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Scene2-6 水筒スイート

 翌朝七時。平日にも関わらず、璃玖(りく)は私服で家を出た。親にも見つからないよう、出掛けの挨拶(あいさつ)もせずに。

 自宅ガレージの自転車に(またが)ってソラの家に行こうとした時、家のリビングの辺りからコンコンと音がした。慌てて振り返った璃玖は、窓ガラスをノックしている自分の母親と目が合ってしまう。

 しまった、バレた。そう悟った璃玖は逃げるように自転車を()ぎ出すが、母親は窓を開けて叫んだ。


「璃玖! あんた靴はそれで良いの!?」


 靴。璃玖は自分の足元を見てはっと気付いた。今履いているのはごく普通の運動靴。今からやろうとしていることを考えると、確かにそのままでは良くない。せめて替えの靴を荷物に入れておかなければ。璃玖はやむなく家まで戻る。そして母親と対面する羽目(はめ)に。作戦は失敗だ。


「あんたさぁ、学校へはなんて言うつもりだったの」

「ごめんなさい。駅の階段で転んだことにしようかと」

「……風邪ひいたって伝えとくわ」


 母親には璃玖の計画などお見通しの様子だった。彼女は璃玖に靴を渡すと、ぽんと背中を押す。


「行っといで。ソラくんを待たせてるんでしょ」

「なんで知ってるのさ」

「母さんは璃玖のことなんて全部わかるんだから。さ、行きなさい」


 璃玖は(うなず)いた。作戦は失敗だけど、計画の滑り出しは順調みたいだった。今度こそしっかりと母親にいってきますを言って、璃玖は自転車を()る。今度は自分が後輩の背中を押す番だ。

 風になって走った。風を切って走った。雷の如く走った。交通ルールは守った。

 そうして隣の学区のソラの家へ辿(たど)り着くと、高校の指定ジャージを着たソラが玄関先に立っていた。ソラの表情は今日の天気と同じ(くも)り顔。だが璃玖は知っている。今日は午後から晴れるのだ。


「おはよう、ソラ」

「センパイ……あの……」


 暗い顔のソラは何かを言い(よど)むが、それを(さえぎ)って璃玖が叫んだ。


「あ! つーかお前着てるの高校のジャージじゃん」

「へ、だってセンパイがジャージって」

「そっちじゃなくて、いつも使ってるほうをイメージしてた。今から着替えてこれるか?」

「……え、でも学校」

「今日は違うところに行くんだ」


 状況が全く飲み込めていないソラは、眉間(みけん)(しわ)を作りながら目をキョロキョロさせている。無理もない。ソラは璃玖が自分を学校へ強制連行するつもりでいると思っていたのだ。どちらにしてもジャージである意味がわからないが。


「とにかくさ、学校名が入ってるのはマズイんだ。あと、それから、トレッキング用か登山用のシューズ。すぐ出せるか?」

「と、登山!?」


 ソラは、璃玖がどこに連れて行こうとしているのかようやく理解した。事前準備もなしに、トレッキング用のシューズを履いて出掛けるような場所などこの辺りでは一箇所(いっかしょ)しかないのだ。

 璃玖は白い歯を見せつけるような満面の笑みで言った。


「ソラ。一緒に学校サボって銀河山(ぎんがざん)に登ろうぜ!」

「えぇぇえ……」


 ***


 銀河山は璃玖たちの町から一駅分離れたところにある低山で、標高は三二九メートル、平野の中にひょっこり聳え立つ姿から、市のシンボル的存在になっている。山頂には戦国時代に築かれた城の跡があり、ロープウェイも通っているため観光地としても人気である。登山道も(いく)つか整備されており、中でも難易度の高いコースは本格登山に向けた体力作りとして日々のトレーニングに利用する人もいるほどで、ハイキング人気も高い。

 璃玖たちは自転車に乗って山の(ふもと)まで移動し、公園の駐輪場に自転車を停めるとそのまま売店などはスルーして、脇目(わきめ)も振らずに登山コースへ突入した。アウトドア部に入っているだけあって、彼らは無類の登山好きなのだ。


「ハァ、はぁ。センパイ待ってくださいよぉ! き、キツイですって」

「まだ分岐前だぞ、ファイトだソラ」

「う、馬の背登山道に行く気ですか。あそこは今のぼくには難易度高いですよ!」


 璃玖が普段使っている馬の背登山道は、山の稜線(りょうせん)を一気に駆け上がる傾斜のきついコースである。そのかわり麓から山頂までをほぼ一直線で結んでいるため、慣れている者ならば三十分ほどで登山ができてしまう最短経路でもある。馬の背登山道への分岐には【注意! 健脚向けのコースです!】とあり、迂闊(うかつ)に入らないように(うなが)されているほどだ。女性になって間も無く、自身の体に慣れていないソラにはかなり厳しい道のりだった。


「今のソラ……あ、ごめん。性転換してたの忘れてたわ」

「ちょっと、忘れないでください! 全く、センパイは肝心(かんじん)なところが抜けてるんだから」


 ぷりぷり怒りながら歩くソラ。立ち止まっていた璃玖を追い抜かし、今度はずんずんと先へ進んでいってしまう。

 そんなソラの後ろ姿を目で追いながら、璃玖は安心から肩の力を抜いた。学校のことを考えなくて良いからか、趣味の登山に(きょう)じているためか、ソラはいつもの調子に戻りつつあるように見える。少しでも気を(まぎ)らせてくれたなら璃玖も誘った甲斐(かい)があるというものである。元気よく歩くソラの後に続いて璃玖も登山道を進んだ。

 そして間もなく馬の背登山道への分岐点が見えてきた。分岐点となっているのは大昔に神社があった場所で、今は開けた広間のような空間となっている。二人はその場所にあるベンチに腰を下ろし、休憩を挟むことにした。


「ああ、もう。こんなところで休憩なんて、前のぼくなら絶対あり得ないですよ」

「そのうち体力も戻ってくるさ。一旦お茶でも飲もう」


 璃玖は自分のリュックから水筒を取り出すとボタン式の(ふた)を開け、冷たい麦茶で喉を(うるお)した。ふと横目で隣を見れば、ソラは何やら困ったような目で璃玖を見つめていた。


「センパイ、ぼく水筒を家に置いてきちゃったみたいです」

「すまん、朝慌てさせちゃったからだな」


 璃玖は特に何も考えずに自分の水筒をソラに差し出した。水筒に伸ばしかけたソラの手が止まる。どうかしたのかと(いぶか)しむ璃玖が顔を見ると、ソラはばつの悪いような表情を浮かべていた。


「どうかしたか?」

「あの……良いんですか?」


 ソラは少し紅潮(こうちょう)し、(うつむ)いた。


「間接、キスですけど」

「ん? 今更気にするような間柄……じゃ……」


 璃玖は気がついた。璃玖自身はソラが女になったところでそういったことは全く気にならない。なにせ、部活中に茉莉(まつり)など他の女子部員と飲み物を回し飲みすることすらあるのだ。

 気にしているのはソラの方。とはいえソラだってアウトドア部で璃玖と同様にペットボトルを回し飲みしたことくらいある。だから、これはソラが自身の性転換に対して抱いている強烈なコンプレックスの発露(はつろ)なのだ。


「……気にすんな、飲め」

「でも」

「大丈夫。それより熱中症になる方が心配だ」


 ソラの表情が(ほころ)んだ。


「じゃあ、いただきます」


 水筒の飲み口に口を付け、こくこくと喉を動かすソラ。彼の柔らかな唇から(わず)かばかりにこぼれ落ちた茶の(しずく)が、その細い首筋に向けて線を引いていく。その姿に思わず見惚(みと)れてしまう璃玖だったが、いかんいかん、と両頬(りょうほほ)を叩いて思考を真っ直ぐに保つ。これはいつもとなんら変わりのない光景なのだ。この山で、ソラと二人でお茶を飲む、そんな普段通りの行為なのだ。特異なことは、特別なことは、何もない。


「センパイももう少し飲みます?」


 ソラが水筒を差し向けてきた。璃玖は礼を言うと、その飲み口に唇を近づけ……。




 “────へぇ。璃玖くんは私との間接キス、気にしないんだ?”




「ッ……!」


 璃玖の脳裏に、いつか見た光景がフラッシュバックする。その瞬間に、意識してしまった。ここに、数秒前までソラが口付けていたのだと。あの柔らかな口元を思い出して、璃玖は一瞬、お茶を飲むのを躊躇(ためら)った。

 いけない、と彼は気を持ち直す。先刻気にしていないと発言した手前、ここで躊躇(ちゅうちょ)などすれば、ソラに失礼だ。


「センパイ」


 ソラが声を掛けてきた。


「やっぱり気にしてるんですね、間接キス」

「そ、そんなことはないぞ」


 これはソラを傷つけてしまったかもしれない、と璃玖が横目でソラの様子を伺うと……。


「にやにや」

「う゛」


 さも楽しそうに、ソラはにやけ(づら)を浮かべているのだった。


「センパイって」

「なんだよ」


 璃玖は茶を口に含んだ。ソラは言う。


「可愛いですね」


 璃玖は茶を吹き出した。

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