしていた時、男に戻るという未来について確信めいた話しぶりだった理由がこれで分かった。
超常現象よりも超常的な力で、あらかじめ結果を知らされていたのだ。
「……うん、そうだよ。ぼくは知ってた。自分の因果律が不安定で、いつ元の性別に戻ってもおかしくない状態だってこと。ははっ、世界でたった一人だって、超常から回復した人間は! 凄いよね、明日のニュースになっちゃうかも!」
片方の口角だけを持ち上げて、顔を歪めるソラ。
璃玖にはソラがどことなくヤケを起こしているように見える。
折角男に戻れたというのに、この態度。
ある意味では偏見に晒されて引きこもった一年前よりも酷い。
彼は手すりに寄りかかったまま璃玖の方へと身体を反転させる。
腕を柵の上に乗せた姿勢で、歪んだ笑顔を崩さずに、小さな雨粒の落ちてくる方向をただ見上げた。
「正直言うと、いずれ男に戻っちゃうことは璃玖と付き合う前からわかってたんだ。それなのに璃玖に告白して、カノジョなんて名乗ってさ! 悪いやつでしょ、ぼく」
「そんなことは──」
「いろはちゃんと会ってた時もさ、同じ理不尽に巻き込まれた仲間みたいな顔してたけど、本当はぼくには元に戻れる未来があるって知ってたんだよ。知ってて仲間のふりをして、打ち解け合ったつもりになってたんだ。……ほら、ぼくって酷い人間でしょ?」
「何が言いたい」
自分を卑下するようなことばかりを言うソラ。
本当はソラには悪意など無いに違いない。
一方で真実を黙ったまま行動してきたことは事実であり、後ろめたい感情を抱き続けてこの数か月を過ごしてきたことは想像に難くないのだ。
今、何も隠し立てする必要がなくなったからこそ、ソラはこれまでに溜め込んできた負の感情を吐き出している。
まるで、これまでの悪行を断罪して欲しいかのような口ぶりで。
「こんなに酷い人間だから、さ。ぼくは……」
瞬間、璃玖にはわかった。
ソラが何を言わんとしているのかを。
その言葉の続きを言わせてはいけない気がして、でも、ちゃんと聞かなきゃいけないような気もする。
結果、璃玖の口は空気を食むだけで、彼の想いはただ湿った吐息となって春の雨の中に溶けていく。
「別れましょう、センパイ。……ぼくは、あなたの彼女になれて幸せでした。今までありがとうございました」
ソラは微笑む。
泣き虫なはずの彼は、一切の涙を見せていなかった。